舟行 呉葉プロローグ

眠りに落ちていた異形の生物が、自らの巣の中に侵入者の姿を認めたとき、本来6本あるはずの彼の脚は、既に4本半に減っていた。
全身を甲殻で覆われているものの、脚の付け根と関節は柔らかい。侵入者はその部分を切断したのだ。

奥まった山中にある、一際深い縦穴洞窟の底。小高い岩にふわりと降り立った人間のセーラー服が翻り、健康的な腹筋が覗く。雲の間から月明かりが差し、幾重かに布の巻かれた顔が照らし出された。
人間が手にしていた、1mはあろうかという巨大な中華包丁が大きく振るわれ、ベットリと付着していた怪物の体液が払い落とされる。

バランスを失って地面に倒れ込む怪物の巨体に煽られ、周囲に積もっていた大量の白い粉末状のものが一斉に舞い上がる。
普通であれば咳き込まずには居られないような空間だが、人間はこれを意に介した様子もなく怪物に向かって突っ込んで行く。顔を覆う布は付近の清流を流れる水に浸されており、異物を吸い込むのを防いでいるのだ。

少しでも隙を見せては命はない。そう本能的に察した怪物は、体勢を立て直しつつ外敵に向かって素早く液体を噴出する。
一度触れれば只では済まない強酸性の猛毒だが、人間はこれを事も無げに回避していく。

「キシシシ!!!」

耳障りな鳴き声と共に身体を震わせ、次なる毒液噴射に移ろうと予備動作に移る怪物の顔面に向けて、侵入者の手から、小さなボールのような物体が幾つか投擲された。
思わずそれを目で追う怪物の足元で、人間が中華包丁を抜き、スッと空中をなぞる。

次の瞬間、ボールが塵のように霧散した。と同時に、怪物の眼球に激痛が走る。

「キシシシシャァァアアア!!!!!」

夜の森の空気を切り裂く絶叫が、周囲に響き渡った。
怪物の視界が大きく歪み、急速に精細を欠いていく。と同時に、眼球がビリビリと痛み出した。

混乱のあまり、周囲に向かって闇雲に毒液を噴射し続ける怪物の背中に軽やかに飛び乗ると、人間は手にした中華包丁の峰で怪物の頭部に激しく打撃を加える。
最初は強く暴れていたが、重い打撃が繰り返されるに従ってその力は徐々に弱まり始め、数分も経たずに細かな痙攣へと変わった。

「せーのっ!」

仕上げだと言わんばかりに、人間が中華包丁を強く叩きつけると、ついに頭部の甲殻に大きな陥没が生じた。ふう、と一息つくと、砕けた甲殻の奥に手を突っ込み、ひも状のものをズルリと引きずり出す。
月明かりに照らされて白く光るそれを確認すると、顔の覆いを外し、少女は満足気な笑みを浮かべた。


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「すまない、担任に雑用を頼まれてな」
「あ、大山田さん。ちわーっす」

いつもより遅く部室にやって来た大山田末吉(おおやまだ すえきち)調達部部長を、舟行呉葉(ふなゆき くれは)はいつものように張りのない声で出迎えた。

「これ、この前行ってきた例の件の狩猟報告書っす」
「羊羹を齧りながら上役に書類を渡すというのは感心せんな」

大柄な身体に抱えていた鞄を下ろした大山田は、報告書を受け取りつつ溜息を吐いた。この後輩は、調達部エースとしての自覚が足りないように見える。

「羊羹じゃなくて、ういろうっすよ。切り分けて冷蔵庫の中に入れておきましたんで、お一つどうぞ」
「ひと通りチェックしたらいただくよ」

そう言うと、大山田部長は呉葉から渡された報告書に目を通していく。

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             報告書            提出日 ○○年5月6日
                            報告者   舟行呉葉 

【任務】フジノミヤヤキソバの狩猟及び焼きそばパンの納品

請負:調達部  依頼:購買部

静岡県富士宮地方にのみ生息する珍獣、フジノミヤヤキソバを狩猟。
その後、頭部からヤキソバを採取。
焼きそばパンに加工後、依頼者に納品。

参加部員 全1名
○舟行呉葉

使用装備
八徳包丁 頭部甲殻破壊の際に峰に摩耗が見られたが、継続使用に影響なし。

消耗品
玉ねぎ×3 狩猟対象の視界を奪うために使用。

狩猟対象データ
フジノミヤヤキソバ 麺類 体長5m
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「せっかくのGWに、わざわざ静岡まで遠征させて申し訳なかった。しかしフジノミヤヤキソバにしては小柄だったな」

読みかけの報告書から目を上げ、呉葉に声をかける。
大山田自身もフジノミヤヤキソバの実物を見たことはないが、前回の伝説の焼きそばパン納品の依頼を受けた際に狩猟された個体は、8mを超える巨体だったという。
ういろうを食べ終わったのか、今度は『地方限定!手羽先味』とパッケージに書かれたポテトチップスの袋に手を突っ込みながら呉葉は答えた。

「それでも大変だったんすよ。フジノミヤヤキソバっていうか、麺類の共通点っすけど、あいつらすぐに興奮して毒液吐いてくるじゃないっすか。巣の中は小麦粉が大量に舞っていて息苦しいし、甲羅も堅いしで、バラしてお目当ての麺を取り出すのも一苦労で。それに……」

通学鞄から取り出したペットボトル飲料を一気飲みした後に、彼女は続けた。

「図体がデカイのに、一体から焼きそばパン一人分しか取れないんじゃ割に合いませんよ。天然物の麺類が市場から消えるのも納得っす。……マッズイなあ、これ」

空になったボトルを見て顔をしかめる呉葉。『ご当地限定ソーダ 味噌カツ味』と読めるロゴが大山田の目にも入る。

「……そういえば、完成した焼きそばパンはどこにあるんだ?」

心に広がる疑念の雲から目を背け、大山田は言った。

「ついさっき購買部が受け取りに来たんで、ラッピングしたものを桐の箱に入れて渡しておきました。売店に並ぶのは明日の昼でしたっけ? 熟成も済んでますし、丁度食べ頃っすね。」
「ご苦労さま。ならばこれで一段落だな」

報告書を読み終えた大山田は、ういろうでも食べて気を紛らわそうと冷蔵庫を開ける。
すると、皿の上で均等に切られて並ぶういろうの横に、見慣れない大きな容器が目に入った。

「なあ、このタッパー、中に何が入っているんだ?」
「それっすか? 焼きそばパン調達任務中に、現地で仲良くなったおばさんにもらった……」

鎌首をもたげる疑惑を無理やり押さえつける彼に、呉葉は無慈悲な言葉を返した。

「ひつまぶしっす」

大山田末吉、流石に限界だった。

「舟行、聞いていいか」
「なんすか?」
「お前、本当に静岡県の富士宮に行って来たんだよな?」
「……え?」
「お前が取って来た麺は、本当にフジノミヤヤキソバから取ってきた富士宮焼きそばなのかと聞いている」
「……富士宮焼きそばじゃないと、やっぱその……マズイっすかね?」
「舟行イイィィィ!!!」

大山田の絶叫が手狭な部室に響き渡る。
180cmを超える巨体が、驚くほど俊敏な動きで呉葉に詰め寄った。

「購買部に渡した焼きそばパンの具は何なんだ!?」
「な、ナゴヤダガネキシメンから取れたきしめん、です……」
「ナゴヤダガネキシメン!? あれの生息地は愛知県だろう!? 何故そんな場所まで行ったんだ!?」
「電車の中で寝落ちしちゃって、気づいたら終点で、深夜で、あの……引き返せなくて……」

普段は呑気な呉葉も、大山田の剣幕に思わずたじろぐ。

「降りた駅が山の中で……どこかの民家にでも泊めてもらおうと思って彷徨ってる内に、野生のキシメンを見つけて……。その、もうこれでいいんじゃね?って……」
「なんてこった……なんて、こった……」

ふらふらと後退し、備品のソファーに埋もれる大山田。

「なんて……こった……」
「まあまあ、私の能力で細く切り揃えてますし、ちゃんと焼きそばにしか見えないから大丈夫っすよ!」
「見た目はそうかも知れないが、焼きそばときしめんでは味が全く違う!」
「この前の北海道フェアで出したエゾシカカレーも、8割豚肉でカサ増ししましたけど生徒にはバレなかったじゃないっすか!」
「あれは購買部との協議の結果で、そもそもエゾシカの肉だけだと硬くて不味かったからという苦肉の策だ! それに……」

大山田は頭を抱えた。

「焼きそばパンは注目度が桁違いなんだ!」
「どういうことっすか」
「数年に一度、一個しか入荷しない、伝説の焼きそばパン。これを食べれば願いが叶うだの能力が進化するだの……。噂が噂を呼び、今や入荷予定の告知だけで多くの生徒が熱狂する一大イベントだ! 当日は焼きそばパンめがけて、大量の客が一斉に購買に押し寄せる!」
「そ、そんな大層なものだったんすか? 天然素材を使っているだけの、ただの惣菜パンなのに?」
「大観衆が注目する中で、ことが公になったら……」

もし、焼きそばパンを手に入れた人物が、焼きそばときしめんの違いが分かる程度には味覚の鋭い人間だったら。
そしてそのことが購買部に知れたら。
2人はゴクリと生唾を飲み込んだ。

((会計部門の監査員が調査にやって来る!!))

呉葉の思考は加速する。

(マズイ……。もし監査が入れば、出張経費を水増し請求して食べ歩きやおみやげ代に当てていたことがバレてしまう……)

大山田の思考もまた加速する。

(マズイ……。もし監査が入れば、部費を横領してメイド喫茶に通っていることがバレてしまう……)

暫しの沈黙の後、共に顔を上げた2人の目には強い決意の炎が宿っていた。

「いいか、これは部長命令の極秘任務だ。俺も全力でサポートする。なんとしてでも伝説の焼きそばパンを」

大山田が重々しく、はっきりと口にする。

「はい。誰よりも先に入手して、速やかに完食(しょうこいんめつ)します」

呉葉はそんな彼の目を見て、力強く答えた。

「全ては」

「我らの」

「「財布のために!!」」
最終更新:2015年04月25日 21:57