石垣謙二「主格「ガ」助詞より接續「ガ」助詞へ」1

一 序
 言語研究に於ける共時的方法が、或る時期の靜的な言語状態を一つの體系に組織するものである以上、ソシュールの明言する如く微小部分の切捨といふ事は必ず不可避である。之に對して通時的方法は、時の流れに應じて變遷推移する動的な言語状態を闡明しようとするものであるから、共時的方法に於て切捨てられる微小部分が逆に極めて重要覗される事となる。蓋しこの部分こそ二つの異つた状態を有機的に連結する間色に外ならないからである。言語變遷は宛かもスペクトルの如きものであつて、赤と青との間には紫があり、而もその紫と赤青との間にも亦何等確然たる境界線を見出す事は出來ない。されば共時的研究の諸成果を時間的順序に排列しただけでは決して通時的研究となり得ない事が明かである。近來國語學の發展に伴ひ國語史に於ける各時期の共時的研究は頓に整備せられ來つたのであるが、眞に動的な國語變遷の相を明める爲には、自ら別の方法に依らなければならぬであらう。
 口語に關する限りに於ては、有機的言語變遷の系列を亂すものとして、地理的差異・階級的差異及び他言語の影響を擧げ得ると思ふ。然るに他言語の影響の如きは語彙に對してこそ有力であるが語法上には容易に作用し難いもので
ある事、既に學者の認める所である。又我が國語に於て上代より室町時代までに範圍を限定すれば、地理的には近畿方言圈内に、階級的には上級支配層に、夫々對象を略ヒ一定する事が出來るのである。故に私は國語に就いて最も語法的と考へられる助詞の職能用法の變遷を、上代より室町時代までに亙つて考察して見たいと思ふ。之により其の變遷を言語自體の内的な面のみから取扱ふ事が相當の程度まで可能であると信ずるのである。
 國語の諸助詞中、最も普通に用ゐられるものの一つとして「が」がある。「が」助詞は連體的用法を有するもの、主語を示すもの、接續に與るもの等種々なる種類に分れるが、畢竟之等は「が」助詞の變遷中に繼起した諸相と考へられ、連體的用法から主語を示す用法が派生し、更に主語を示す用法が接續的用法を生んだものと言はれてゐる。此の中連體助詞から主格助詞への變化は既に國語史以前に完了したものと見られて、その過程を實證する事は困難であるが、主格助詞より接續助詞への推移は比較的新しい時代に屬するもので實際の資料に就いて大略その經路を跡づける事が出來るのである。依つて私は以下この變遷を探り上げ、能ふ限り言語それ自體の内的な問題として其の過程を説明してみたいと思ふのである。
  本研究に使用した資料及び底本は乘の如くである。
   續紀宣命・延喜式祝詞・竹取物語(以上岩波文庫本)。伊勢物語(傳定家筆本)。土佐日記(定家自筆本)。大和物語・源氏物語(以上日本古典全集本)、今昔物語・宇治拾遺物語・愚管抄・古今著聞集(以上新訂増補國史大系本)。保元物語・平治物語(以上國民文庫本)。天草本平家物語(龜井高孝先生飜字本)。天草本伊曾保物語(新村出博士飜字本)。
  對象を散文に統一する爲歌は探らない建前であるが、記紀歌謠及び萬葉集は隨時參考する。尚本文中に引用する諸例に就いては或る程度の校合を行ひ甚しく不確實なものは保留してある。


二 喚體形式より述體形式へ


 上代文獻の「が」助詞を調査するに、如何なる語を承けるかといふ承接關係と、如何なる語へ懸るかといふ連纃關係との二面に分けて考察すると、先づ承接關係は、
  (一) 體言   (二) 用言の連體形
の二つに分れ、又連續關係は、
  (一) 體言   (二) 用言+體言
  (三) 用言   (四) 形式語
の四つに大別される。右の連續關係中、(二)の「用言+體言」といふのは「我が思ふ妻」の如き形を指すのであるが、時に「が」が用言に懸るのか體言に懸るのか必ずしも明瞭でない場合が有り得るので、(三)の「用言」のみに懸るものと區別し特に一類と樹てて客觀的規準を明かにしたのである。又(四)の「形式語」とは「如(し)」及び「故(に)」「爲(に)」を指すもので、之等の語に懸る「が」助詞は他の用法と意味上からも著しい差異がある上、特に「如し」は一般に比況の助動詞と稱せられるものであるし、「故に」「爲に」は夫々「故」「爲」のみを體言と見做す事も不可能ではなからうが「に」を伴ふのを原則とし體言としての獨立性にも乏しく旁ミ接續詞としても用ゐられるから、今假にその意味の形式的な點によつて之等三語を別に一括する事としたのである。かくて(一)が連體助詞であり、(二)の大部分と(三)とが主格助詞である。
 右のやうに承接關係に於て二種類、連續關係に於て四種類を認めるのであるから、機械的計算に從へば兩者の組合せとして八種類の異つた「が」が存すべき筈であるが、實例に依ると其の組合せに或る制約があつて八種類は存在しない。先づ散文たる宣命及び祝詞に就いて看ると、
 (1) 體言+が+體言
  伸末呂可心 (二八詔)
  天皇我朝廷 (春日祭)
 (2) 體言+が+用言+體言
  朕我奪備拜美讀誦之奉留最勝王經 (四五詔)
  天盞人箋過霧難罪事(六轟大祓)
 ㈲ 體言+が+用言
  諸大法師纂如理久勤天坐雌(四二詔)
 (1) 用言+が+形式語
  忌之恥診(三八詔)
 ●悔止念賀故仁 (二六詔)
右の四種類が「が」の用法の全部である。之に依つて著しい事實は、
 (イ) 連體助詞及び主格助詞の「が」は用言を承けず、常に體言のみを承ける。
 (ロ) 形式語へ續く「が」助詞は體言を承けず、常に用言のみを承ける。
此の事實は宣命・祝詞のみから歸納した結果であるが、次に萬葉其他歌謠の例に就いて之を檢討すると、散文に於ける四種類は同樣に見出す事が出來るが、歌謠には又次の如き例が見られるのである。
   佐夜具賀斯多(擾ぐが下) (古事記上卷)
   奴流我倍(寢るが上) (萬葉十四、三四六五)
   夜敝乎流我宇倍(八重折るが上) (同二十、四三六〇)
之等は明かに「用言+が+體言」の形であり、散文には無かつたものである。而も之等の用言は、
栲衾さやぐが下・紐解きさけて寢るが上・白浪の八重折るが上
の如き用法であるから、上からの續きざまより見て充分に述定力を有し即ち完全な用言の資格に立つてゐて醴言に轉成したものとは考へられない。更に、
安我共等久(吾が如く)君に戀ふらむ入はさね有らじ(萬葉十五、三七五〇)
和我由惠爾(我が故に)思ひな痩せそ(同、三五八六)
贖ふ命も多我多米爾(誰が爲に)汝(同十七、四〇三一)
に於ては「あ」「わ」「た」が代名詞であり、從つて體言と認めなければならないゆゑ、右の諸例は「體言+が+形式語」の形を備へて居り、之も亦散文には無かつたものである。
 茲に於て、廣く散文・歌謠を通じ上代の全「が」助詞に普遍なる結論としては、次の一項が歸納せられる事となるのである。
  主格「が」助詞は用言を承ける事が無い。
 さて上代の「が」助詞に右のやうな特性を認める時、今まで故意に觸れずにおいた一つの問題が當然登場し來らなければならない。それは山田孝雄博士が喚體句と命名せられる處の一形式で、次に列擧する如きものの事である。
由布豆久欲 可氣多知與里安比 安痲能我波 許具布奈妣等乎 見流我等母之佐 (萬葉十五、三六五八)
佐伎母利爾 由久波多我世登 刀布比登乎 美流我登毛之佐 毛乃母比毛世受 (同二十、四四二五)
等保伎山 世伎毛故要伎奴 伊痲左良爾 安布倍伎與之能 奈伎我佐夫之佐 (同十五、三七三四)
多多美氣米 牟良自加已蘇乃 波奈利蘇乃 波波乎波奈例弖 由久我加奈之佐幽(同二十、四三三八)
  オホタキヲ スギテナツミニ ソとテヰテ  キヨキカハセヲ  ミルガサヤケサ
大瀧乎   過而夏箕爾   傍爲而    淨河瀬      見河明沙 (同九、一七三七)
(類例、五五六・六三四・七五七・一〇〇七・=一〇八・=二一二九・一四四二・一五六一・一六三一・ご〇七三・二九一四。三〇〇八・三二二六・四二六六)
之等の諸例に於て「が」の承ける語は用言の連體形であつて而もその用言は充分に述定力を有つてゐる。然るに一方「が」の懸つて行く語は皆形容詞に接辭「さ」の附いたものである。形容詞の語幹に接尾辭「さ」の附いたものは、體言と同樣の資格をもつのであるから、右の諸例は皆連體助詞の「が」と認める事が出來、連體「が」助詞が用言を承ける事は既述の如く他にも例があつて何等問題とするに足らぬと一應は考へ得るのであるが、然し之は専ら形態上のみの觀察で、一度意味の方面から考察する時は、右の諸例を單なる連體「が」助詞と見做す事は躊躇せざるを得ない。何となればかやうな「淋しさ」「悲しさ」等は何れも「淋しい事よ」「悲しい事よ」といふ詠嘆的敍述性を有し、此の點右の諸例は皆一種の文を構成してゐると云はねばならないからである。爲に山田博士はかかる形式を特に喚體句と名付けられ、普通の用言によって述定せられる形式を述體句と稱するに對せしめられたのである(『日本文法論』)。
 さすれば之等の「が」助詞は、主格助詞の一種と認められる事となり、上代の主格「が」助詞は用言を承けずといふ嚮の原則が成立たなくなるべきであるが、前にも述べたやうに之等の「が」助詞は純然たる主格助詞とも亦確かに異つてゐる。即ち「が」助詞の懸る語は、意味上からは用言に準ずべきであるが同時に形態上からは倦くまで體言に準ずべきものである。私は之等喚體形式の「が」助詞を以て、連體助詞より主格助詞への過渡的状態を示すものと見て、純然たる連醴助詞とも純然たる主格助詞とも別箇に取扱はうと思ふのである。
 さて以上の如く、上代の主格「が」助詞は用言を承けない原則であるが、用言を承ける「が」助詞も亦次第に述定力ある語へ懸り得るに至る傾向を喚體形式に於て窺ふ事が出來るのである。かかる状態の下に平安時代に入つて、先
                                         來  悲
づ初期の文獻に就いて檢すると、「が」助詞が用言を承ける例は、土佐日記には歌に於て「くるかかなしさ」(二月九
     見  悲
日の條)・「みるかかなしさ」(二月十六日の條)の二例を見出すのみで共に喚體形式であるから問題がないが、竹取物語には次の如き二例を發見するのである。
 (1) 程なく罷りぬべきなめりと思ふが悲しく侍るなり(天の初衣)
 (2) 竹取の翁然はかり語らひつるが流石に覺えて眠り居り(蓬莢の玉の枝)
之等はいづれも「用言+が+用言」の形式を具へて居り、「が」助詞は述定力ある用言を承けてゐながら同時に明かなる主格助詞である。特に(1)の如きは述語中に形容詞「悲し」が存する點、喚醴形式と相距ること僅かに一歩に過ぎず、「思ふが悲しさ」と變形すれば直ちに上代の諸例に連るのであり、逆に上代の喚體形式に於て「が」の懸る語の體言的形態を除きさへすれば其の儘右の(1)となるものである。(2)め例も「然ばかり語らひつるが流石に覺えて」と續くものと解され、「が」の懸る語として形容詞をもつてはゐないけれども、「流石に」は形容動詞「流石なり」の一活用形と見る事が出來る上に、意味上から「が」は(1)と全く同一の用法である事を認め得るのである。
 かくて喚體形式は全く述體形式に移つたのであるが、「が」助詞變遷の過程に於て此の事實は誠に特筆大書するに足るものである。何となれば主格「が」助詞が用言を承け得るに至つた事こそ、爾後の活濃なる「が」助詞變遷を可能ならしめる根柢であり、極言すれば「が」が接續助詞たるべき運命も實に此の時に約束されたのであるとさへ云ひ得べきだからである。次節以下に詳述する處に依つて恐らく之を首肯する事が出來るであらう。
 (註) 萬葉集卷十四に衣の如き一例がある。
左奈都良能 乎可爾安波痲伎 可奈之伎我 古麻波多具等毛 和波素登毛波自 (三四五一)
 一首の解釋を、『代匠記」・『略解』・『古義』等皆「愛人が馬を引き來って私の粟田を蹈み害はしても愛人のする事ゆゑ追ひ拂ひはしない」の意としてゐる。即ち「たぐ」を「たぐる、手綱を引く」と解して「かなしきがたぐ」と續くものと見るのである。さすれば此の「が」は主格助詞であつて而も「愛しき」といふ形容詞の連體形を承けてゐる事となる。
 尤も「愛しき」は「愛しき人、愛人」の意味であつて、既に體言に轉成してゐると見る事が出來るが、それにしても尚問題があると思はれるのは、萬葉集には又衣の一首を見出すからである。
サヘギヤマ ウノハナモチシ カナシギむ  デヲシトリデパ ハナハチルトモ
佐伯山 于花以之 哀 我 子(手)鴛取而者 花散鞆 (卷七、一二五九)
右の例は「かなしき」といふ語も句切れの關係も全く前の例と同一であるのに、『代匠記』・『略解』・『古義』共「佐伯山ニテ卯ノ花ヲ折テ持シカナシキ兒等力手ヲタニ我取タラバ卯花ハ散ヌトモヨシトナリ」(代匠記)のやうに「かなしきが手」と解して「が」を連體助詞と見てゐるのである。
 私は「左奈都良」の一首も「佐伯山」の一首と同樣「が」は連體助詞であり、「かなしきが駒」と續くものと見るのであるが、かかる考は既に「新考」に明示されてゐる處である。
○カナシキガはヵハユキ男ノなり。〔中略〕○タグは皇趣天皇紀なる童謠のコメダニモタゲテトホラセのタゲテの原形にて食ふ事なり。〔中略〕さて今は男ノ馬ガソノ粟ヲ食フトモといへるなり〔下略〕。(萬葉集新考、傍點筆者)
 されば上代の主格「が」助詞は體言に轉成せると否とに拘らず、即ち述定力の有無に關せず、用言の連體形は承けなかつたのである。
 かやうに上代の主格「が」助詞に用言を承けないといふ原則が見られる上は、次の如き訓讀は當然改められなければならない。先づ古事記に於て
於ソ是有二神壯夫殉其形姿威儀.於ソ時無ソ比。夜牛之時。倏忽到來。(中卷)
有麗美壯夫。不ソ知二其姓名叩毎ソタ到來.供佳之間。(同)
の如きを『記傳』は、
ツコ ヲトコ   カボスガクヨタグヒ むヨナカタチマチキ
是に神壯夫有りて其の形姿威儀時に比無きが夜牛之時に倏忽到來つ。
  ウルハヲトつナ  ヨゴトキスホド
麗美しき壯夫の其の姓名も知らぬが夕毎に到來て供佳める聞に。
と訓んで居り、又萬葉集に於て、
袖振 可見限 吾雖有 其松枝 隱在 (十一、二四八五)
を『古義」「略解」『新考』は、

袖振るが見ゆべき限り吾はあれど其の松が枝に隱れたりけり
と訓んでゐるのである。


タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2016年04月10日 19:59