「大矢透博士自伝」

大矢透
『國語と國文學』第五卷第七號 1928



 自分は嘉永三年庚戍十二月三日の生れ、舊新發田領越後國中蒲原郡糧岸村中高井、名主大矢辰次郎の七子で、九人の同胞の七番だといふところから幼名を又七郎と命けられた。父は不幸にして自分の六歳の時歿し、こんな人であったと朧氣に記憶にある位のものに過ぎない。父亡き後は兄共は未だ幼少であつたから、專ら母の教を受けた。母は臼井村の翳師西潟の女で。その父即外租父は相當の學問もあり、醫術の傍ら一郷の庄屋組頭の子弟を集めて學問を教へてゐたので、自分の母の如きも幼時から教育を受け、一通りの漢籍をも讀んだらしい。西潟の伜西潟敏之助といふのが、後に世に知られた大審院判事の西潟訥《オソシ》の幼名で、即ち自分の外叔父である。自分の長兄は幼名益之助、後に益彦と改め、次兄は昌山と云つた。實は叔父の西潟訥が早く家を出て四方に遊んだため、祖父は自分の次兄を養うて醫師の相續者とするつもりで昌山と名のらせたものだ。
 自分も初めは近所の小兒と共に隣村の夏穂《なつほ》の庄屋の中村といふ人の家へ行き手習をやつた。この人は文徴明風の書を書いたもののやうである。十歳のころからは叔父の宅へ通うたり、また自宅で教はったり、まづ朱熹の小學内篇の素讀を受けた。元來新田藩は朱子學であつたから、領内でも率ね朱子派の學問をやつたものだ。朱子派では大學を數へす、直ぐに小學から始めるのが例である。
 自分は生來愚鈍で記憶も悪く、萬事に疎かつた爲に常に、長兄には蔑視されてゐた。そのころ中《なか》の口《くち》川が破堤し、濁水郷内に溢れ、通學することが出來がたいため家《うち》に數十日もゐたことがある。あるとき、長兄か自分を呼び、素讀をやらせた。ところが、自分は悉く忘れてしまつて一句も讀み下すことが出來ない。すると、兄は大いに怒つて、お前のやうなものには學問をやらせても張合がない。これから以後、下男などと共に農業をやらせるといふ。自分は小兒心に兄の嚴責が悲しく、泣く泣く母の許へ往つて訴へた。ところが、母は笑ひながら、マアよいからこれを讀めと云つて授けられたものは一冊の草艸紙であつた。これを讀むと實に面白い。これに興味を得たのがもとで、後には家中にある草艸紙を悉く讀んだ。
 當時、宅に友松《ともまつ》といふ下男が居つた。これは宅の出入のものゝ息子であるが、若いとき商家に勤めたこともあつて、多少の文字もあり、常に暇さへあれば軍書を讀んでゐた。友松があるとき、自分に繪本大閤記を見せたから、讀んで見ると實に面白い。日ならずして讀みつくす。友松の話によれば、一里川上の白根《しらね》町の貸本屋から借入れたといふので、自分も母に請うて白根の貸本屋へ行き、宮本武勇傳・荒木一代記その他の軍書本を借りて歸つて讀んだ。こんな風にたびたび自根へ往ったが、歸る途中地藏堂か何かで讀んでしまつて、そのまゝまた白根へ引返して借り替へるといふやうな滑稽もあつた。こんなことが兄に知れると叱られるから隱して讀んでゐたのだか、自分の家は貧乏名主で、畑仕事くらゐには誰でも出る。自分も二歳上の姉と一緒に豆の草取に出たことがあった。かういふ時でも軍書本は必ず離さず持つて行く。姉は女心のやさしく、草取は私一人でやるからお前は本を讀んでおいでといふので、自分は柿の木の下で讀むといふやうなわけで、軍書本は殆ど晝夜讀み耽つてゐた。尤もこの間にも、母は慈愛のうちにも嚴格なところがあって、常に忠恕の恕の意義を説き、この一字を生涯の守りとすべきこと、惡いと思ふことは決して行うてはならぬこと、虚言を吐いてはいけないこと等、行往坐臥訓戒したものである。自分は七十八歳の今日まで、徳義上非難を受けるやうな行爲のなかつたことを確信すると共に、これみな幼時における慈母訓戒の賜といはざるを得ない。
 あるとき、家兄が小林家から一部の書を得て來た。これは外叔小林敏之助(後に西潟訥)が漢學の師なる加茂の神官山伏宮房であつた雛田松溪といふ人の家から持歸つた、平田篤胤の「出定笑語附録」である。家兄はこれを得て、一家族を集めて讀み聞かせたが、自分はその時非常にその説を信じ、爾來平田の著書は勿論、本居宣長の古事記傳等より、次第に國書に眼を曝す樣になつた。家兄は名主たる公務のために日常繁忙であったが、自分にはそれ等の累ひもなく、日夜讀書に耽ることが出來たゝめ、後には家兄も自分の説を聽くやうになつて來た。かゝる間に次兄昌山が醫學修業中病死したので、母や兄から、その後ぎ繼が醫師となるべきことを勸めちれ、止むを得す日々臼井村に往き、外祖父に從ひ、醫書を讀んだ。中には蘭書を譯した生理學もあり、また平生本草學を好んでゐたゝめ、醫書以外、本草綱目を讀むことを樂しみにしてゐた。
 そのころより、程なく洋人の渡來あり、維新前の薩長の征幕となり、官軍進んで長岡城を攻略するに至つた。この時溝口藩は從來の關係上、會津藩を助けなければならぬ譯合から、兵を長岡に出すことゝなり、領内の名主組頭もしくはその子弟を募つて、あらたに銃隊を作り、もつて軍隊の不足を補ふことゝなった。自分は兄の代りとしてこれに充てられ、十七歳をもつて新發田城下に赴き、銃隊に加はり、長岡城にちかき見附町に宿陣し、たび/\會津。米澤の兵と共に長岡城を攻撃し。銃砲の下を潜ること數回であつた。そのうちに、家兄は他の父兄數人とゝもに兄附の宿所へ來て、官軍が松ケ崎へ上陸したことを告け、兎に角一まヅ歸れと云つて、自分を促して歸郷したので、母は大いに喜んだ。すると間もなく、新潟から叔父の西潟か迎ひをよこしたので行くと、官軍に附屬するやうに説き、直ちに勤王黨で北辰隊長たる遠藤七郎に紹介し、隊長は自分を北辰隊訓導に命じた。そのとき遠藤の弟八郎か半隊長となつてゐたが、自分は年も上のことで八郎を助ける任務を帶びたわけである。北辰隊はかねて官軍總督の命を奉じて佐渡の戊兵となつてゐたので、佐渡夷港へ上港したのがすなはち明治元年十二月であつた。
 自分は木津の戊兵となりて同所に宿陣してゐたが、居ることいくばくもなく、一人の兵士か翼野山附迄で古い玉冠樣のものを發見して届け禺κ。眞野山は人も知る熟、〕とく、承久亂離の昔、佐渡へ遷幸崩御になつた順徳院の御茶毘所であるから、もしやと思うて、西潟や伊藤(甥故大審院判事伊藤悌治の養父)に告げ、いろ/\調査研究を逾げると、正しく順徳院の玉冠だといふことが明かになったと共に、京都の宮内省へお納めすべきものであると決議し、そのお俘を自分にいたせといふことになった。明治二年、自分は玉冠を唐櫃の中へ、納め、小木港を發して柏崎へ上陸し、北陸道を經て上洛、三月京都に省し、宮内省へ出頭して委細上申に及んだ。ところが、同賓でも大いにこの擧を賞美あり、大臣の意によりて鑷津水無瀬の順徳院御陵に納むることゝなり、これまた自分に命令かあったので、自分は神戸に、王り、滯りなくその任務を果し、歸路は東京を經て新潟へ歸りセ以來北辰除を去り、郷里の根岸村へ歸つた。
 郷里へ歸つてからは、學校の監督のやうなことをやった。この時分には一郷に一つの學校かあつたのみで、これが臼井にあつ丸。この學校の教員は新發田藩から派遣された上野、某といふ人で、たしか上野喜永次君の兄君だつたと思ふ。自分は友人の田澤實入君と、もにこの學校の監督をしてゐたのである。明治三年の秋八月、新潟L迹び、不圖新潟皇學校の表札か眼についた。入つて見ると、新潟縣最初の沚寺諜長の小池内廣翁が新潟皇學校を開設し、自ら校長となり、縣内の神主連中を集めて皇典を教授してゐることがわかった。自分は國學には親しみをもつてゐたので、小池翁に入學を講うて許され、後、いくばくもなく同校句讀師を命ぜられた。この學校には國學の書物が澤山あつたので、自分にとつては大いに盒をなした。そのうちに小池翁は伊勢へ轉勤されたために自分も罷のた。
 そのとき、この新潟皇學校の同窓で親しく交つてゐるもの、うちに、新津の桂重章と炉ふ人があった。自分がこの人との交際の端繕についても一條の物語があるが、兎に、角、ある事情で桂君が自分に信服し、爾來懇意の間柄となり、自分が新潟皇學校へ入學するや、矢張り自分を追うて同じく入學してゐた。自分がこの時分から讀書以外に何一つ出來るものがない程、無能であるところから、自分に同情してくれて、近時歳月を逐うて諸學校がさかんに起つて來るに相逹ない。從つて書店を開けば大いに利盆があると思ふ。一つやつて見てはど、冫か、乏いふ。自分は書店はいいかも知れぬか、然し資金がないから駄目だといふと、ナニそれは本家(新津の桂家)へ頼めば出來るといつて勸めるので、自分もその氣になり、重章君と共に桂太家々訪うて主入に懇請したところが、早逑承諾され、取敢ず百圓を貸與せられ、その後また世五圓拜借した。當時の金で前後百世五圓といふ金は相當の大金であるのに、た貸ちに貸與されたといふのは、分家の桂重章君の斡旋よろしきを得た結果であることは勿論だが、桂家の主人が相當の理想をもつた人であつたためでもあらう。自分はこれに力を得て、今はもう故人になつたであらうか、新潟の日野徳三郎、君等の壷力もあつて書店を開き、なんでも自分が讀本やうのものを著迹して出版もしたやうだ。しかし生來世務に疎膏自分が、殊に若年の無經驗者だから、成功しようはすがない。數月を保つ能はすして倒れ、また郷里へ蟄息してしまった。爾來自分は全く物質的事業には天分の皆無なることを知つて、全然手出しをしようとも思はない。そんなこんなで桂家からの惜金はその後記憶にはあるといひ條、返濟も出來なかつたが、近頃ある知人か桂家からその證書を貰ひ受けて來てくれたので、桂家の當王の好意を感謝してゐる。
 明治五年三月教導職訓導を拜命、六年二月投票により新潟縣十九大區郷社諏訪神祗祠掌となつた。八年に官立新潟師範學校が設立された。この時の師範學校は全國において八校だけ設置されたもので、新潟は五港の一だといふところから、その中に加へられたものである。自分は訓導及び祠掌を辭して直にこの師範學校へ入學した。自分は前に云へるが如く、かつて新潟皇學校に入り、國書を讀んだ結果、この方の學科は相當の素養もあつたので、その他①學科即ち生理」物理・化學・動槌物擧といつた方に力を注いだが、自分の如き鈍才にしてなほ同校卒業の際には第三位を占むることを得、後、各縣師範擧校。中學校に教鞭を執つた際にも大いに便宜を得た。
 明治九年十一月山梨縣三等訓導起任し月給金二十圓給與せられ、山梨縣師範學絞へ勤務を命ぜられた。その後友人の村田忠恕といふ人の勸めにより、翌十年二月茨城縣師範學校に轄任、師範畢校三等訓導に任ぜられ、同十二年三月茨城縣師範學校二等教師、同十四年八月同二等助数論に任ぜられ年給二百七十六圓支給、同十六年茨城縣師範學校一等助敬詼に任じ年俸三百圓を給興ゼられた。この間水戸で妻を娶つた。同十七年九月土浦の茨城第二中學校三等教論に任ぜられ、年俸三百六十圓給與されたが、同十九年九月同校廢止と玉もに自分も廢官となつた。
 自分は中學校教諏が廢官となったので上京した。當時田中東作といふ人が、教育に關する圖書を刊行する普及社の王筌で、自分は豫て知合であつたが、此人が當時文部省の教育局長といつたやうな位地であつた伊澤修二氏に紹介してくれて、この伊澤氏の手で明治十九年十二月、文部省雇編修局詰を命ぜられ月給三十圓給與せられた、同廿年十二月には文部屬に任じ判任官六等に叙せられ、廿三年六月總務局詰を命ぜられ、廿四年三月非職となり、廿七年三月非職満期となつた。
 文部省在職中及びその以後に於ても、伊澤修二氏には一方ならぬ好意をうけた。元來伊澤氏は非常に偉い人であつたか、同時にまた非常に短気な人であつたから堪まらない。氣に入らぬと火のついたやうに怒る。所が、白分がまた極めて直情裡行にて、意見が違へば直ちに反對する。かつて大勢の職員のゐる前で、伊澤局長が何だか無理なことを云ふたので、自分もカッとなり、之に反抗して下らず、たちどころに大喧嘩となり、同僚の取りなしで止めた。しかし、伊澤氏は根か立派な人格の人だから、喧嘩のあとからすぐ柔かになつて、それ以來はかへつて前にもまして懇意となつた。
 自分は文部省在職中、國語教育に關するものに興味をもち、これが著作を試み、明治廿二年に「小學讀本」、廿四年に「わつかのこらへ(童話)」、廿六年に「大東讀本四卷」・「大東商工讀本四卷」等を公けにした。
 自分が文部省から非職となつた當時、伊澤氏は既に文部省を去つて教育學館の餓長となり、大日本圖書株式會社にもとして臺灣方言の調査と、臺灣小學校の教科書編纂に從享した。この前後に亘り"自分が國語教育に關する著作は、明治卅二年に刊行した「國語溯源」、卅五年の「臺灣教科珊書國民讀本」・「教授用掛薗」を初め、「語學指南」。「東文易解」等であつた。
 明治三十五年四月、文部省内に設置せられた国語調査委員会の補助委員を嘱託せられ、明治四十年二月、同調査会廃止に至るまで、その職務に従事したのである。
 さて自分が仮名の研究に一生を委ねようと考へたことは、正にこの時に端緒を得たもので、これについては面白い話がある。当時東京女子高等師範学校教授の町田則文氏が自分への話に、同校長の高嶺秀夫氏が石山寺から齎し来れる一冊の古経巻の傍訓に研究すべきものかあるやうだか、一見されてはどうかといふことであった。自分はこれを聞くと直に高嶺氏を訪問して請うてこれを一見した。この経巻は、高嶺氏が官命にて京阪地方を巡回し、諸社寺の宝物調査をやつた際、江州石山寺の調査に尽力した労に酬ゆるため、同寺から贈られたものださうな。ついてこれを見るに、傍訓の朱字や墨字に字態の珍らしいものゝ少くないことを発見したが、これを読むにも相当の時間を要するので、高巓氏から借りて帰った。帰つてから一通り見てこれを差置いた。ふと見れば不思議にも朱墨二点とゝもに数多の白点を交へてあることを発見し、驚いて明処に向つて見れば白点は見えず、机辺に置けば白点が見える。さてはと思ひ、注意して見れば、白色は全く明処に向つてはかへつて見えないものだといふことを覚知した。
 さてこの古経巻に就て、さらに白点の仮名と字態とを注視すれば、記・紀・万葉等の奈良朝時代のものゝやうで、実に珍らしいものであるから、たゞちにその一部分を浄写し、後、之を仮名遣及仮名字体沿革史料に加ふることゝした。この高嶺氏から借入れたものを研究したところによれば、これは唐鏡中沙門神逍著「法華文句」第一巻であつて、もと廿巻あつたものであらう。書体は天平時代を少しく下つた程のもので、首から半過るまでは行筆やゝ謹厳なるも、末尾の近づくに随ひ漸く粗略となつて、暗に根気もすでに竭きて、書写他巻に及ばざりしを示してゐる。全巻白点・赭墨及び朱の三通りの訓点かある。熟視すれば赭墨が白墨の上に重なり、朱点間々赭墨を避けて書入れしてある処から見て、白点が一番先で、赭墨これに次ぎ、朱点は最も後に施したものだといふことが明瞭になつた。また仮名の字体が三点とも相類似するところから推せば、ほゞ同時代の人の手になつたといふことも疑ひなく、かつその時代に真仮名の多きと、「テ」の仮名に「弖」を用ゐたことなどから考へて、ほゞ推測することが出来ると思ふ。自分が偶然にもこれを発見したときは実に嬉しく、殆ど手の舞ひ足の踏むところを知らざる位のものであつた。
 この白墨の傍訓を発見してよりは、矢も楯もたまらない。国語調査会長に依頼し、夏休を利用して京阪地方巡回を希望し、其快諾を得たので、明治四十年八月一日先づ石山寺に至り、金剛般若集験記・大智度論等十四部を調査し、夫より京都知恩院、奈良興福寺・法隆寺、その他各地の古社寺等を歴訪して見ると、さきに発見したものゝ如き、及びその他貴重なる新史料が続々発見されるので、全部これを蒐集し、帰京の後、これを研究整理し、つひに拙著「仮名遣及仮名字体沿革史料第一」を完成することゝなり、明治四十三年帝国学士院において開版するにいたったわけである。この研究については、自分も相当苦心したもので、史料の古典に、本文は勿論、傍訓の白・赭・朱三の点とも、実物と寸分違はぬやうに臨摸或は釣録し、一字をも余さずこれを解釈したもので、その材料は実に非常の分量にのぼったものである。自分の仮名研究の動機は、これから得たもので、一生をこの研究に委ぬべき決心も、これから起ったものである。(中略)
 研究すれば研究するほど、一層徹底的の研究を要する問題が起つて来る。そのうちに国語調査委員会は廃止せられたので、茲に自分は専心仮名の研究を遂ぐべき決心を定めた。しかしこれには多少の経費が要る。貧乏な自分には困難だ。なんとか方法はあるまいかと、かねて自分の研究に同情を寄せられた上田万年博士・沢柳政太郎博士等に相談したところか、それは啓明会の補助を仰いだ方がよからうといはれ、同博士等の尽力にて、当分の間年々千八百円宛の研究費を補助せられることになつた。これが大正八年三月である。当時帝室博物館の総長は故森林太郎博士であつたか、非常に好学の人で、自分に対し奈良で研究した方がよいと勧められ、終に思ひ立つて奈良へ移住し、同年より大正十二年まで、足掛け五年間同地に居住し、専念研究に没頭し、大震災の五日前に帰京した。
  この奈良の在住中は、正倉院の御本をはじめ、畿内各古社寺その他舊家所藏の古典を出來得るかぎり研究した。恰もよし、正倉院聖語藏の古經巻が修繕のため奈良帝室博物舘内に保存せらるゝに逢ひ、森總長の好意にて、三年間内覽研究の便宜を與へられた。このことはいまなほ自分の感謝措く能はざるところである。この間「假名遣及假名字體沿革史料」の第二として研究したものは左の通りである。
 一、地藏十輪經元慶點 大正九年十二月刊
 一、成實論天長點 大正十一年三月刊
 一、願經四分律古點 大正十一年八月刊
   以上既刊
 一、聖語藏御本唐寫四分律古點 大正十二年稿
 一、同阿毘逹磨雜集論古點 大正十一年縞
 一、同景雲爨嚴響點 大正九年稿
 一、同央堀魔羅經古點 大正九年稿
 一、同菩薩善戒經古點 大正九年稿
 一 同金剛般若繕讃蓮(嘉群點) 大正十二年稿
 一 西大寺本盆光明最勝王經古點 大正十年稿
 一 聖語藏御本成實論(天長點) 大正十年稿
 一、同唐寫説無垢經古點 大正十二年稿、
 一 同華嚴經探玄記古點 大十二年稿
 一、東大寺本金剛般若經讃述卷上古點 大正十二年稿
 一 聖語藏御本十住毘婆娑論序品第一古點 大正十年稿
 一、同中觀論古點 大正十年稿
  以上未刊
 一、最勝王經古點 大正十年稿
 一、辨中論古點 大正十年稿
 一、唐寫阿毘曇經古點、大正十一年稿
 一、大乘十二門論古點 大正十一年稿
 一、大霾掌珍論古點 大正十一年稿
 一、義章問答古點 大正十一年稿
  以上未定稿
以上は主として奈良において研究したものである。
 大正十二年九月に東京へ歸つてから、奈良において蒐集したる資料を整理し、豫ての研究に成れる「韻鏡考」を著述し、これを大正十四年に刊行した。實は、去る大正五年に、自分が帝國學士院から恩賜賞を授けられたときに、知り合の學者から、學位講求論文を帝國大學へ提出するやうにと切りに勸められたが、當時自分の考としては、自分の研究には未だ餘地が相當にあると信じたので、知人の勸説に從はなかった。ところが、奈良在住五年間の研究により、いかなる方面よりするも最早動かすべからざみ確信を得た。、そこへ京都大學の懇意な諸君からたつての勤めに任せ、大正十二年中、學位講求論文として「假名の研究」の一篇及び參考論文數篇を提出して置いた。それが同大學文學部教授會において審査の結果、一昨大正十四年、即ち自分の七十六歳の年に左のとほり文學博士の學位を授與せらるゝことゝなつた。、
      新潟縣 大矢透
 右者論文 假名ノ研究ヲ提出シ學位ヲ請求シ本學文學部歌撲禽ハ之ヲ授與スベキ者卜認メタリ仍テ大正九年勳今第二百號學位令ニ依リ鼓昌文學聹士ノ學位ヲ授ク
     大正十四年七月三十一日        京都帝國大學
この論文は、その後啓明會に報告したので、昨大正十五年同會において刋行されてゐる。
 話は前後するが、支那の反切の學問は、文字に對しては最も重要なるもので、したがつて韻鏡と共に假名の研究には須臾も離るべからざるものである。そこでこの反切の起原については、必す魏の孫炎を稱するを常としてゐる。ところが、自分が研究の結果、李賢注後漢書和帝紀の記述から押して、後漢時代すでに説文音あることを明かにすることを得、同時に魏の孫炎の論は誤りであることもわかる。これらの詳細は拙著について知られたいが、久しく反切のはじめを魏の孫炎となし來れる唐宋以後の碩學鴻儒の確信も、一朝にして東洋における而も自分の如き老學究のために破られたといふも、奇とすべきことである。
 つぎに彼の伊呂波四十七字の歌は弘法大師の作として古來言傳へられてゐる。ところが自分の研究によつてそれが誤りであることを發見した。由來延喜以前にありては國語構成の音數四十八あり、ア行のエ、衣とヤ行の〓延とを分別したことは、すべての研究によつて明かになつた。この衣延の辨については往時これに言及した學者がないでもないが、しかし歴然たる幾多の證據を發見したのは自分である。しかして空海作と稱せられる伊呂波歌は四十七字で、ア行のエを缺いてゐるのが、第一にをかしい。空海は弘仁・承和の間の人で、正しくこのこ音を分別した時代であるから、こんな歌を作るべき筈かない。さらにこの歌の形から見ても空海時代のものではない。まづ平安朝末期と斷定して差支あゐまい。
 要するに、自分の微々たる研究によつて我國の假名は、支那周代以上の古音と一致するものなること、また延喜以前には國語構成の音數四十八あり、ア行のエとヤ行の〓とを一般に分別せること、韻鏡なる内外轉の別と四等の別との意義、漢呉音にてサ行の音なる止川等の文字が、假名となつてはタ行の音と呼ばるゝ理由。伊呂波歌が空海の作にあらざること、反切の始が魏の孫炎にあらざること等を明かにした。即ち從來不明なりし諸項のやゝ明かになれるより少くとも假名そのもの、成り立ち、假名遣即ち歴史的沿革の状態、その理由等一々實例によつて説明することを得たるは、淺學なる自分にとりては實に勿怪の幸であった。
 自分の研究は全く自分の趣味から出たもので、物質的には少しも縁故のないものであるが、たゞ何か一つ發見し、また研究が完成すると實に無上の愉悦を覺ゆるので、知らず識らずの間に幾十年を經過した。研究すべき問題はいくらもあるが、自分も昨年七十七歳に達し、老贏日に加はり、歩行も昔のやうにかなはない。遺憾ながらこの研究を繼續することが出來ない。よつて研究の全部を舉げて、久しく奈良にありて自分の研究の經過を知つてゐる文學士春日政治氏に委托し、ただ今では無聊を醫するために、素人流の文人畫を弄んでゐる。(完)
  編者云 大矢透博士自傳は、故博士の談話に據りたもので、新潟新聞に昭和二年十二月一日から同年十二月九日まで都合八回(八日休載)に亘って掲載せられてゐる。現淺田重歡氏夫人なる博士の御息女の語らるところによれば、薄士ばこの新潟新聞の記事を見て、二三の誤植を除いては自分の話したところと少しも邏つて恥ないと云つて、大變喜んでをられたといふことである。それ故、博士の傳記としては最も信憑すぺきものと息ふ。本誌に掲げたものはこの新潟新聞の記事のなかから、同紙の認者のものしたと思はる」序の如き部分を省趣、故博士の著書・日記・東京盲學校保管の履歴書等によって誤植と思はるゝ部分を訂正し、更に韻鏡研究、に就て故博士と最も關係深き濱野知三郎氏の校閲を得た。「大矢透博士自偲」といふ題は編港の拗したもので、新潟新聞には「帝都に於ける新興の縣人」と題し、その第二十五回から第三十二回迄の分に、サブタイトルとして大矢透博士となつてゐる。
順徳帝の玉冠を奉じて佐渡から上洛した顛末については、博士英逆の友現東京盲學校々長町田則丈氏の筆に戊る詳細な記事が「内外盲人教育」第七卷秋號(大正七年十月十九日發行)に、「佐渡島采訪記」と題して載つてゐる。町田氏の談によれば、これは大矢博士の談話に盤叩つたものである由。'

σ博士の逸話に就ては、新戦田新聞昭和三年三月二十五口の「大和假名の研究家大矢鯨士逝く」と題する記事及同紙昭和三年三月三十「日より同年四月四目迄の「噫假名博士逝く」と題する記寧を參看すべきである。この二つの記事はともに博士の壯年時代よーー最も關係深き現新發田新聞趾長上野喜永次氏の草せられたものである。この外、「知遣月報て第二〇三號(昭和三年四月二十日)、「つ犀み」第六}のまき〔昭和三隼・四月二十五日)に大矢博士の傳詑が掲載せられてゐる。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2015年01月17日 21:49