闇雲 希プロローグ
明日からゴールデンウィークに入ろうかという日の放課後である。昼休みは人で混み合うここ購買部も、今は閑散として二人の生徒しかいない。
「待たせて済まないな。」
と、片方が言った。彼の頬は痩け、血色が悪く、眼の周りの隈はさながらブラックメタルバンドのコープスペイントのようである。
もう片方、こちらはコープスペイントの生徒に比べれば至って普通の生徒だ。
「大丈夫ですか、先輩。」
と、心配そうにコープスペイントの男を気遣っている。いかにも心優しそうな風貌だ。
「安心しろ耕太郎。それよりアレだ。見ろ…!」
などと言いながら、コープスペイントの男は商品の陳列棚を指差した。
一見、何ともないごく普通の陳列棚である。だが、よく見るとそこにはA3大の張り紙が貼られている。
張り紙には『5月7日 昼休み 伝説の焼きそばパン 入荷予定』と記載されていた。
「すごい。噂は本当だったんだ…!」
と、耕太郎は言った。
「ああ、遂に入荷されたんだ。伝説の焼きそばパンが。食べた者に全てを与えると言われる、あの伝説の…!」
と、コープスペイントの男は嬉しそうに言った。そこで、耕太郎はふいにコープスペイントの男を見た。
「闇雲先輩。なんで血塗れなんです?」
「これは店長の血だ。」
「何をやらかしたんですか!?」
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時は4月末日の放課後まで遡る。
闇雲 希は自らの頭を教室の壁に打ち付けていた。何度も打ち付け、額から血が流れていた。
「なんでだよ。」
独り呟く。
「なんでこんなに眠いんだ。」
もう一度呟く。誰も答える者などいない。
「眠い。眠い。痛い。アハッ」
希はブツブツと呟きながら病的に額を打ち付け続けている。
「眠い。眠いのに眠れないよぉ!なんで眠れないんだ!」
不眠症だった。自傷行為に走るほどの。
ふいに、背後の机に置かれたハサミの存在に意識が向いた。たった今、誰かがそれを指差したような気がした。
その時、教室の扉が開いて、眼鏡を掛けた文学系の地味めな女子生徒が入ってきた。
「あっ」
その生徒は、クラスメイトの黒渕さんだ。進級して1ヶ月経つが、会話はまだ無い。二人の目が合った。
「あ、闇雲君だ。」
黒渕さんは怖がりもせず希に近寄ってきた。そう、黒渕さんは頭を壁に打ち付けて額を割るコープスペイントの男が超ドストライクだったのである。
「闇雲君、何してるの?」
黒渕さんは聞いた。その声は魅力的で、聴く者を落ち着かせる効果があった。希は動きを止めた。
「黒渕さんか。見てわからないかな。額を壁に打ち付けているんだ。」
希は釈明した。
「近頃どうも『不眠症』に悩まされていてね。眠たいのに、もう5日も眠れてない。仕方ないから気絶しようとしてる。けど自分でやるとどうしても身を守ってしまうんだ。」
希が滔々と説明すると、黒渕さんは目を輝かせた。
「凄い。眠れないんだ。じゃあ私が闇雲君の額をカチ割っていい?」
「え?マジで!?どうぞ。」
自分の力ではどうしても気絶出来ないので、これは願ってもないことだ。希は壁を向いた。
「じゃあ早速いくよ。せーの!せい!」
言うが早いか、黒渕さんは希の後頭部を掴み、額を遠慮なく壁に打ち付け始めた。そのフォームは魔人野球部のエースピッチャーにも引けを取らない美しい型だった。
「あっちょっ待って。いきなりはアアアアーッ!アアアアーッ!」
希は叫ぶ。だが、何処と無くその声は桃源郷にいるかのような浮遊感の感じられる気持ち良さそうな声であり、全身が痙攣していた。
「せい!せい!せい!」
黒渕さんもまた楽しそうに希の頭を壁に打ち付け続けている。とても楽しそうだ。
「アアアアーッ!アアアアーッ!」
希は叫んだ。とにかく叫んだ。何故であろうか。痛みを至福に感じているのである。
「凄い!中々割れないね!せいっ!せいっ!」
すると、黒渕さんは反動をつけ始めた。脳を揺さぶろうという魂胆だ。
希の意識が遠のき始めたその時!突如として隣の教室の壁を破壊し、筋骨隆々とした全裸の隻腕黒人男性約12人が妖刀正宗を構えて突撃してきた!こんな事は全国から魔人の集う希望崎では日常茶飯事であり、特に注目すべき事でもない。しかし、壁が破壊された勢いで希は吹っ飛んだ!黒渕さんは間一髪無傷である!
「グアアアーッ!」
希が突き飛ばされた方向には机が!希は机に激突!だが、机の上には何故かハサミが置いてあった!危ない!
「や、闇雲くーん!!」
黒渕さんが叫ぶ!手を伸ばす!当然、希には届かない!ハサミは今にも希の後頭部に刺さろうとしている…二人の間に流れた時間は永遠のように感じられた。
だがこの時、希は冷静だった。
「し、死ぬ…ハサミが後頭部に刺さって死んでしまう。死ぬのは嫌だ。」
何故、希が冷静でいられたのか!?それは、黒渕さんとのやりとりで、希の脳が快感を受けた事と密接な関係がある。そう、彼は脳内麻薬過剰供給の奇病に罹り、低刺激では興奮出来ないある種の『中毒体質』だった。麻薬中毒者がより強い麻薬を求めるのと原理は同じだ。
"死ぬのは嫌か…?"
突然、希の頭の中で声が聞こえた。周囲の景色が俯瞰され、灰色になり、静止する。
"ここで死ぬのは嫌か…?"
「嫌だ。」
希は答えた。
"何故だ…?死ねば安らかになれるぞ。もう不眠症や中毒症に悩まされる事もなくなる。"
「嫌だ。死ねばもう黒渕さんに頭をガンガンして貰えなくなる。それは嫌だ。」
希は答えた。
"なる程な…死の安楽よりも生の快楽を選ぶか…それもまた一つの選択だ。ならば力を貸してやろう。"
「生きる為なら何でもする。悪魔にだって魂を売ってやる。」
希は答えた。
"ふふ…契約は成った。また、契約したな…"
「なにっ」
希が言うと、周囲の景色は元に戻った。
今のは、死ぬ直前に見た幻覚?既に、ハサミの先端部が少し刺さっている。このままでは死ぬ。
ふと、希は足下を見た。足下が光っている。光は円弧を描き、魔方陣となった。
「本日1度目の契約成立おめでとう!これで通算128度目の契約成立だ!今迄!我輩と契約した者は数多かれども!お前程のお得意様はかつて存在しただろうか!!この幸せ者め!ふふふ、ヒャッハー!」
魔方陣から悪魔が出現した!白塗りの顔面、尖った耳、蝙蝠の翼…刺々しい肩パット…ジーパン…モヒカン…マチェット…まごう事なき悪魔である!悪魔は実在した!
「コングラッチュレイション!!」
悪魔は希を肩車した!希はふらつく!すかさず、悪魔は希にスープレックスを食らわせた!ハサミが抜けた!軽傷!
「ギャアアアア」
「良し!これでハサミが後頭部に刺さることは無くなったなぁ!アディダス!」
「アディダス!?」
これはアディオスを言い間違えたものであった!だが、この唐突かつ理解不能な未知の言語が希を心胆寒からしめるには十分過ぎた!
「アディダス…うわあああああ!」
「嫌ああああああ!」
希は恐怖のあまり絶叫!悪魔は希の体を抱え上げると、窓をぶち破り空中へと羽ばたいた。
黒渕さんも恐怖のあまり鞄から太刀魚を取り出し悪魔に投げつけ始めた!そう、黒渕さんの魔人能力は『太刀魚天国』。自らの靴下と引き換えに太刀魚の屍を錬成するという、生命創造能力ならぬ死体創造能力である。その為、彼女は常に学生鞄に自らの靴下を持ち歩いている。また、太刀魚は日本中に分布し、年中通して釣れるポヒュラーな魚であるが、6〜10月にかけての産卵期が最も旬であるとされる。つまり夏になれば能力を十全に発揮できよう。あと和歌山で能力を発動すれば活きの良い太刀魚ができる。
「ヒャッハー!」
だが、なんということか!悪魔は空中を悠然と羽ばたいて行くではないか!ああ、悪魔に太刀魚は効かないというのか!?そして、悪魔の向かう先は番長小屋だ。
不意に、希の脳内にこれまで悪魔と契約した記憶が一気に流入した。
「あ、悪魔…」
『悪魔の毒毒ブルース』
悪魔と契約すれば願いが叶う。
ただし、契約者はその記憶を覚えられない。
そして、能力の本質は悪魔と契約すれば必ずその報いを受ける点である。
報いとは肉体へのダメージである。健全なる精神は健全なる肉体に宿るという。なる程。悪魔らしい発想だ。
また、報い以上の願いは叶わない。
「報い…報いが起こる。」
それはともかく、この大空のなんと雄大に広がることか。悩みなどどうでも良くなる。『悪魔の毒毒ブルース』は発動すらしていない。しかしそれすら些事となり、希は空を駆けた。
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「…という事があったんだ。」
「先輩も大変ですね。」