柴田宵曲『俳諧博物誌』はしがき

 はじめてジュウル・ルナアルの『博物誌』を読んだ時、これは俳諧の|畠《はたけ》にありそうなものだと思った。『博物誌』からヒントを得たらしい芥川龍之介氏の「動物園」の中に、
     |雀《すずめ》
  これは南画だ。|蕭蕭《しようしよう》と|靡《なび》いた竹の上に、消えそうなお前が|揚《あが》っている。黒ずんだ字を読んだら、|大明方外之人《たいみんほうがいのひと》としてあった。
とあるのを読んだ後、『|淡路嶋《あわじしま》』に
   |枯蘆《かれあし》の墨絵に似たる雀かな  |荊花《けいか》
という句を発見して、その偶合に興味を持ったことがある。古今の俳句の中から、こういう俳人の観察を集めて見たら、日本流の博物誌が出来上るであろうが、今のところそんな事をやっている暇がない。墨絵の雀を|手控《てびかえ》に書留めてから、|已《すで》に何年か経過してしまった。
 |尤《もつと》も俳諧におけるこの種の観察は、元来一部的な傾向である。ルナアル的観察といえば新しく聞えるようなものの、やはり擬人とか、|見立《みたて》とかいう平凡な言葉で片付けられやすい。奇警な観察が第一の価値である以上、その|顰《ひそみ》に|倣《なら》う者は、どうしても|様《よう》に依って|胡蘆《ころ》を|画《えが》くことになる。仮に陳腐を嫌って、一々新意を出すとしても、その新しさが観察の範囲を脱却し得ぬとすれば、俳諧の大道にはやや遠いものといわなければならぬ。ルナアルの成功は散文の世界にああいう観察と、短い表現を持込んだ点にあるので、そこに若干の智的分子を伴うだけ、俳句のような詩では純粋な作を得がたいのである。
 最も手近な一例を|挙《あ》げるならば、
  二つ折りの恋文が、花の番地を捜している。
というのが、『博物誌』の中の「蝶」であるが、|元禄《げんろく》の俳人は同じく蝶に関して
   |封〆《ふうじめ》を蝶の|尋《たずぬ》るぼたんかな   |潭蛟《たんこう》
の句を|遺《のこ》している。一は蝶の形を二つ折の恋文と見立て、一は|牡丹《ほたん》の封〆を蝶が尋ねると観察したのだから、その内容は同一でないにかかわらず、この両者は異曲にして同工と見るべき点がある。しかも潭蛟の句は牡丹の句としても、蝶の句としても|竟《つい》に記憶されるほどのものではない。
   |搗立《つきたて》に白粉かけてや春の月   |露川《ろせん》
   真中に一目置くや今日の月  |十竹《じつちく》
 この二句はいずれも月を題材にしている。搗立の餅のすべすべした上に白粉をかける、それを|朧《おほろ》なる春の月に見立てたので、餅の形の丸いことから、月の完円なることを示しているのかも知れない。「真中に」というのは|碁盤《ごばん》の見立である。碁盤の真中に一つ碁石を置く。天心に|懸《かか》る月をその一目の石と見たのだから、その形容からいって当然白石の方であろう。餅とか、碁盤とかいうことを文字に現さぬのは、作者として用意の存する所であるかどうか。|譬喩《ひゆ》は一々説明してかからぬ所に面白味があるかと思うが、それだけまた智的に想像せしむる|傾《かたむき》を免れぬ。
   人も巣に顔出してゐる|紙帳《しちよう》かな   |馬泉《ばせん》
 紙帳から首ばかり出している人の形を、鳥の巣から鳥が首を出しているかの如く見立てたのであるが、「人も巣に」の語は少しく窮した感がある。巣の一字だけで鳥の巣にすることも、この場合無理といえば無理であろう。
   夕ばえの|半襟《はんえり》赤き|燕《つばめ》かな  |紫筍母《しじゆんのはは》
   |蒲《がま》の|穂《ほ》や|明《あけ》て狐のとぼしさし   |扶浪《ふろう》
 燕の|衿許《えりもと》の赤いのを半襟に見立てたのは、さすがに女らしい観察である。蒲の穂の形は|蝋燭《ろうそく》に似ている。狐には狐火というものがあるところから、「明て狐のとぼしさし」といい、夜が明けて火の消えた蝋燭と見たのである。蒲の穂を蝋燭に見立てた句は他にもあったと思うが、狐火を取合せて「とぼしさし」の蝋燭にしたのがこの句の趣向であろう。|但《ただし》信州方面には蒲の穂を「狐の蝋燭」と呼ぶ土地があるそうだから、もし元禄時代からそんな名称があったとすれば、作者の働きは少くなる。蒲の穂を|乾《かわ》かして油に浸すと、よく燃えるという話もある。いういうな因縁は|具《そなわ》っているが、この句も|遺憾《いかん》ながら智的な興味に堕している。
   |蒲公英《たんぽぽ》の夕べ白骨と|成《なり》にけり   |桐花《とうか》
 蒲公英の花が白い|穂綿《ほわた》のようになったのを|捉《とら》えたので、|明《あきらか》に「|朝《あした》に紅顔|夕《ゆうべ》に白骨」ということを|蹈《ふま》えている。ただ白骨はいささか強過ぎる。「たんぽゝもけふ白頭に暮の春」という句は|雅馴《がじゆん》であるのみならず、蒲公英の形容としても白頭の方が|遥《はるか》に適切である。
   うづみ火も冬の雨夜の|蛍《ほたる》かな   |鼠弾《そだん》
   |石摺《いしずり》のうらや|斑《まだら》に夜の|雁《かり》  露川
   焼飯に毛のはえて|飛鶉《とぶうずら》かな   |昆綱《こんこう》
   何船ぞかまぼこうかぶ浦の雪  |金水《きんすい》
   |臍《へそ》の|緒《お》の|蔓《つる》も|枯《かれ》ゆく|瓠《ひさご》かな   |兎格《とかく》
 まだ必要があればいくらでも挙げ得るが、この種の句の見本としては先ずこんなところでよかろうと思う。以上は手許の俳書から目についたままを|抽《ひ》き出したので、もっと丹念に捜したら、多少は面白いものが出て来るかも知れぬが、|畢竟《ひつきよう》こうした観察によって本筋の句の得にくいことを示せば足るのである。「俳諧博物誌」と|銘打《めいう》ったのは、決してルナアル的観察に終始するわけではない。これを冒頭として各方面にわたる俳句の世界を|一瞥《いちべつ》しようというので、フランスの『博物誌』とは縁の遠いものになりそうである。もともと博物だから、大概なものは包含される|理窟《りくつ》だけれども、結果は恐らく|羊頭狗肉《ようとうくにく》におわるであろう。いささか由来書を述べて|前口上《まえこうじよう》とする。

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最終更新:2017年01月14日 22:50