柴田宵曲『俳諧博物誌』「コスモス」

     コスモス
 コスモスという花は|何時頃《いつころ》日本に渡って来たものか知らぬが、一般に普及するに至ったのはそう古いことではあるまい。われわれの漠然たる記憶によれば、日露戦争前後ではないかという気がする。『新俳句』や『春夏秋冬』には勿論ない。手許にある明治の歳時記を調べて見ると、明治三十七年刊の『俳句新歳時記』には出ておらぬが、四十二年刊の『新修歳時記』に載っている。|但《ただし》「コスモス、ヒブクリスの略語。菊科の一年草本にして、春下種し、二、三寸に生長したる時移植すれば、秋の季高五、六尺に達し多く枝を分ちて紅白赤黄|絞《しほり》等の単弁の美花を開く。葉は細く数岐をなして柔く節ごとに対生す。葉花共に甚だ優美なり」とあるのみで、例句も挙げず、何時頃から普及したかというような点に少しも触れておらぬのは遺憾である。
 |三宅花圃《みやけかほ》女史が明治四十年の『日本及日本人』に連載した「花の趣味」の中にもコスモスがある。丈高く庭もせにひろごる事、絞りの花は珍しい事、風雨に倒れたのをそのままにして置くと、幹は横になりながら枝は上を向く事、その他いろいろな消息が記されているが、何時頃から多く見かけるようになったかなどということは書いてない。「去年も一昨年も裏の方に|植《うえ》つれば|彼程《かほど》にはのびざりしをと今は丈高きもはびこれるをも、中々にめでていひさわげば」とあるによって、|雪嶺《せつれい》博士の庭のコスモスはこの二、三年前からあったことが知られる。
 明治三十九年四月に出た『|伶人《れいじん》』という歌集がある。その中に|金子薫園《かねこくんえん》氏の歌として
   こすもすの花の|灯影《ほかけ》や胸像の詩人の|頬《ほお》にうす|紅《くれない》して
   こすもすの花はあるじが歌の趣と人の苦吟を|笑《え》むや|宵《よい》の|灯《ひ》
の二首が出て来る。恐らく前年秋の作であろう。われわれはコスモスといえば先ず昼の眺めを思い浮べるのが常であるのに、二首とも灯影に配してあるのは、何だか不思議な感じがする。前の歌は明かに室内の灯影である。灯下の下に置かれた|石膏《せつこう》の詩人の像にコスモスの花がうす紅く映えるなどは、当時としては新しい題材であったに相違ない。後の歌は室内の趣とも取れるし、室の灯が庭のコスモスにさす場合とも取れる。いささか不明瞭な境地である。
 俳句の方では三十九年の十月に成った
   コスモスの冬近し人の|猿袴《さるはかま》     碧梧桐
が古い方に属するらしい。作者は当時奥羽の旅を続けつつあったから、その地方における所見であろう。薫園氏の歌のコスモスは二首ともハイカラな趣であったが、この句はまた思いきって野趣を発揮した。コスモスが已に各地に普及していた模様は、この一句で証することが出来るかと思う。
   青く晴れてコスモスの花に飛雲かな    |浅茅《あさじ》
   コスモスに|緑紗《りよくしや》を垂れぬ憎きさま   同
   コスモスの花や墓石の新しき   |石楠居《しやくなんきよ》
   コスモスの画室に狂ふ日影かな   |痩仏《そうぶつ》
   コスモスの|掲焉《けちえん》なりや霧の垣   瓊音
これらは時代において前の句に次ぐものであろう。古人は「|秋風起兮白雲飛《しゆうふうおこりてはくうんとぶ》」といった。青々と晴渡ったコスモスの空を真白な雲の飛ぶ趣は、眼前に秋晴の天地を展開せずには措かぬ。「緑紗を垂れぬ」といい「画室に狂ふ目影」という、この種の景致は当時のコスモスに調和すべき新な趣だったのである。「掲焉」の語はコスモスの茎の高く|聳《そび》えたところをいうのであろうが、言葉が際立ち過ぎて、花も葉もなよやかなコスモスにふさわしくない。同じ作者がそれより前に作った「紅茸や掲焉として霧の中」の句を並べて見ると、いよいよその感を深うする。
   張板に影コスモスと|蜻蛉《とんぼ》かな   成岩生
   |靄《もや》の|裾《すそ》コスモス高き小家かな  未央
   コスモスや橋場の家の灯早き   梅女
     幼稚園
   コスモスは高く遊べる園児かな   |麦村《ばくそん》
 「張板」の句は「青く晴れて」「画室に狂ふ」などと同じく、|爽《さわやか》な秋晴を想わしむるものがある。「橋場の家の灯早き」というのは実景であろうが、コスモス趣味にはやや遠い。前に挙げた「墓石」の句などと同じく、動く嫌いがありそうに思われる。「幼稚園」の句は「高く」で一先ず意味が切れるのであろう。花をつけたコスモスの高く伸び立つ下に、|嬉々《きき》として園児が遊んでいる。その子供たちは皆丈が低いのである。この趣もまた晴渡った秋天の下でなければならぬ。
 雪嶺博士は大著『宇宙』の跋の最後に「庭前のコスモスの咲き|初《そ》むるを観て」の一行を加えた。この言葉は|花圃《かほ》女史の『花の趣味』と併看するだけでも一種の興味があるが、『宇宙』の出た明治四十二年頃までは、まだ「スモスに多少の新味が伴ったのではあるまいか。それが大正初年になると、
   コスモスの咲ける家と貸家教ふるに   繞石
   コスモスは束ねあり画室半ば成る   同
   コスモスの雨に|繚乱《りようらん》すあき家かな   瓊音
   小別荘庭はコスモスばかりなり   同
の如く、よほど平凡な存在になって来る。人の住まぬ空家の庭に咲き乱れたり、小別荘の庭がコスモスばかりだといわれたりするに至っては、花としては冷遇された形で、詩人の胸像に映じた全盛時代と日を同じゅうして語るわけには往かぬ。画室の庭に咲くことに変りはないにしろ、|普請中《ふしんちゆう》束ねられているのは決して有難い現象ではない。コスモスがそれだけ平凡化したということは、各地に行わたったことを意味する。しかし花が珍しくなくなったからといって必ずしも詩材としての価値を減じたことにはならない。コスモスの句が多く生れるようになったのはむしろ大正以後である。明治年間のコスモスの句は、題材として新しかった代りに、いささか配合物に|煩《わずらわ》されるところがあった、コスモスの真趣はそういう時代が過ぎてから発揮されたといっても過言ではない。例えば
   コスモスの吹かれ消ぬべき空の色   |左衛門《さえもん》
の如く、コスモスそのものの姿を描いた句が、大正年間になって現れるのは、俳人の観察が進んだということもあるが、やはりコスモスが普及した結果として、種々の句が生れたものと解すべきであろう。
 コスモスが非常な勢でひろがった頃、この花を野草として山野に放ったら、更に|大《あおい》に蕃殖して、秋の眺めを賑かにすることになりはせぬかといった人がある。外国から渡来した月見草が|忽《たちま》ちにして夏の夜を飾る新たな景物になった例があるから、コスモスの野草化も面白いかも知れぬと思ったが、事実はこれに反して次第に振わなくなり、郊外住宅につきものであったコスモスまで影が薄くなって来た。終戦後は焼跡が多く、太陽が十分に照りつけるため、また復活の傾向を示しているけれども、いまだ旧観に還るには至らぬようである。考えて見るとコスモスの花は|楚々《そそ》たる家庭婦人の趣があり、街頭に出て活動するには適せぬところがある。コスモスに伴う一種の新趣味の如きも、この花が思いきって野草となり得ぬ|所以《ゆえん》かも知れない。国家にしろ、個人にしろ、ものの繁栄には自ら限度がある。どこまで発展するかわからぬと思われたものが意外に早く|衰兆《すいちよう》を示す例を、われわれはいくつも見て来た。一度日本の秋に立脚地を得たコスモスが、絶滅する気遣は决してないから、日当りのいい郊外住宅の庭にはびこって、楚々たる花に行人を顧みさせる程度で落著いたらよかろうと思う。
 コスモスを秋桜と称するのは何時頃誰がいい出したものか、一般には勿論行われていない。俳人は文字を|斡旋《あつせん》する都合上、いろいろな異名を好む者であるが、『新修歳時記』時代にこの称呼がなかったことは、前に引用した文章によって明かである。俳句の季題には冬桜(寒桜)というものがあって、花の咲く季節を現しているから、何か混雑した感じを与えやすい上に、コスモスの花にはどう考えても桜らしいところはない。シュウメイギク(貴船菊)を秋牡丹と称するよりも、遥か空疎な異名であるのみならず秋桜などという言葉は古めかしい感じで、明治の末近く登場した新しい花らしくない。少くともコスモスという言葉に伴う一種の新しい趣味は、秋桜という言葉には含まれていないように思う。ただ上五字|乃至《ないし》下五字に置く場合、コスモスでは|据《すわ》りが悪いからというので、五首の異名を|択《えら》むというだけのことならば、今少し工夫を費してしかるべきである。如何に日本か桜花国であるにせよ、似ても似つかぬ感じの花にまで桜の名を負わせるのは、あまり面白い趣味ではない。四音の名詞はコスモスに限った話ではないのだから、つまらぬ異名を作るよりは、このままで十七字に収まるようにする方が、むしろ俳人の手腕であろう。秋桜の名が広く行われないのは、|畢竟《ひつきよう》コスモスの感じを現し得ておらぬ点に帰するのかも知れない。

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最終更新:2017年01月15日 00:32