柴田宵曲『俳諧博物誌』「河童」

 ここで河童を登場させたら、河童という動物が果してあるのか、という質問が出るかも知れない。その点は|甚《はなは》だ|不慥《ふたしか》である。しかし河童という動物は、過去において存在を認められていた。現在においても|小川芋銭《おがわうせん》氏の画幅や、芥川龍之介氏の小説の中にちゃんと控えている。『俳諧博物誌』は動物学者の参考資料ではないのだから、何が飛出したところで、そう驚く必要もあるまい。
 |尤《もっと》もわれわれの河童に関する知識は、『|山嶋民譚集《きんとうみんたんしゆう》』の範囲を一歩も出ぬものである。その点は「河郎之舎」の印を蔵し、好んで河童を自家の文学に取入れようとした芥川氏が「河童の考証は柳田国男氏の『山嶋民譚集』に尽している」といった通り、|何人《なんぴと》もあの研究の上に何物かを加えることは困難であろう。『|甲寅叢書《こういんそうしよ》』が次第に市に乏しく、たまに|逢著《ほうちやく》しても恐るべき高価を呼ぶようになった結果、もう一度読直してかかる便宜に乏しくなったが、柳田氏自身「『山嶋民譚集』を珍本と呼ぶことは、著者においても異存がない」というに至り、日本文化名著選という肩書の下に再び世に現れたのは、われわれに取っても|頗《すこぶ》る好都合だといわなければならぬ。
 芥川氏は晩年「河童」一篇を公にしたけれども、あれは「グァリヴァの旅行記式」といい、「僕のライネッケフックス」という自評が最も適切なように、日本産の水虎とはあまり交渉のない産物である。大正十年頃の『新小説』にちょっと断片を出して、インフルエンザを理由に引込んだなり、遂に未完に終った「河童」の方は、晩年の「河童」とは全然別の意図のものだったらしく思われる。全集にして三頁しかないあの「河童」は、「河童の話の一部分、否、その序の一部分なり」と断ってあるが、もしインフルエンザに|罹《かか》らなかったら、どういう風に進むつもりであったか、|妄《みだり》に|臆測《おくそく》を|逞《たくま》しゅうするわけには往かぬ。ただあの文章の終にある数行は、河童の如何なるものかを要約した点で、一顧の価値がありそうである。
  河童は水中に|棲息《せいそく》する動物なり。|但《ただ》し動物学上の分類は、未だこれを|詳《つまび》らかにせず、その特色三あり。(一)周囲の変化により、皮膚の色彩も変化する事、カメレオンと異る所なし。(二)人語を発する|鸚鵡《おうむ》に似たれども、人語を解するは鸚鵡よりも巧みなり。(三)四肢を切断せらるるも、切断せられたる四肢を得れば、直ちに|癒著《ゆちやく》せしむる力あり。産地は日本に限られたれども、大約六十年以前より漸次滅亡し去りしものの如し。
 |已《すで》に|斯《かく》の如きものである以上、ルナアルの『博物誌』やセルボーンの『博物誌』をいくら捜しても、出て来ないにきまっている。その代り日本人の著作を読んでいると、意外なところにひょっくり顔を出すことがある。
 |伊沢蘭軒《いざわらんけん》が雨夜に若党を連れて、|蒟蒻閻魔《こんにやくえんま》の堂に近い某街を歩いていたら、背後から|筍笠《たけのこがさ》を|被《かぶ》った童子が来て、蘭軒と並んで歩きながら「小父さん。こわくはないかい」と反復して問うた。蘭軒は何とも答えなかったが、顧みて童子の顔を見た若党は、一声叫んで|傘《かさ》と|提灯《ちようちん》を投出した。その小僧の額の真中に大きい目が一つあった、河童が化けて出たのだ、閻魔堂の前の川には河童がいる、というのである。この事は蘭軒近視の話に関して伝えられているのであるが、鴎外博士は科学者だけに「河童が存在するか。また仮に存在するとして、それが化けるか。これらは評論すべき|限《かぎり》でない。額の正中に一目を開いている|畸形《きけい》は胎生学上にありようがない」と附加えている。しかしこの話は柳田氏の研究題目たる河童と一目小僧とを一身に兼ねている点で、われわれには特別の興味があるのである。
 蘭軒の子の|柏軒《はくけん》にも同じような逸話が伝えられている。|浜町《はまちよう》の|山伏《やまぶし》井戸の|畔《ほとり》で|道連《みちづれ》になった男が「|檀那《だんな》。今夜はなんだか薄気味の悪い晩じゃありませんか」という。柏軒がその男を顧みたまま|徐《おもむろ》に歩を移すと、男は|少焉《しばらく》して去ってしまう。翌晩も同じように現れて、同じ問を発した。男は獺の怪で、来かかる人にこの問を発しては怖るべき面貌を示したのであるが、柏軒は近視のために見えなかった。そのせいか三晩目にはもう出なかったというのである。蘭軒はその子に近視を遺伝すると共に、怪を見て怖れざる功徳をも併せ伝えた。獺は水怪の一として、河童の仕業をこれに帰する人もあるのれども、『山嶋民譚集』は|竟《つい》に獺には触れていないように思う。
 『山嶋民譚集』によると、河童に関する記録は近世の二、三百年に|偏《かたよ》っていて、古いところには見当らぬそうである。その点俳諧の歴史と共通点がないでもない。北は奥羽から南は九州まで、諸国に散在している模様もまた俳人の分布とほぼ趣を同じゅうするにかかわらず、河童の俳句は極めて乏しい。
   すべりてや河童流るゝ瓜の皮   |風流《ふうりゆう》
   河童《かわろう》がちからおとしや厚氷   |和丈《わじよう》
この二句はいずれも芭蕉以前、談林時代の産物である。『山嶋民譚集』にはカッパソウ(カッパノシリヌグイ)という植物は出て来るが、瓜との交渉は書いてない。「わたしゃ|葛西《かさい》の|源兵衛《けんべえ》
堀、源兵衛さんの隣の河童でござる、河童に御馳走なさるなら-…」というのは、われわれが文字以外に耳からおぼえた河童資料の最も古いものであるが、制作年代は勿論不明である。由来|胡瓜《きゆうり》と|尻子玉《しりこだま》は河童につきもののような気がしていたのに、『山嶋民譚集』を一読するに及んで、いわゆる河童伝説は両者とあまり縁のないことがわかった。しかし延宝度の俳諧が|夙《つと》に「瓜の皮」を扱っているのを見れば、必ずしも後世の|附会《ふかい》ではなかったのであろう。河童が瓜の皮に|辷《すべ》るというのは、あるいは人間が|西瓜《すいか》の皮などに辷ることから思いついたのかも知れぬ。芋銭氏の「水草絵巻」というものの中にも、|痩《や》せこけた河童の相撲を取っている傍に胡瓜が三本ころげており、他の河童がこれを指しているところが画いてあった。河童に瓜はいささか常套的であるにせよ、また看過すべからざる配合であろう。
 |森羅亭万象《しんらていばんしよう》の黄表紙『|面向不背御年玉《めんこうふはいのおとしだま》』(天明七年刊)は「|海士《あま》」の謡をもじったものであるが、河童が両国の|夕納涼《ゆうすずみ》で、ぽんと上る花火の玉を面向不背の玉と心得て、うろうろ船の落した|真桑瓜《まくわうり》を|攫《つか》み帰り、龍王の不興を|蒙《こうむ》ることが書いてある。ここでは|明《あきらか》に真桑瓜とあって、胡瓜ではないが、|山東京伝《さんとうきようでん》の|洒落本《しやれぼん》『|仕懸文庫《しかけぶんへ》』(寛政三年刊)になると、
  団「ここにむきずな胡瓜がながれ|付《つい》ている。
  久「そりゃア河童へやるといってながしたのさ。
という会話があり、胡瓜と限定されるのみならず、河童のために胡瓜を流すという事実が現れて来る。河童と瓜との交渉は、更にいろいろな材料によって傍証さるべきものと考える。
 河童は季題としては取扱われてはいないが、これを|詠《よ》んだ句は|殆《ほとん》ど夏ばかりである。和丈の句は冬の河童である点が異彩を放っている。厚い氷が張っていたのでは、寒中水泳という新手に出るわけにも往くまい。紀州の河童は冬は山に入ってカシャンボとなり、九州の河童も同じく山に入ってヤマワロとなると『山嶋民譚集』にある。九州南部の河童のように|敢《あえ》て改名せぬ者といえども、冬季は山に入って猟師の|側《そぱ》に現れたりするらしいから、厚氷に|遭《あ》って力を落すが如きは、よくよく初心の徒に相違ない。
     |足駄《あしだ》行人
   暑き日も水こそ絶ね|河童《かわわつぱ》  |腹松《ふくしよう》
 前書の意味は十分にわからぬが、「水こそ絶ね」というのは、例の頭の皿に|溜《たま》るやつであろう。この|窪《くぼ》みに水が溜っている間は、彼の力は人に数十倍する。馬を水に|引摺《ひきず》り込もうとした河童が、あべこべに|厩《うまや》まで引摺って来られることがあるのは、馬の跳躍によって皿の水をこぼされたためである。これを厩の柱に|繋《つな》いで置いたところ、傍に洗濯していた母親が大に|罵《ののし》って|盥《たらい》の水を打掛けたため、|蛟龍《こうりよう》の雲を得たるが如く|忽《たちまち》に力を生じ、綱を引切って逃れ去ったという話を『山嶋民譚集』は伝えている。|仮令《たとい》如何なる炎暑に際しても、頭の皿の水を絶やすまじきことは、河童として当然の心掛でなければならぬ。
 腹松の句はただ水とのみあるが、同じく元禄度の俳諧に|明《あきらか》に頭の水となっているのがある。
   |油煙蔵《ゆえんぐら》鳥も|覗《のぞ》かぬ寒の内  |浮生《ふせい》
    頭の水をこぼす|河童《かわわつぱ》   |兎株《としゅ》
   何ものか|鉦《かね》太鼓にて|泣《ない》て|行《ゆく》  |風水《ふうすい》
 この河童の状態もあまり明瞭でない。寒の内という前の句を受けたためか、後の鉦太鼓を鳴らして行くのも、どうやら冬の夜の趣らしく感ぜられる。冬の天地に|抛《ほう》り出された河童が、頭の水をこぼしてしまっては、全く活動の余地はなさそうである。
 河童の対人交渉の中で最も多いのは、|悪戯《いたずら》をしかけるか、あるいは馬を引摺り込もうとした結果、大事の腕を失って、|羅生門《らしようもん》の鬼の如く取返し手段を講ずる話であろう。|偶《たまたま》九州の河童のように、華美な|犢鼻褌《ふんとし》をひけらかして|闊歩《かつぽ》し、人に相撲を|挑《いと》む|輩《はい》もないではないが、概して河童の打つ手は単調である。その中にあって、
   |河童《かわたろ》の恋する宿や夏の月  蕪村
の句は|那辺《なへん》より|著想《ちやくそう》し来ったものが、|常套《じようとう》を脱して一脈の妖気を漂わせている点を珍とすべきであろう。夏の月夜に人を恋う水虎先生は、水郷怪談の|一齣《ひとこま》として何人かの作中に入るべきものだが、下手に作為を加えたら、この蕪村の句が持つだけの雰囲気もぶち壊してしまうかも知れぬ。
 明治以後の河童の句にはどんなものがあるか、いまだ|子細《しさい》に点検する|遑《いとま》がない。
   浮草に河童恐るゝ泳ぎかな  子規
   泳ぎ上り河童驚く暑さかな   漱石
共に|泳《およぎ》を題材にしているが、前者は河童を恐れるというまでで、実際は人の上にとどまっている。|陸《おか》に上って暑さに驚く河童も、奇想のようで人間世界を脱却し得ぬ|憾《うらみ》がある。
   夕立に瓜流るゝを河童かな   |句一念《くいちねん》
   子|等《ら》のいふ河童の昼寐時分かな   |鹿語《ろくご》
 河童と瓜は珍しくもないが、夕立に流れる瓜を|追駈《おいか》けて行くところとすれば、そこに多少の動きがあって、従来の句に見られぬ特色を具えている。「河童の昼寐時分」は、しずまり返った|日盛《ひざかり》の空気を連想せしめるが、それも河童の|棲息《せいそく》するような、水辺を背景としている点に注意する必要がある。
   |獺《かわうそ》を河童思ふや秋の水  |月斗《げつと》
 これは蕪村の句に現れたような河童の恋であるか、単に水郷仲間の獺を思いやるというのであろうか、いずれにしても秋の水だけに一種のさびしみがある。
   子河童を捕りし|祟《たたり》や秋|出水《でみず》   へき|生《せい》
 水辺の者が河童の子を捕えた、それが彼らの|恨《うらみ》を買って、秋になってから雨が降り続き、遂に一面の出水となる。子河童を捕えた者の家は|固《もと》より浸水を免れぬであろう。この句には妖気というほどではないが、今までの句と違った|匂《におい》がする。子河童事件を眼前に描こうとせず、現在の秋出水を以てその祟とした、時間的経過を含んでいることが、この句の特色なのであろう。

     韓街所見
   親河童子河童喰ふや真桑瓜   月斗
 これは瓜を食いつつある親子を、河童に見立てたまでの句と思われる。一句に現れたところだけでは、その光景を|髣髴《ほうふつ》することが出来ないが、もし瓜の因縁のみを以て河童に見立てたものとすれば、浅薄の|嫌《きらい》を免れぬ。韓街所見という以外、何か意味を補うところがないと、この河童は躍動することにならぬのかも知れない。
 俳諧における河童は好題目のように見えて、その実真の妙味を発揮したものが見当らぬようである。われわれが河童の姿に愛すべき俳味を感ずるのは、芋銭氏の画に親しんだためかもわからぬ。|山〓《さんしよう》といわず、|木魅《ぼくみ》といわず、芋銭氏によって|新《あらた》に生命を吹込まれたものは少くないが、その最も著しいのは河童であろう。芋銭氏が河童の自画に「誰識古人画龍心」の七字を題したのは、決して偶然ではない。

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最終更新:2017年01月14日 23:18