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本戦SSその5

5/7 5:30  <パン崎 努>
 早朝。まだ日が昇り切らず、霞がかった雲に覆われた柔らかな朝焼けが希望崎学園を包む。
 この時間に登校する学生はほとんどいない。部活動の朝練だろうか、ストレッチをしている生徒もちらほらと見えるが、ほとんどはまだ布団の中だろう。
 だから、新校舎の屋上に立つ、長身で肌は青白く、体はがりがりスキンヘッドの男。パン崎努を目撃する人間は、ほぼいない。
 希望崎学園の新校舎屋上は、一般生徒にも開放されている。だが、点検だの、貯水槽の清掃だので突然立ち入り禁止になるので、意外と訪れる人は多くない。
 パン崎は、早朝のこの場所が好きだった。理由はもちろん、学園の生徒がほとんど訪れないからである。特に女子がいないことは、それだけでパン崎にとって安息の地となり得た。
 屋上に放置されている、立ち入り禁止と書かれたカラーコーンを、出入り口前に置いた。人払いには十分だろう。
 深呼吸をする。朝の冷えた空気が、体に染み渡る。頭が冷えると、また、緊張が湧き出てくる。
 パン食ったら、パンツ食う。改めて、心で暗唱してみる。
 そのためだけに、今日まで生き延びて来た。それだけを希望にしていた。
『情けない奴だ』
 ふと、父の声が頭の中に木霊し、心臓が跳ね上がる。
 小学生の時、パンツが食べたくて仕方がない。けど、食べられない。どうしたらいいかわからないと、一度だけ父に相談したとき言われた言葉だ。そのあともなにか言われた覚えがあるが、その一言で泣きじゃくってしまい、ほとんど耳に入ってはこなかった。
 父の言葉を、何度も何度も事あるごとに思い出した。パンツを食べたいと思ったとき、パンツの匂いを嗅いだとき、パンツを見たとき、パンツなとき。
 父の言う通り、僕は情けない、恥ずかしい人間だ。
 だが、もういい。恥ずかしかろうが、情けなかろうが、僕はパンツが食べたいんだ。パンツ食えなきゃ、生きている価値なんてない。
 これは、そのための運試しなんだ。



5/7 11:10  <兵動 惣佳>
 希望崎学園新校舎から購買部に続く石畳で舗装された道は、お昼時に購買部に向かう学生ならば、必ず通る道である。
 購買部のプレハブは、新校舎から約3キロメートル離れた林を切り開いた広場に建っている。よって、購買部の周りは生い茂る木に囲まれており、道は若干旧校舎方向に湾曲したこの舗装路しかない。道を外れれば昼間でも薄暗く、普通に歩くだけでも難を労する。
 脇に花壇が設けられ、赤青黄と色とりどりの花に囲まれたこの道を、1匹の犬が走っていた。
 名前は武蔵。希望崎学園に野生している、茶色の毛並のセントバーナード3歳だ。咥えたビニール袋の中には、108円と、「伝説の焼きそばパンをください 1年B組 兵動惣佳(授業は出てます! この子は私の代理です! どうかよろしくお願いします!)」とかわいらしい字で書かれたメモが入っている。
『惣佳ちゃんのためなら何でもするわんわわーん!』
 武蔵はだらしない顔で夢想する。
「ありがとう武蔵! お礼にいっぱいもふもふしてあげるね! もふもふ! もふもふ!」
『もふーんもふーん! もっともふもふしてほしいのだわーん!』
「もふもふ! もふもふ!」
『もふもふ! もふもふ!』
 よだれをたらしまくる武蔵は、人間が見てもわかるほどだらけた表情をしていた。

 5月6日の放課後。番長小屋の脇。丸くて大きいビン底眼鏡をかけた、よく言えばボブカット、悪く言えばお母さんに切ってもらったかのような髪形の、小柄な女の子、兵動惣佳が一人で立っていた。
 彼女の魔人能力『アニマル・リンガル』は、動物との会話が可能になるという、シンプルなものである。惣佳は、森の奥に向かって、小さな声で話しかけた。
「あの、みんな……もしよかったら、お願いしたいことがあるんだけど」
 少女の小さな一言に、森がざわめいた。その瞬間、犬、サル、キジをはじめ、猫、イノシシ、アナコンダなど、希望崎学園になぜか野生している動物の大群がどこからか現れ、一様に叫んだ。
『惣佳ちゃんのお願いなら、なんだって聞くよ!』
 惣佳は、想像以上の反応に困ったように微笑んだ後、お願いごとの説明をした。
 惣佳のお願い事は、至って単純。焼きそばパンをくださいと書いたメモとお金を渡すので、4限の授業が終わるチャイムが鳴った瞬間、購買のおばちゃんに渡してほしいというものだ。
 焼きそばパンを買うためには、4限の授業を受けなければならない。身体能力が一般生徒とまるで変わらない惣佳では、とてもではないが誰よりも早く購買にたどり着くことはできない。
 しかし、人には頼もうにも、希望崎学園の人間であれば授業をサボらせてしまうことになるし、そもそも惣佳にそんな友達はいない。
だが、動物ならば授業時間中でも自由に行動ができる。授業が終わってすぐに、買い物をすることも。
 惣佳にとって、動物は皆友達である。あまり自分のわがままに巻き込みたくはなかったが、4限が終わった瞬間パンを手に入れることができれば、誰も争いに巻き込まれることはない。散々悩んだ末に、とりあえずお願いをしてみることにした。
 それを聞いた動物たちが過剰に反応したのは、これはもう惣佳が単純にいい子で、動物たちは常々何かしてあげたいと思っていたからである。目立つところはないが、思いやりがあり、慎み深い子だ。言葉にすれば陳腐だが、当たり前のように身についている人間は多くない。こと、希望崎学園においてはなおさらである。
 惣佳は、動物に愛される性質だったのである。
 武蔵がお使い役に選ばれたのは、購買部で餌付けされており、購買部の職員に顔が知れ渡っていることが理由だ。
『購買部のおばちゃんといっぱい遊んで、12時20分になったらこの袋を渡せばいいだけなんだから、簡単だわふーん』
 武蔵はわき目も振らずに駆けていた。惣佳ちゃんのために購買に行く。頭にはそれしかなかった。
 武蔵が途中で人とすれ違い、その人に一瞬触れたことに、武蔵自身は気が付かなかった。
 すれ違ったのは、ブリーチで染めた金髪を、ジェルでオールバックに流した小柄な男。強面を理想としているのだろうが、くりっとした目が印象的な童顔にはまるで似合わず、すでに成人しているというのに、田舎のヤンキーのような小物臭が漂う風貌となってしまっている。
 だが、気配の消し方は一級品で、並の魔人であれば、目視しても存在すら感知できないほどであった。
「んだよ、しけてやがんなあ。災害救助犬よろしく、ウイスキーでも持ってんのかと思ったのによ」
 ビニール袋の中から、108円を取り出した男は、中のメモを軽く読んで、鼻で笑って、踏みつぶした。
 男は、名を臥間陶児といった。



5/7 11:15  <臥間 陶児>
 臥間陶児は、購買部からほど近い木の上に腰かけ、のんびりと時を待っていた。
(ったく、さっさと誰か焼きそばパンを買ってくれないもんかねえ。暇すぎるぜ)
 学生から頂戴した携帯ゲームで遊びながら、これまた学生から頂戴したドリトスとコーラを素手で口に運ぶ。当然ゲーム機は油でべとべとだが、どうせ他人のものなのだ。臥間にとっては、どうでもいいことだった。
 学生証に書かれた校則には、4限の授業を受けなければ焼きそばパンを買う資格がないと書かれていた。ここは魔人学園だ。授業を受けなければ、そもそも概念的に焼きそばパンを購入できない可能性がある。
 だが、自分は部外者だ。授業を受けたふりをするだけでもリスクは高いし、授業を受けたと認識されるかどうかも怪しい。結論として、自らの能力を最大限に活かす方法をとることにした。すなわち、
(買った奴から、スる。いっやー、シンプルで最高だね)
 右手をワキワキと動かしながら、にやける。
 臥間は、自分の能力に関して絶対的な根拠のない自信を持っている。実際問題、彼の魔人能力『フィンガーマン』は、そこらの学生ごときでは防げないような圧倒的なスリ能力であるから、その自己分析は外れてはいない。
 なにより、彼は自分のセコさを省みない。自分の行動は常に正しいと考えている。それは、極限状態において躊躇をしないということでもある。
 臥間はゲス野郎だ。しかし、それ故の強さがあった。
 だが、ゲスの考えることなど、うまくはいかない世の中である 
「サボりはいけないね」
 突然の極ロリボイス。臥間が木の下を見ると、純白の割烹着に黒色長髪のツインテール。大きな目に張りのある肌、なにより、平坦なその体。年齢不詳の女が、臥間を見上げながら仁王立ちで笑っていた。
 その眼を見た瞬間、背筋を包丁で撫でられるような、言い知れぬ寒気が臥間を襲った。
(こいつは、やばい!)
 臥間がその場を離れようと振り返ったその瞬間、
「逃げんなよ」
 眼下にいたはずの女が、いつの間にか目の前にいた。臥間が逃げようとした一瞬のうちに、木の上まで跳んだのだ。
 女はにやりと笑い、両手を大きく広げた。
 風が、吹いた。
「人 心 滅 殺 阿 修 羅 神 砕 波 !」
 女の背後に見えた巨大な阿修羅のイメージを最後に、臥間の意識は途絶えた。



5/7 11:30  <購買部の おばちゃん>
“金を払えばお客さま。払わなければただの人。万引き犯は糞袋”
 糞袋の横に≪極殺!≫と達筆な文字で書かれた布が、購買部店内レジ上に圧倒的な存在感を持って鎮座している。これは、希望崎学園購買部の部訓であった。
 この一筆を描いた漆原佐代子、自称購買部のおばちゃんは、純白の割烹着と年齢不詳のロリ容姿がトレードマークの名物店主である。
 愛想よく笑顔を振りまきながら、冷やかしの学生にも軽口をたたき、店内での暴力は一瞬で鎮圧する。万引きなど成功したものは誰一人としていないし、かと思えばボコボコにされた挙句人生相談をさせられた万引き生徒が、おばちゃん目当てのリピーターになったりもする。むろん、おばちゃん自身のかわいさも要因の一つではあったが。
 子どもを持たぬ彼女にとって、希望崎学園の生徒すべてが愛すべき子どもたちであった。そして彼女は、間違った道に進もうとする生徒がいれば、殴ってでも道を正す。当然差別はしないし、えこひいきもしない。
「あんたが、伝説の焼きそばパンをほしい理由はよくわかった。でもさ、ちゃんと授業は受けなよ」
 これで、今日捕まえた生徒は9人目。4限目の授業をサボって購買部付近に隠れていた生徒への説教も、おばちゃんの大事な仕事だ。おばちゃんは、校則違反を許さない。決められたルールの中で努力することが、彼らにとって最も大切なことだと信じているから。
 この日、授業をサボった上での買い物に、成功した人間はいなかった。
 余談だが、8番目につかまった男、臥間陶児はおばちゃんの説教を聞いて、なんか泣いてた。俺、授業受けるよおばちゃん、とか言ってた。その場の空気に流されて思ってもいないことを言った挙句に、後で「マジあのババアクソだぜ」などと周りに愚痴る臥間は、ある種一本筋の通ったゲス野郎であった。


≪臥間陶児 リタイア≫



5/7 12:10  <兵動 惣佳>
 今日は、五月晴れである。
 教室窓際の席は日当たりがよくポカポカ暖かいので、生徒たちは例外なく睡魔と闘っている。惣佳も、普段であればそのうちの一人であったが、今日に限っては緊張と不安で眠気はどこかに消えていた。
 惣佳は思う。武蔵は、もう購買部にたどり着いているころだろうか。周りに怖そうな人がいたらすぐに逃げ出すようには言っておいたが、頭がいい割に間が抜けている子だ。危険な目にあっていないか、気が気ではなかった。
 そのせいで授業も全然聞いていなかったし、1週間ぶりにクラスメイトから話しかけられたのに無視してしまった。今日は、散々である。
(自分がお願いしたくせに……。私、なにしてんだろ)
 大きなため息をついたとき、窓から小さく、若干不快な音がした。
 ふと見ると、黒猫が窓を爪でカリカリ掻いていた。黒猫の小次郎だ。一瞬ぎょっとする。小次郎は普段、番長小屋の脇から動かない。新校舎まで来たことなんて、今まで一度もなかったはずだ。
 惣佳は、先生に見つからないように、静かに窓を少しだけ開け、小声で、
「どうしたの、小次郎」
と尋ねる。
『ムサシ、しくじったぜ』
「え……?」
 惣佳の顔色が青ざめた。今日一日武蔵のことを心配していたせいか、しくじったという言葉から、最悪の想像が頭に浮かぶ。もし大怪我なんかしてたら。いや、ひょっとしてそれ以上の……。
 惣佳は思った。そうであれば、私は一生後悔するだろう、と。
『知らない間にビニール袋を落としてたらしい。購買部でたっぷりゴロゴロしてから気づいたんだとさ。泣きながら帰ってきた』
 思わずずっこけそうになる。椅子が大きい音を立て、先生に睨みつけられるが、姿勢を正して、目を合わせないように黒板を見ていたら、大きくため息をつき、また授業に戻った。
『とりあえず、ムサシにはヤキ入れといたから。どうするソーカ。今度は、オレが行くかい?』
「……その前に、一個だけ確認させて。武蔵は、怪我とかはしてないんだよね?」
『元気そのもの過ぎてムカつくぐらい。ワンワン泣いてうっとおしい』
「そっか。よかったぁー……」
『オレさあ、ソーカのそういうところキライじゃないけど、絶対損するタイプだぜ』
 心底安堵する惣佳に、心底あきれたように小次郎はため息をついた。
『で、どーするよ』
 惣佳は少し考えて、
「ううん。自分で行く。やっぱりこういうのって、自分でやんないといけないなって、武蔵に頼んだ後に、ずっと思ってたの」
と、答えた。今、小次郎と話していてよくわかった。自分のせいで誰かが傷つくのは、やっぱり耐えられない。
 惣佳は思う。私は間に合わないかもしれない。けど、友達を作るために、友達を使うのは、違う。私のためのことなんだから、私が努力しないといけない。どうしたらいいか、ちゃんと考えて、一歩一歩進んで行こう。
 武蔵が無事で、本当に良かった。
 小次郎は、相変わらず猫特有の、無表情かつ興味なさそうな顔で、ふんと鼻先を鳴らす。
『危ないぞ』
「でも、決めたから。大丈夫。無茶はしないよ」
『どーだか』
 小次郎は諦めたように尻尾を振り、窓から降りて森に向かって歩いていく。小次郎は、馴れ合わない。いつもドライで、他人のことなんかどうでもいいような雰囲気を出している。寂しく思うときもあるけど、その距離感は、惣佳も嫌いじゃなかった。
 ふと、小次郎が立ち止まった。
『みんな、林ン中で待ってるから。授業終わったら、気を付けて来いよ』
 それは、こちらも向かずに、誰に言っているかもわからないような小さい声。
 すぐに駆け出した小次郎は、なんだか照れているようにも見えた。
 惣佳の小さな胸が、熱く鼓動した。大丈夫。私は頑張れる。
「ありがと」
 言い終わるが早いか、窓を見続ける惣佳のこめかみに、数学教師必殺のチョークが直撃した。



5/7 12:19  <購買部の おばちゃん>
「さあ、て」
 レジカウンター横に取り付けられたガラス窓から、校舎の時計を見た漆原佐代子は、購買部の出入り口にかかった≪準備中≫のプレートを裏返し、≪開店≫とした。
 今日は荒れるだろう。だが、購買部のおばちゃんは、不法行為は看過しないが、生徒同士のケンカには寛容だ。人死が出ない限りは、座して待つつもりであった。
 購買部は、物を売るための購買部だ。それ以上の越権行為は、差し控えるべきだという信念がおばちゃんにはあった。
 なにより、これも青春だ。
 外に出て、深呼吸をして、しばし待つ。
 しばし
 しばし
 しばし
 待つ。

 カチン。

 キーンコーンカーンコーン

 ジャスト午後0時20分。4限目の授業終了を意味するチャイムが鳴り響いた瞬間、佐代子はあらん限りの腹筋力と肺活量を使い、叫んだ。

「開店だよおおおぉぉぉ!」

 その叫びはいつも通り、希望崎学園すべてに余すことなく轟いたという。



5/7 12:19  <上下 中之>
 上下中之は普通の魔人である。
 普通の容姿に普通の体格。普通の頭と普通の心をもって、普通の人生を歩んできた。
 普通の魔人である“ことができる”魔人能力『普通概念存在』を持つ上下は、ある意味で誰よりも強く、誰よりも弱い。
 上下は普通であるから、自分の能力がうまくいけばどのような強力な能力を持つ魔人であっても殺しうるものであることを、普通に知っていた。だがそれは、大多数の“普通”に引っ張られてしまう集団においては扱いづらいものであることもまた、普通に知っていた。
 普通とは何か。
 上下は、自分の能力の意味が知りたかった。そして、こんな能力を持った自分の存在理由が知りたかった。それは、高校生が誰しも一度は考えるであろう、普通のことだった。
 そんな普通のことを知るために、上下は普通に焼きそばパンを手に入れたいと思った。
 ひょっとしたら、普通に対する考え方だけは普通の人とは違うのかもしれないと思ったけれども、自分が他人と違っていると思うことも高校生としては普通なのだろうと、普通に思った。
 上下は、普通という概念の奴隷だ。
 彼は、ここから抜け出すことは決してできない。
 チャイムが鳴った。
 大声が響いた。
 これで、焼きそばパンを手に入れる条件は整った。
 上下は、その場にいた焼きそばパンを狙う何人かと同じく、普通にチャイムが鳴った瞬間動き出した。
 上下は、その場にいる何人かと同じく、普通に靴を教室に持ち込んでいた。
 上下は、その場にいる何人かと同じく、普通に教室の窓から飛び出した。
 上下は、その場にいる大勢と同じく、普通に購買部に向かって駆け出した。
 上下は、その場にいる大勢と同じく、空を飛ぶ燃え盛る鳥を見た。
 上下は、その場にいる大勢と同じく、これは避けられない、と思った。
 上下は、普通にあきらめた。


≪上下中之 リタイア≫



5/7 12:20  <住吉 弥太郎>
(わっかりやすいねえ。ほんと、判で押したみたいに同じ動きしてくれんだもんな)
 黒色の巨大なアフロ頭がトレードマークの住吉弥太郎は、新校舎2階の教室の窓際で校庭を見ながら、携帯電話を懐にしまってほくそ笑んだ。
 住吉の目の前では、炎に包まれた巨大な鳥が校庭に降りた生徒を一人残らず焼き払うという残虐ショーが行われていた。周りの学生はドン引きである。だが、この大参事が住吉の魔人能力『借りて来た不死鳥(ディメンジョン・フェニックス)』の効果であることを知っている者はいなかった。
 スタートダッシュは競争の王道。すなわち、チャイムが鳴った瞬間が勝負の分かれ目。一番早く飛び出した奴が最も勝利に近づく。ほとんどの生徒はそう思っていたようだ。
 ところがどっこい、ここは魔人学園である。そんな狙い撃ちされやすいタイミングで外に出るなど、一網打尽にしてほしいと言っているようなものだ。
 住吉は、授業中にすでに『借りて来た不死鳥(ディメンジョン・フェニックス)』宛の番号を携帯電話に打ち込んでおき、チャイムが鳴った瞬間発信を押したのだ。おかげで、ほぼノータイムで多くの生徒を焼き払うことができた。
 住吉は、自分の能力を使うならばここだと確信をしていた。争奪戦の人数を一気に減らすならばこのタイミングしかないと思っていたのはもちろんだが、何よりも住吉の能力は極一部の人間しか知らない。よって、この蛮行が住吉によるものだと特定される可能性が薄い。
 そう、お礼参りを食らう可能性が格段に減るのである。
(いくら伝説のたこ焼きのためとはいえ、後の学校生活が面倒くせえことになるのはごめんだからな)
 なるべく労せず、恨みも買わず、おいしいところだけ持っていく。
 それが、住吉の考える“器用さ”であった。
 不死鳥が帰っていく。火力は調節していたから、死んではいないだろう。ここの学校は、保険医共も化け物だらけだ。きちんと治療を受ければ、まず問題はあるまい。
(さて、いきますかね、っと。待ってろよ、俺のトレジャー!)
 住吉は、隠し持っていた靴を履いて、窓から飛び降り、駆け出した。



5/7 12:20  <パン崎 努>
 ただでさえ白い顔をさらに白くして、パン崎は、懸命にいつも通り歩いていた。187センチメートルと長身かつ細身のパン崎は目立つが、皆校庭の惨劇に目を奪われている。特に友人たちに声をかけられることもなかった。
 炎が校庭に吹き荒れたときは、正直肝が冷えた。スタートダッシュをすることも作戦の一つとして考えていたが、自分がいくら必死に走ろうが、加速能力を持つ魔人相手では焼け石に水だと思い、別の方法をとることにした。結果として、それは正解だったといえる。
 昼食前にトイレに立つ生徒の波に紛れ、新校舎2階の教室を出ていく。今日は、購買部に行くのを諦めて、弁当を持ち込んでいる生徒が多い。廊下も多く人がいて、紛れ込むには最適だった。慌てず、いつも通りに。目立たないように、
 廊下を進み、階段を上がる。3年生のクラスがある三階を過ぎれば、ほとんど人はいなくなった。焼きそばパン争奪戦に参加している生徒は、皆下駄箱のある階下に向かっているのだろう。ここからは、とにかく急ぐ。
 行先は、屋上だ。



5/7 12:21  <仕橋 王道>
 ヒョロヒョロで色白、小柄な体格。面白味のない無難な形の眼鏡に、少しかかるほど伸びた黒色の髪の毛。しかし、その奥の眼光は、静かに深い光を湛えている。
 希望崎学園3年仕橋王道は、新校舎1階下駄箱から取り出したスニーカーを履き、悠然とアキレス腱を伸ばし始めた。
(開始直後が最も危険というのは共通認識だと思っていたが、これは意外だな)
 パシリは過酷だ。どのような障害があろうとも、必ず品物を持ち帰らなければならない。危機管理に関して、パシリの右に出る者はいないだろう。パシリの王たる仕橋ならば、なおさらだ。開始直後に開けた場所をひた走るなど、愚の骨頂であった。
 校庭には、黒焦げの生徒の群れ。仕橋はそれらを歯牙にもかけず、ストレッチを続ける。準備運動は大切だ。体の隅々まで血を巡らせ、間接を柔らかくすることで、怪我の可能性を減らす。生死の境を切り抜ける瞬間ほど、こういうちょっとした準備が大きな差になる。
 王は、無様に慌てない。慌てることは、動揺と同義だ。
 静かに、冷たく、確実に。それこそが、僕にふさわしい。王道は確信している。自分の道こそが、唯一の勝利への道程であると。
 準備運動を終えた王道は、あたかもレッドカーペットを歩くかのように校庭に進んだ後、徐々に、力強く加速していく。
 圧倒的な自負心こそが、王道の最大の武器であった。



5/7 12:21  <冬頭 美麗>
 黒色の布地に、白色のフリルを施したドレスを着た、恐ろしいほどの美貌を持つ、白色長髪の美少女。こいつに、制服という概念は存在しない。
 新校舎正門玄関を少し出た校庭で、黒焦げ集団を嘲るように見下す冬頭美麗もまた、危機管理能力に優れていたといえる。
(当然の結果、と言えますわね。考えもなしに外に出るから、そうなるんですわ)
 冬頭は、扇をたおやかに振りながらほくそ笑んだ。はたから見れば、超然とした優雅なお嬢様そのものである。だが、その胸の奥には、地に堕ちたプライドを取り戻さんとする、熱い決意の炎が燃え盛っていた。
(危険は徹底的に排除して、勝利をつかむ。私はもう、決して負けられないのです!)
「出でよ我が友、素極端役 亜由美(すごくはやく あゆみ)!」
 手に持つ扇を限界まで開いて大きく横に煽ると、冬頭の目の前に人間大の小さな竜巻が生まれた。竜巻はその勢いを増していき、それが最大まで達したとき、中から眼鏡ツインお下げの、陸上部風のジャージを着た美少女が飛び出した。
「……!!!」
 亜由美は、極度の口下手だ。言葉を滅多に口にしない。ジェスチャーで、『お役に立てるよう頑張ります!』と冬頭に伝える。
「ええ、期待していましてよ、亜由美さん」
 冬頭の能力、『誓いの元集え我が銃士達(ワンフォーオール・オールフォーワン)』は、あらかじめ絆を結んでおいた年下の女子を、三銃士として呼び出す能力である。以前は、一度使用しただけで疲れて動けなくなってしまったが、血の滲むような努力で、今では自在に呼び出すことができる。
 挫折を知ることで、冬頭は慢心を捨て、謙虚な姿勢を得た。恥を捨て、師を得て努力することで、一人では限界があるということも知った。その中で、仲間を信頼し、共に戦うことで、限界など軽々と突破できることを知った。
 冬頭は確信する。自分の能力は、仲間を呼び出すための能力ではない。仲間と協力し、共に戦うための能力であると。
 今の冬頭は、強い。
「それでは亜由美さん、行きますわよ! 私を持ち上げて、購買部に向か」
「アバーーーー!」
 全ては、一瞬のうちに終わっていた。
 巻き起こる砂嵐の中で、冬頭は見た。血でまみれた校庭と、爆発四散した肉片を。いったい、何があったというのだろうか。
 まず、亜由美の能力は、「いずれか片方の足が床についている限りマッハ2の超スピードで移動できる」魔人能力『MiS21(ミス・トゥエンティワン)』である。しかし、そのスピード故、障害物に弱いという欠点があった。
 しかし冬頭は特訓の結果、『呼び出した人間と接触している限り、少々の障害はものともせず突き進むことができる』という付加能力を手に入れた。
 そこで冬頭は、亜由美が冬頭を抱っこしながら進むことで、マッハ2で障害物をなぎ倒しながら進むという反則に近い方法で購買部に向かおうとしたのである。完璧な作戦といえるであろう。
 だが、想像を絶するコミュ障だった亜由美は、冬頭が「行きますわよ!」と言った時点で能力を発動し、マッハ2で進んだ。音速の壁を越えた際に起こるソニックブームは砂ぼこりを発生させ、亜由美の視界を奪う。そして、転がっていた黒焦げ生徒に蹴躓き、マッハ2の速度で地面に頭からダイブして爆発四散したのである! 何たる悲劇!
 冬頭は、肩を抱いて震えていた。顔には、冷汗がダラダラである。
(う、うろたえちゃだめよ冬頭美麗! 大丈夫! 私は強い!)
 そう、こんな時のために仲間にした、もう一人の銃士を今こそ呼び出すのだ!
「出でよ我が友、時流 否不変(ときなが ひふへ)!」
 冬頭が手に持つ扇を煽り、再び風を起こすと、竜巻の中からビン底眼鏡の白衣を着た小柄な少女が現れた。
「ふへ~。お嬢様、お呼びですかね~?」
「ええ。校庭で爆散した私の友……の破片が、あの辺りにあるわ。彼女を、生き返らせて頂戴」
「おっけ~です~。ふへへ」
 言うが早いか、時流は美麗が指示した場所に走り、地面に手をついた。時流を中心として、半径10メートルほどの円形の光が広がる。
「ん~、『滝の鯉登り』!」
 時流の能力、『滝の鯉登り』は、時流が指定した範囲に含まれる生命の時間を巻き戻す能力である。
 この場合の生命とは、生命であったものも含む。すなわち、死人を生きている状態に戻すことができるという、希望崎学園屈指の回復系能力者である。
 が、時流の能力はあくまでも、“生命の”時間を巻き戻す能力である。
「……!!!!!」
 ビデオテープの逆再生のように復活した亜由美は、自分の姿を見て声にならない叫びをあげた。全裸だったのである。制服は生命ではないから、元に戻らなかったのだ。
「ふへ~、めんごめんご~。まあ、減るもんじゃなアバーーーー!」
「アバーーーー!」
 砂嵐が巻き起こる校庭で、亜由美と時流は粉微塵になった。
 前述のとおり、亜由美は極度のコミュ障である。いきなり自分が野外露出プレイをしているという現実に耐えきれず、とにかく逃げようとしたのだ。マッハ2の速さで。
 その際、時流は運悪く、何も考えずただ走ろうとした亜由美の進行方向上にいた。走る亜由美と、受け止める時流。二人の姿が重なり合い、肌と肌とがぶつかり合い、血袋が弾けた。スプラッター再びである。
 今度こそ完全に膝から崩れ落ちた美麗は、確信する。自分は覚悟が足りなかった。私の能力は、他人を使う能力だ。だが、人は信頼しても、思い通りに動いてはくれない。
 人に任せるのではない。私が人を使うのだ。私を強くするのは、信頼する覚悟ではなく、支配する覚悟だったのだ。
 美麗の瞳に、昏い炎が宿る。彼女は、今確かに、修羅道に一歩足を踏み入れた。
 ちなみに、亜由美に蹴躓かれた上、時流の能力でやけどが治った瞬間マッハ2のソニックブームで購買部方向に吹き飛ばされた不幸な黒焦げ男がいたのだが、冬頭は気づかなかったようである。


≪冬頭麗美 リタイア≫



5/7 12:23  <パン崎 努>
 パン崎は希望崎学園新校舎の屋上に設置された貯水槽の、さらに頂上に立っていた。屋上には誰もいない。事前に置いた、立ち入り禁止のカラーコーンが効いたのかもしれない。
 希望崎学園は、大きい。
 校舎も敷地面積も既存の校舎と比較して極端に大きく、頑丈な作りになっている。それは、校舎全体に水を行き渡らせなければいけない貯水槽も同じことだ。直径5メートル、高さ6メートルの円柱は、上に立つと公園の砂場程度の広さを持つ。
 ここは、希望崎学園でもっとも高く、開けた場所だ。
 パン崎は、眼下に広がる景色を見る。新校舎から購買まで部は約3キロメートル。そこかしこで、阿鼻叫喚が聞こえてくる。予想通り、妨害合戦になっているのであろう。最初の段階で、ほとんどの生徒が黒焦げに焼けたこともあり、まだ購買部についている者はいない……と思う。
 そこは運だ。
「Dad Rule. She Move(君は僕のおもちゃ)」
 パン崎は貯水槽の中心に立ち、右手を真横に伸ばして、回り始めた。ぐるぐる、ぐるぐると。



5/7 12:24  <千倉 季紗季>
 ハリガネムシモドキサナダムシ、学名ハリガネムシクンという虫がいる。
 この虫は、宇宙から飛来する小惑星の欠片に付着してきた地球外生命体と考えられており、主に哺乳類を宿主とする寄生虫である。
 ハリガネムシクンは生物の胃の中に寄生し、経口摂取した食物をそのまま摂取する。時には宿主の体の各所から出てきたり、宿主の体を操ったりして、強制的に食事をとらせることもあるらしい。
 ハリガネムシクンは食事の際に、ディストピアトロニンという物質を分泌する。これは、宿主の脳内を刺激して多幸感を与える物質であり、中毒性がある。
 つまり、寄生された宿主は、ハリガネムシクンに食事をとらせることに幸せを感じるようになるのだ。
 そんなちょっと危険な虫を操る能力、『もぐれ! ハリガネムシくん』を持つ少女。ロングの黒髪をまとめずにまっすぐ下ろし、制服にジャージのズボンを履いて、おしゃれポイントの伊達眼鏡をかけている。最近食事の量が増えたから、ちょっぴり体型が気になるお年頃、千倉季紗季である。
 彼女は今、腕を左右に開きながら、包丁の背を腹で受け止めていた。
「ゴバァ!」」
 季紗季の口から、どろりとした血反吐が出て来た。包丁を持っているのは、セミロングの黒髪をリボンで縛ったポニーテール、制服のスカートを詰めて短めにしている今風の女の子。調達部所属、船行呉葉である。
 季紗季は、吹っ飛ぶことはなかったものの、身体がくの字に折れ曲がり、鼻と口から血を出して、それでもなお倒れない。
「な、何してんすかお前!」
 動揺し、動きが止まる船行に対して、季紗季は微笑んだ。

 二人は、共に希望崎学園新校舎から購買部につながる林の中で出会った。船行は、忍者のように木から木へ飛び移りながら、季紗季は、スパイダーマンのように木から木へハリガネムシくんを射出しながら、それぞれ購買部を目指している最中出会い、追いかけっこの様相を呈した。
 移動速度で船行に劣ると判断した季紗季は、ハリガネムシくんを林に木々に張り巡らし、船行の進路を妨害した。それを煩わしく思った船行は、季紗季を包丁の背で殴り、しばらく眠ってもらおうと考えた。船行は、季紗季が地面に降り立った瞬間、木の幹を蹴って加速をつけ、包丁を振るった。
 しかし、季紗季は躱さず、むしろ包丁に向かってきたのだ。しかも、笑顔で。
 痛みを恐れる様子のない季紗季に、船行には包丁を振りぬけなかった。誰だって、殺人者にはなりたくない。船行は、季紗季を殺してしまうかもしれないことを恐れたのだ。 
 季紗季が常に笑顔を絶やさないのも、痛みを恐れず包丁に向かっていったのも、ディストピアトロニンの副作用である。摂取のし過ぎで、食事中でなくても微弱な多幸感を常に感じ続けており、痛覚も麻痺していた。
 季紗季は、ケンカの素人だ。まともに戦えば、ほとんどの魔人に勝てる見込みはないだろう。だから、戦わざるを得ないときは、自分の体を犠牲にする。殺し合いであれば別だが、ケンカであれば、一撃で死ぬようなダメージは入らないだろうという、得体のしれない前向きさが、季紗季の戦法の要だった。
 実際、痛覚がマヒしているだけで、季紗季は普通の女子高生である。船行が包丁を振りぬけば季紗季の内臓は破裂して、死は免れなかっただろう。

 ハリガネムシくんは、侵入した生物の体を支配下に置くことができる。硬化したハリガネムシくんの先端が、船行の耳から入って鼓膜を貫き、脳幹を乗っ取れば、全身を支配下に置くことができる。
 そして今、船行は吐血する季紗季に動揺している。今ならば、ハリガネムシくんが侵入できる。ハリガネムシくんは、張り巡らされている木を離れ、自身の先端を硬質化させ船行めがけて突き進んだ。
((僕たちの勝ちだ!))
 だが、ハリガネムシくんが接近する風音を聞いた船行の眼に、鋭い光が宿ったことに、1人と1匹は気が付かなかった。
「その虫、不味いんすよね」
 船行が、包丁を持った右手を上げた瞬間、ハリガネムシ君の体は粉微塵になった。
「は、ハリガネムシくん!」
 季紗季の顔から、初めて笑顔が消えた。
 季紗季は、すぐに木の枝から飛び下りた。ずいぶん高いところだったらしく、足首の骨が折れたような音がしたが、気にも留めずハリガネムシくんの欠片を集めた。動かない。今までも怪我をすることはあったが、ここまでバラバラにされたのははじめてだ。
 季紗季の頬を、涙が伝った。鼻血と、吐血と、涙が混じった液体が土に溶ける。以前泣いたのは、どれだけ前のことだろうか。ハリガネムシくんと出会ってからは、楽しいことしかなかった。
「ハリガネムシくん……! ハリガネムシくーん!」
少女の泣き声が、希望崎学園に響いた。
((はいはい))
「わあ、生きてた!」
 細切れにされたハリガネムシくんの体に動きはない。どうやら声は、体の中から聞こえてくるようだ。
((うん、なんか、ちょっとだけ季紗季ちゃんの中に残ってたのがよかったみたい。体の9割切られても生きてるとか、我ながらびっくりの謎生物っぷりだよね))
 季紗季は、また泣いた。ハリガネムシくんとの食事を上回る、圧倒的な幸福感で涙が出た。
((どうする? 購買部目指す?))
 ハリガネムシくんの問いに、季紗季は頭を振る。
(いい。今度こそ本当に、ハリガネムシくん死んじゃうかもしれないもん)
 季紗季は悟った。ご飯は、おいしいものを食べるからおいしいんじゃない。一緒に食べる人……か、虫がいるからおいしいのだと。
 虫を飼っているのか、虫に飼われているのか。それでも、これからも季紗季の幸せな昼食は続く。
 空を肌色の棒が横ぎったが、季紗季の目は涙で滲んでいて、よく見えなかった。


≪千倉季紗季 リタイア≫



5/7 12:25  <船行 呉葉>
 数々の食材と死闘を繰り広げてきた船行呉葉の眼力は、季紗季が右手から出す高速で動く糸が、ハリガネムシであることを早い段階から見抜いていた。ハリガネムシは、一度だけ素揚げにして食べたことがある。あんまり美味しくないけど、食べられなくもない。おかげで、視認した瞬間食材として認識できたという意味では、やはり、食わず嫌いはよくないということだろう。
 船行呉葉の魔人能力『C・C・C(カット・コーナーズ・クッキング)』は、船行呉葉が食材と認識した物体を、包丁を振ることで、一瞬で任意のサイズに等分する能力だ。この能力を使い、ハリガネムシくんをみじん切りにしたのである。
 実際に船行が切り刻んだのは、船行が知っているハリガネムシではなく学名ハリガネムシクンなのだが、船行が食材と認識していることが重要であり、実態は大した問題ではなかった。この点については、船行の大雑把な性格がうまく作用しているといえる。
 船行は、生粋の狩人である。生きるとは戦いであり、敗北とは死だ。だからこそ、極限状態での、思考を超えた直観の判断力に重きを置く。
 船行は、テストの成績は悪いし、大雑把かつ適当で、何事もノリで行動してしまう、そこら辺にいるかわいい女子高生である。しかし、だからこそ今を生きることを知っている。それが、船行を調達部のエースたらしめている理由なのだ。
 地面を這いつくばり、細切れになったハリガネムシの体を、目に涙を溜めながら集める季紗季。船行呉葉はそれを一瞥すると、すぐに木に登り、枝から枝へ購買部に向かって移動し始めた。
 船行には、急ぐ理由があった。
(4現居眠りして、スタート遅れたって部長にバレたら、ドンだけ怒られるかわかんねえっす!)
 おかげでジャージを履く暇もなかった。スカートを押さえ、後ろに人がいないか気にしながら、木から木へと駆け巡る船行。彼女の席は窓際で、4限の従業中はぽかぽか暖かく眠くなる。彼女の呑気さが、開始直後に放たれたフェニックスの驚異から自身を救ったことを、船行は知らない。
 船行の頭上を肌色の棒が横ぎったが、船行は前しか見ていなかったので、まるで気が付かなかった。



5/7 12:25  <住吉 弥太郎>
 希望崎学園新校舎から、購買部に続く舗装路。
 普段は花壇に囲まれた綺麗な道だが、今日に限ってはその上にバタバタと人が倒れ、赤青黄と色とりどりの花は、すべて紅色に染められている。
 その中で、住吉弥太郎は、細く、神経質そうな眼鏡の男性と向かい合っていた。プレッシャーは感じない。それが、逆に恐ろしさを感じさせた。
 序盤で『借りて来た不死鳥(ディメンジョン・フェニックス)』を放ち、多くの生徒を黒焦げにしたとはいえ、出遅れた生徒や、危機回避をした生徒はまだ多く残っていた。住吉は、舗装路を行くグループのトップを走っていたが、今ではこの追いついてきた男以外いないようだ。
 ガンつけ合いなら負けねえ。住吉は、視線を外さずに、声をかけた。
「あんた、知ってるぜ。仕橋先輩、だろ?」
 おそらくは全員、やられたのだ。この男、仕橋王道に。
 仕橋は、こめかみに指をあて、少し頭を振った後、
「……すまんな。僕は君のことを知らない」
 と答えた。
「あー、いいっていいって。覚えてもらわねえほうが。名前覚えられて、仕返しにこられてもつまんねえ」
「ほう」
 瞬間、仕橋から重苦しいプレッシャーが放たれた。住吉は、思わず、一歩下がる。希望崎学園最強のパシリ。人呼んで、パシリの王、仕橋王道。その名は伊達ではないようだ。
(だけど、身体能力は俺のほうが上だ)
 住吉は、アフロ頭をぼりぼり掻きながら、仕橋の肉体を分析する。住吉は、ダンサーだ。ダンスバトルにおいて、相手の肉体を分析し、戦法を考察することは勝利の絶対条件ともいえる。
 仕橋は、体の線は細い。筋肉の質も良くない。流石に健脚のようだが、上半身の力はまるで弱い。
(ということは、希望崎学園最強と呼ばれているのは、能力のせいか? どんな能力かはしらんが……)
 “最強”という言葉は、中二に溢れるこの学園において、至高の称号だ。ただのパシリに与えられるものではない。よっぽど強力な“何か”を持っているのだろう。
 住吉は、一瞬考える。先出の能力か、カウンター能力か。待つべきか、速攻すべきか。仕橋の目を見る。そこには強い意志力を感じるが、攻め気も逃げ気も見えない。
 一歩、仕橋が無造作に右足を前に出した。何かを仕掛けてくる様はない。住吉は身構えるが、焦って先に仕掛けることはしない。おそらく、挑発をしているのだ。だとすれば、カウンター能力の可能性が高いか。
 仕橋が、住吉に言葉を投げる。
「クレバーだな。感覚よりは、理論派か」
 仕橋が続いて左足を出す。住吉に向かい、構えも取らず、ただ、普通に。
「ダンスをしているな。ブレイクダンスか。いや、アニメーションとヒップホップもかじっているのか」
 住吉の背筋に冷気が走り、思わず息を飲む。また一歩、仕橋が右足を出しながら喋る。
「先の火の鳥。あれ、君の能力だな。これだけ近接したら、使えない」
 仕橋が、左足を出す。住吉の頬を、一筋の汗が伝った。住吉は悟った。分析されていたのは、俺のほうだ、と。
「このまま時間をかけるのはまずい。俺が持つ最速の技は、ブレイクダンスを流用したスライディングだ。カウンター能力の可能性もあるが、ここまで来たら仕方がない。カウンターを受ける前に決めるしかない。
 仕橋先輩の肉付きからして、耐久力は決して高くない。頭を狙うと死ぬ可能性がある。それは、まずい。脚を刈って、動けないようにするのが得策だ。
 脚に全神経を集中させ、弓の弦を引くイメージで力をためる。仕橋先輩がもう一歩進んだその瞬間、一気に行く。さあ、こい、こい、こい!
 ……と、考えていたな。住吉弥太郎君」
 仕橋の右足の下には、住吉の顔がある。仕橋が一歩距離を詰めた瞬間、住吉は全速力のスライディングで迎え撃った。しかし、仕橋はスライディングを跳躍でかわし、全身全霊を持って踏みつけたのだ。
(こんな、馬鹿な。こいつは今、俺が行動を起こす前に跳んでいた)
 住吉は、薄れゆく意識の中で、仕橋の声を聴いた。
「君は良いファイターだよ。だが、パシリにはなれない」
 もう一度、顔面を踏みつけられ、そこで住吉の意識は途絶えた。


≪住吉弥太郎 リタイア≫



5/7 12:25  <仕橋 王道>
 仕橋王道は、住吉弥太郎の顔面から足を離す。もう、ピクリとも動かない。完全に意識を失ったようだ。
 危機管理能力で言えば、パシリの右に出る者はいない。そのために必要なのは、冷静さ、判断力、そして、情報収集能力だ。
 元いじめられっ子のガリ勉少年仕橋王道は、研究に余念がない。天気、天候はもちろん、購買部の仕入れ状況。不良の出欠。購買部までの最速ルート。そして、強力な能力を持つ生徒の情報。全ての情報を手中に収め、分析し、その日どのように買い物をするかを決める。
 住吉弥太郎。ダンス部所属の、司法書士を目指す秀才。きちんと考えた上で行動をするが、性格的にはどちらかといえば短気。得意な戦法は、スライディングによる不可避の速攻。
住吉は、希望崎学園の生徒としては、取り立てて目立つ方ではない。だが、王道は知っていた。そして、対峙した時の攻略法も、幾度となくシミュレーションしていた。
 仕橋による住吉弥太郎の分析は、ずっと前から終わっていた。この戦いは、最初から最後まで、王道の掌の上で行われていたのだ。
 王道は、振り向きもせずに、また走り出した。目指すのは、焼きそばパンのみ。
 空で風を切る音がしたが、今日は一日中晴れの予報。風がそろそろ出てくるのは事前の情報収集で知っていたので、別に何も思わなかった。



5/7 12:26  <闇雲 希>
 俺は、不幸だ。胸まで伸びる手入れを一切していない黒髪長髪、頬は痩け、血色が悪く、眼の周りに大きな隈をつくる全裸の青年、生徒会会計役員食費担当、闇雲希は思う。
 焼きそばパンを手に入れるためにチャイムが鳴った瞬間校庭に出たはいいものの、よくわからんうちに黒焦げになり、傷が治ったと思ったらその瞬間すさまじい衝撃にふっとばされて立ち上がることすらできない大ダメージをうけていたのだから、これは不幸と言わざるを得まい。しかも、なぜか全裸だ。制服はどこに行った。
 ただまあ、唯一不幸中の幸いと言えるのは、ふっとばされた先が購買部の目の前の広場だということか。闇雲は、少しずつはいずりながら、購買部の扉を目指していた。
 闇雲は争奪戦開始直後に、悪魔と契約して能力者の身体的ダメージと引き換えに願いに応じた物体を召喚する魔人能力『悪魔の毒毒ブルース』を使っている。争奪戦開始直後に『購買部まで誰よりも早く行きたい』と願ったのだ。
 その結果召喚されたのが冬頭美麗ということなのか、とにかく闇雲は、立ち上がることすらできないダメージと引き換えに、購買部の前に来ることができたのだが、本人は悪魔に願ったことすら覚えていない。つくづく因果な能力である。
 もう少しだ。もう少し。
 ずりずりはいずる闇雲の耳に、舗装路を走る靴音と、木々が揺れるガサガサという音が聞こえた。
 木の上から、林を抜けて来た様子の包丁を持った女子がひょっこり顔を出した。きょろきょろと、誰かいないか様子を見ているようだ。その視線が、購買部から新校舎に続く舗装路に向いた瞬間、動きが止まった。
 自分の存在には気づいていないようだ。闇雲は、心の底から安堵する。流石に、全裸を女子に見られるのは、ちょっとまずいぜ。ごろごろと、林の中の目立たない場所に移動した。



5/7 12:26  <船行 呉葉>
 こいつ、強いっす。
 購買部前の舗装路を駆けてくる男を見た瞬間、船行は全身の毛が逆立つのを感じた。野生の化け物と同じ……いや、それ以上の圧。
 船行の眼はその男、パシリの王仕橋王道にくぎ付けになった。慌てて、身をひそめる。おそらく、気づかれてはいないだろう。
 船行の得意な戦法は、障害物を使って360度縦横無尽に跳び回る4次元殺法だ。だが、購買部前の広場に、障害物はほとんどない。行くならば、今しかない!
 船行は、殺意を固めた。手加減すれば、こっちが喰われる。焼きそばパンのためにそこまですることはないが、もはや船行は焼きそばパンのことをあまり考えていない。この精神的な昂りは、大物を見つけたときの狩人のそれである。
 船行が、右手に持つ包丁を取り出して振りかぶると、足場にしていた木の幹を思い切り蹴り、仕橋に向かって飛ぶ。その衝撃に耐えられず、木は幹ごとぶち折れた。
 船行が全力で跳躍した際の速度は、時速300キロを超える。当然、人間に反応できるような速度ではない。しかも、仕橋はまだ船行を認識していないはずだ。いまなら、やれる!
 だが、仕橋は、船行を見るような様子もなく、ほんの少しだけ身をよじった。それだけで、仕橋の斬撃は空を切った。
 ちっ! 舌打ちをした船行は、地面に着地した瞬間、振り向きざまに仕橋の胴体を突く。だが、仕橋の行動は、船行の予想を超えていた。
 仕橋は、左手を包丁に向けて広げ、自ら突き刺していた。
「買った」
 仕橋がそう唱えた瞬間、船行は長らく愛用している唯一の武器である八徳包丁を手放した。仕橋もすぐさま後ろに飛びのく。左手は貫通しており、ぽたぽたと血が滴っているが、仕橋はまるで顔色を変えない。ゆっくりと包丁を左手から引き抜き、ズボンからポケットチーフを出して血をぬぐうと、懐にしまった。
「匂宮君の注文、『包丁 1本』……。確かに、買い取ったぞ」
 仕橋の魔人能力『Pa.Si.Ri』は、「商品を確保し」「販売者に買う意思を伝える」ことで、購入を成立させる能力である。販売者は、売り渡す権利を持っている者であればよく、個人でも構わない。仕橋は、自身の左手に刺すことで確保した包丁を、船行から買い取ったのだ。
 だが、この能力を使うためには、物品の購入がパシリ行為である必要がある。そこで、仕橋は今日のこの時のため、事前に学園全体の不良から注文を得ていた。その中には当然、仕橋を困らせようとするために無茶な注文をする不良もいる。当然だ。不良共は、人の足を引っ張ることを至高とする生き物だからである。
 だが、だからこそ彼らの思考は読みやすい。仕橋は、うまく会話を誘導して、武器になり得るものを片っ端から5月7日の注文に加えさせた。ライフル弾、刀、ゴルフクラブから、モップ、柱時計、コショウに至るまで。包丁もその一つである。争奪戦中に入手できなかったものは焼きそばパンを手に入れた後買いに行く必要があるが、その程度、仕橋のパシリ力ならば造作もないことだ。
 だが、それでも船行ほどの手練れが繰り出す包丁を一瞬でも確保するのは、仕橋にとっても成功率の低い賭けであることは間違いなかった。
 にもかかわらず、仕橋は焦らず、相変わらず冷汗一つもかかない。痛みはある。だが、苦痛を顔に出すことは、弱みを敵に見せることだ。それは、仕橋の王たる哲学が許さなかった。
(どういうことっすか!)
 船行は、愕然としていた。何故、私は唯一の武器である包丁を売ってしまったのか、全く分からない。仕橋の能力が、意思や記憶を操作する能力なのだとしたら、真正面から向かっていっても勝てない可能性がある。
 攻めあぐね、動きを止める船行に対し、仕橋がかけた言葉は、予想もしないものだった。
「船行呉葉よ。キシメンと焼きそばは、相当違うぞ」
 船行の頭が、一瞬真っ白になる。何故、知っている? 仕橋の異常ともいえる情報収集能力を知らない船行の動揺を、王が見逃すはずはなかった。
 パシリ流踏殺法、『我大盾21』!
 仕橋が、長年のパシリ行為により鍛えた健脚で、一瞬にして船行との距離を詰めた。
「う、うわあ!」
 船行が慌てて拳を放つが、仕橋は跳躍して躱す。そのまま船行の頭を掴んで、
「魔翼飛翔!」
 全体重をかけて、地面に後頭部から叩きつけた。
 船行が意識を失う瞬間、空を肌色の棒が横ぎった気がしたが、気にすることもできなかった。



5/7 12:26  <兵動 惣佳>
『ソーカ、こっちこっち!』
「はあっ……はあっ……! ま、待ってちょっと休憩……!」
 小次郎に先導され、新校舎から購買部に向かう林の中を、兵動惣佳は走っていた。上空に飛んでいる燕が先に危険がないか見た上で、人間が通りやすい獣道を小次郎に教えてもらいながら進んでいるのだ。
 決してあきらめない。そう決めたのはいいものの、靴を取り出している間に校庭は燃えているし、そこかしこで悲鳴が聞こえてくるし、もう泣きそうだ。
 そもそも、惣佳は足が遅い。まだ購買までの道を半分ほどしか行けてないが、動物たちがいなければ、ここまでたどり着くこともできなかっただろう。
 突然、燕が騒ぎ始めた。小次郎が、眉をひそめる。
『アイツ、動くか……。ソーカ、ちょい右に動いて。ソコは危ないかもしれない』
「ど、どしたの?」
『多分、ウデが通る』
 小次郎は、新校舎を見ていた。惣佳もつられて、その方向を見た。
「なに、あれ……」
『聞こえなかったか? 風を切る音。さっきからずっと、空で回ってたんだ。ながーい、ウデ』
 惣佳は見た。新校舎の屋上から、空高くそびえたつ肌色の柱を。



5/7 12:27  <パン崎 努>
 貯水槽の上、まっすぐに腕を上げて、パン崎は考える。サイン、コサイン、タンジェント。1:2:√3。
 パン崎の魔人能力『Dad Rule. She Move(君は僕のおもちゃ)』は、右腕を伸ばす能力である。戻る速度は一瞬。ただし、戻す際にパン崎が手で触っていたもの以外に対する物理的な干渉はできない。パンチのように拳を出せば、その速さが手に乗り、伸びる速度は上がる。
 よって、ハンマー投げの要領でぐるぐると回れば、手は速さを失わずに伸び続ける。伸ばしている間に、攻撃を受ける可能性はもちろんあった。みな、上空をそこまで気にしないのではないかとは思っていたが。
 運がよかった。
 新校舎から購買部まで、直線距離で約3.12キロメートル。この校舎の高さが、約24メートル。何度も何度も確認した。
 そして、パン崎の腕の長さは今、約3.12キロメートル。角度は、限りなく水平に近く。だが、ほんの僅かだけ落として。大丈夫。僕の体のことは、僕が一番知っている。自分の体を思い通りに動かすということに関しては自信がある。ヨガは、偉大だ。
 狙いをつける。購買部までまっすぐに、
 振り下ろせ!



5/7 12:27  <仕橋 王道>
 左手の止血をしながら、倒れる船行を見下ろし、仕橋王道は考える。古来より、勝者は敗者を見下ろすものだ。この女は強かった。間違いなく、今回の争奪戦で最強の敵だっただろう。
 だが、勝った。
 仰向けに倒れる船行の顔面を、仕橋は踏みつける。それはとどめのつもりか、己の威光を示すためか。
「下郎めが。王たる僕の道を塞ぐな」
 僕の道は、栄光の道だ。邪魔者は、すべて叩き潰す。購買部前の広場に、立っているものは仕橋以外に存在しない。
 勝利の確信から、体の芯が震える。笑いがこみあげてきた。経験したことのない興奮に支配される。思わず、
「平民は平民らしく、這い蹲っていろ!」
吼えた。
 この瞬間、争奪戦が始まって初めて、仕橋は油断した。地に伏した敗者など気にも留めていなかったから、彼らが起き上がることなど、まるで想定していなかった。
 仕橋の体の動きが、止まる。背後から、羽交い絞めにされたのだ。尻の辺りに、不快なぬくもりを感じる。こいつは、さっき転がっていた、全裸の男か。
 仕橋の脳内に、生徒のデータベースが広がる。闇雲希。生徒会の、食費担当の、1年後輩の……。
 仕橋に鳥肌が立つ。こいつは、やばい。
「他人が幸せのために努力することを、そんな風に言うもんじゃあない」
 闇雲がそう言った瞬間、『悪魔の毒毒ブルース』が発動した。闇雲の足元に魔方陣が展開し、中から悪魔が出現した。閣下とでも呼びたくなるような、見事なまでに悪魔な悪魔は、伸びのあるハイトーンボイスで高らかに叫んだ。
「本日2度目の契約成立おめでとさんだぜヒャッハァー! 契約内容は、『このいけすかねえ野郎をブッ飛ばしてえ』! ご注文承りましたぽんぽこー!」
 その瞬間、仕橋の脳天に空から飛来した“何か”がぶち当たった。
 ぐらつく仕橋。見ると、すでに闇雲も頭を押さえて倒れている。自分と同じく、空から降ってきた“何か”にやられたのだろう。振ってきたのは、長い、棒のような、肌色の、
 腕?
 そこで、仕橋は体を制御する力を失い、完全に仰向けに倒れた。目がかすんでいく。もう、何も見えない。勝利も、空も、道も。
 僕の、道が。
 仕橋は右手を空に伸ばしたが、その手は宙をさまよい、そのまま地に堕ちた。


≪闇雲希  リタイア≫

≪仕橋王道 リタイア≫



5/7 12:28  <パン崎 努>
 バキ。と、何かが折れる音が、パン崎努の手を、腕を、全身を伝わって、響いた。
 思わず呻き声がもれる。熱い。右手と、右手首が熱い。どくんどくんと手に血が巡る感覚が強くなり遅れて激しい鈍痛がやってくる。右手に力が入らない。
 手が当たったのだ。何かに。
 苦痛に顔を歪めながら、焦燥感に苛まれる。自分の拳が、購買部の人に当たったか。まず頭に浮かんだのはそれだった。
 いや、購買部近くにいたお客さんかもしれない。頭がい骨は硬いと聞くが、僕は人を殴ったことがないからわからない。木ではない。僕の位置から真っ直ぐ腕を伸ばせば、枝に引っかかったとしても木に当たらないことは計算してある。もしや、距離を誤ってプレハブの天井にでも当たったか。
 次から次へと湧き出る思考の波を、頭を振って散らす。
 ここまで来て、怖気づくな。最初から、すべては運試しなんだ。
 何に当たったのかは、もう考えないことにする。腕の角度をキープして、まっすぐ、慎重に少しずつ伸ばす。
 パン崎は自分の腕の長さをセンチメートル単位で調節できる。ヨガを通じて自分の体は知り尽くしていたし、伝説の焼きそばパンを手に入れると決めてからは、ひたすら長さの調節を磨き続けた。
 数10センチ伸ばすと、こつんと、自分の拳が何かに当たる感触がした。これは、購買部の窓だ。レジのすぐ横。やはり、僕の距離感は正しかった。パン崎は、左手でガッツポーズを作る。
 慎重に二回、ノックをする。と、指先から、ガラスの横開き窓が開く感触。痛みで凝り固まってうまく開かない右手を、懸命にパーの形にする。手の中には、「伝説の焼きそばパンください」というメモ紙と、108円が入っている。
 素早く紙とお金が取り上げられた。相手が見えないというのは、恐ろしい。本当に購買部の人かどうかもわからない。そもそも、付近に敵がいたら、いつ腕が攻撃を受けるかわからない。拳でなにかを殴っただけでこれほど痛いのだ。殴り付けられたら、たまったものではないだろう。
 永遠にも感じる待ち時間を終わらせたのは、手におかれたビニール袋の感触と、手のひらに指で書かれた
(まいどっ)
の言葉だった。 
 モノクロの視界が極彩色に色づいた。うるさいほど胸を叩く動悸も、今の僕にはファンファーレだ。僕は成し遂げたのだ。袋を握りしめ、能力を解除すれば、この手に焼きそばパンがある! パンツを食える!
 喜びに支配されたパン崎は、一瞬気を抜いた。
 腕を引き戻す瞬間、抵抗があった。だが、それはパン崎のような魔人としては非力な者でも無理をすれば持ち上げられる程度の抵抗だったので、そのまま腕は引き戻された。
 若干下向きに伸ばした、通常の長さのパン崎の右手には、「これがあの伝説の焼きそばパン!」とパッケージに表記された、黄金に輝く焼きそばをふっくらとしたパンにはさんだ焼きそばパン。
 と、その袋ごと僕の手をつかんでいた、泥まみれの女の子。
 嗅いだことのあるパンツの匂い。パン崎の全身に、鳥肌が立った。
 同じクラスの、船行呉葉。
 その右手には、包丁が掴まれていた。



5/7 12:28 <船行 呉葉>
 船行が意識を取り戻したとき、仕橋と闇雲は折り重なるように崩れ落ち、長く伸びた右手が焼きそばパンを持っていた。
 船行は、この能力を知っていた。同じクラスの、パン崎努。右腕を伸ばす能力。戻す時は、一瞬。
 仰向けに倒れる仕橋の胸元を見たとき、考えるより先に体が動いた。一瞬で間合いを詰め、仕橋の懐に入っていた包丁を右手で掴み取り、そのまま左手で焼きそばパンをつかむ。即座に右手を切り落とそうと、包丁をふるったが、頭がぐらつき、一瞬振り下ろすのが遅れた。
 パン崎にとっては幸運だったのは、右手を元の長さに戻す際の物理干渉無視という性質が、右腕にも及んでいたことだ。パン崎が手を引き戻す瞬間と、船行が包丁を振り下ろすのは、全く同時だった。よって、包丁はパン崎の腕を透過し、船行の体勢が崩れたまま、貯水槽の上に瞬間移動することとなった。
「う、うわ!」
 突然の来訪者に驚いたパン崎が、慌てて船行を突き飛ばした。よろよろと下がった船行は、しかし崩れ落ちず、歯を食いしばって立ち続ける。後頭部に絶え間なく鈍痛が響くが、四肢は動く。完調には程遠いが、まだ戦える。
 狩りの場で動けなくなることは、すなわち死を意味する。自分の負傷を的確に認識することは、調達部の基本スキルだ。そして、動けなくなるまでに生還しなければならない。船行の眼に、自然と殺気がこもる。
 負傷した獣は、何よりも恐ろしい。
「船行さん……。き、君も、参加していたのかい」
 パン崎が、焼きそばパンを懐にしまいながら、距離を取る。船行はパン崎の言葉を無視し、睨み付ける。
「パン崎君、焼きそばパンに興味ないって、言ってたっすよね」
 この争奪戦に参加した学生たちを思い出す。立場が違うから敵になったが、誰もが強い意志を持ち、痛みを恐れずパンを求めていた。
 なのに、この男は。
「痛みもない。危険もない。安全なところから、食べもしないパンを買って、何がしたいんすか」
 頭の激痛が消える。これは、怒りだ。覚悟もなく、安全圏から利権だけをむしり取ろうとする外道に対する、怒り。
「私は、そういうのが一番嫌いなんすよ! このゲス野郎!」
「あ、あの、船行さん。パンがほしいなら、譲っても……」
「うるせえパン公! もうそういう問題じゃねえんす!」
 船行は、包丁をまっすぐパン崎に向けて、構えた。
「あたしはあんたから、焼きそばパンのカツアゲを実行するっす!」
 声高らかに宣言する船行に、パン崎は心の底から嫌そうな顔で返した。
 なお、この時怒りに我を忘れていた船行は、自分が焼きそばパンを手に入れる理由も、食べもしないパンを利権のために手に入れようとするゲス極まりない理由であることを、すっかり忘れていた。
 船行呉葉は、身体能力は極めて高いが、頭が悪い上、その場のテンションと勢いで行動してしまう、困ったちゃんなのであった。



5/7 12:29 <パン崎 努>
 右手が、熱い。パン崎は、加速していく痛みを、唇を噛み懸命に耐えていた。
 既に、パンを手に入れるという目的は達した。別に、焼きそばパン自体は譲っても構わないのだが、船行はなぜか異常に怒っている。説得には応じてくれそうな雰囲気ではなかった。
 船行呉葉。同じクラスの、窓際の席の女の子。男子からは人気がある。相当やり手の調達部員で、数多くの食材を購買部に届けている。ノリで行動する、呑気でちょっとアホな子。物凄く強い。
 パン崎が知っている船行の情報はこの程度であったが、少なくとも自分が戦うことも逃げることも難しいということはよくわかる。
 しかも、船行は包丁を持っている。自分に刃物が向けられるというのは、想像以上に恐ろしい。なにせ、刺さったら死ぬのだ。冗談じゃない。
 船行が、頭を左手で押さえて振り、こちらを睨みつけた。
 くる!
 パン崎が、右手を真後ろに振る。勢いよく伸びた右腕は新校舎屋上のフェンスを掴む。が、伸ばした手でフェンスを掴むということは、腕を振る速度で手をフェンスにぶち当てているようなものである。右手にまた激痛が走る。とても痛い。思わずパン崎の顔が歪む。
 痛さで右手に集中したのは、本当に一瞬だったのだが、気が付けば、パン崎の目の前で船行が包丁を振りかぶっていた。
 早すぎでしょう!
 パン崎は慌てて右腕を縮め、貯水槽を正面に見て屋上の端まで瞬間移動した。ピリピリとした痛みに体を見ると、学生服の腹の部分が横一文字に切られ、肌からうっすら血がにじんでいる。歯の根が合わない。奥歯ががたがた言う。本当に包丁で切り付けてきたという事実に、血の気が引いた。しかも、船行とは貯水槽の端から端、5メートルいっぱい間合いを取っていたはずなのに、一足飛びで詰めて来た。尋常ではない。
 船行が貯水槽から飛び降りる。頭を痛そうに押さえているものの、6メートルの高さから下りて、足がしびれた様子もない。本当に同じ人間か。ちなみに、一瞬パンツが見えて、パン崎はこんな時でも勃起はすることを知った。
 屋上に至る扉は貯水槽の脇。船行は、貯水槽の真下。船行の攻撃を潜り抜けてたどり着けるとは思えないし、たどり着けたところで逃げ切れもしないだろう。
 そして、今の移動で、右手はすでに限りなく限界だ。痛すぎる。とても耐えられない。
 このままでは、殺される。パン崎は涙目になりながら、必死に喋る。
「船行さん……。パンがほしいなら、僕は焼きそばパンを譲るよ。だから、保健室に行かせてくれ。君も、頭を怪我しているんだろう。一緒に、先生に診てもらおうよ」
 パン崎は考える。そうすれば、お互いにこれ以上疲弊することはない。僕は、パンツを食べることができる。船行さんは、パンを食べることができる。これでいいだろう。これが一番幸せな解決方法じゃないか。
「あんた、心底情けねえ臆病者っすね」
『情けない奴だ』
 屋上に、船行の冷たい声が響いた。侮蔑するような目で見据えられたパン崎の脳裏に、父の言葉がまたフラッシュバックして、思わず体が硬直する。
「焼きそばパンが欲しかったんすよね。なのに、パンはいらねえとか、和解しようとか、逃げてばっかりじゃねえすか」
『おまえは、パンツを食べたいのに食べれないといった。それは、与えられた環境に目を背けているだけだ』
 船行の言葉に、父の言葉が重なる。やめてくれ。これ以上僕を追い詰めて、何が楽しいっていうんだ。逃げちゃだめなのか。目を背けちゃだめなのか。それは、そんなに悪いことなのか。
 ずっと孤独だった。パンツのことを話せる友達なんて、一人もいなかった。それでも、頑張ってきたんだ。パンツを食べないように、ずっと、ずっと。
 もう、いいだろう。僕は頑張っただろう。もうそろそろいいだろう。パンツ、食わせてよ。
「断言してやるっす。目標を目の前にして、保身のために諦めるような奴の望みがかなうことなんて、一生ないっすよ」
 ガツンと、頭を殴られたような気がした。
 僕の望みが叶わないなら、僕が生きている意味なんて、ない。
 刃物の恐怖が消えていく。それはそうだ。元から、死んでいるようなものなんだから。右手は痛いが、痛いだけだ。考えてみれば、僕がこれまで感じた痛みと比べれば、全く大したことのない痛みだ。
 オーケィ神様。よくわかったよ。これが、僕の運試しのラスボスか。
 くすくすと笑いが出て来た。どうせ、やりたいこともやれない、価値のない人生だ。死んだって構わない。人を傷つけたってかまわない。
 パンツのためなら、悪魔にだってなってやるよ。
「船行さん、今の言葉を後悔しないでね。僕はどんな手を使っても君を倒して、僕の望みを叶えてやるよ」
 船行が、にやりと笑った。
「やれるもんならやってみろ、っすね」
 船行が、冷たい声を放ち、貯水槽に向き合って飛びあがった。そして、貯水槽の壁を、手に持つ巨大な包丁でぶった切った。切り口から水の線がちょろちょろと飛び出た次の瞬間、大量の水が船行を巻き込みながら、パン崎に押し寄せて来た。
(共倒れする気か?)
 パン崎は、船行の行動が理解できなかった。なんにしろ、このままでは、水の質量にやられて、屋上から投げ出される。高さ20メートルから落ちるのは、いくら魔人といえどノックダウンは確実だ。最悪死ぬ。
 逃げる場所はここしかない。パン崎は、貯水槽の天井に至る梯子の最上段に右手を伸ばす。ものすごく痛いが、気にならない。あえて握りこまず、右手をかぎ型に曲げながら、右腕を縮めた。
 パン崎の体は、大量に流れる水を飛び越え、梯子にとりついた。右手に力が入らず落ちそうになり、慌てて左手で梯子をつかんだ。
「やっぱ、そこっすよね」
 下方から、船行の声が聞こえた。見下ろすと、包丁を貯水槽側に構えて、ゆっくりと振る船行。さながら川を切り開くモーゼのように、激流は船行を避けるように流れていた。
「水は、料理で最も重要な“食材”なんすよ!」
 船行は、流れ出る大量の水を食材と“認識”し、魔人能力『C・C・C(カット・コーナーズ・クッキング)』を使い、自分を中心にして等分に切り裂いたのだ。
 船行は、パン崎に向かってまっすぐにジャンプした。ここで決める気だ。
 パン崎は、左手を梯子から離し、貯水槽の壁を蹴った。ちょうど、飛んでくる船行と激突するかのように。左手がふさがったままでは、とても勝てない。両手を自由にして、対抗するにはこれしかない。
 右手を、サイドスローの要領で伸ばしながら、左手を盾のように構える。こっちの手はくれてやる。叩き切られようと、殴り飛ばされようと、一撃は耐える。
 船行は、一瞬目を丸くした後、薄く笑った。包丁を逆手に持ち、取っ手の背をパン崎に向けた。
 船行愛用八徳包丁。八徳とはすなわち、肉、野菜、魚、叩き潰す、抉る、焼く、刺し貫く、そして、
ブッ飛ばす!
 包丁の取っ手部分から、閃光とともに爆音が轟いた。
 船行は、包丁の取っ手部分に火薬を仕込み、スイッチ一つで爆発共に発火するように改造していたのだ。その威力は、重力加速度をつけたパン崎の勢いを止め、さらに押し返すほど。調理においては主に熊肉などを撃退しながら火を通すという一粒で二度おいしい使用方法。今なら1本50190円(税込)のご提供になります。
 パン崎は、煙を上げながら吹き飛んだ。左手の肉は爆風で抉られ、骨が露出している。頭は左腕でかばっていたおかげで無事だが、胴体は学生服を弾き飛ばした挙句一部の肉を重度火傷させた。脚はなんとか動くようだが、全身ズタボロだ。
 それでもなお意識を保っていたのは、その手に、いくら望んでも手に入れられなかったものを掴んでいたからだろう。
 空中で、船行は腰に違和感を覚えた。スカート、ではない。さらに、その先。
 人差指をかぎ型に曲げた右手が、船行の腰に引っかかっていた。見ると右手は、背後から船行を中心にぐるりと回るように、パン崎の右腕へとつながっていた。

 あの極限状態の中で、船行の肌に触れることなく、パンツだけに指をひっかけるという神業。
 船行に感知されないように、わざわざ大きく腕を回すという無理を可能にした柔軟性。
 そして、“手を引き戻す際、パン崎が手で触っていたもの以外に対する物理的な干渉はできない”という能力。
 ずっと前から気づいていた。だが、認めたくなかった。自分の能力は、最初からこのためにあった。
「Dad Rule. She Move」
 パン崎の右手に、今まさに船行が履いていたパンツが握られた。
 パン崎は最初から分かっていた。まともにやっては船行に勝てないが、パンツを盗むことはできると。
 パン崎は今初めて、自らの能力の本来の力を発揮した。

「どぅえええ! ななな、なんすかこれ!」
 宙に浮いている船行は、包丁を取り落し、スカートを押さえた。当然だ。船行は、狩人である前に一人の女子高校生なのだ。スカートが風であおられれば、未発達な陰部がさらされる。ここだけの話、船行は人よりちょっと成長が遅くて、あの部分のあれもちょろっとしか生えておらず、それがコンプレックスになっている。絶対に人に見られるわけにはいかないのだ。もう、焼きそばパンどころの話ではない。
 船行は、体に巻き付ける形でスカートを押さえて、着地する。どうにかスカートがまくれることはなく、ほっと、一息をついた。
 その背後に、パン崎は立っていた。左腕が抉れ、胴体の肉が焦げてもなお、パンツのために。
 慌てて振り向いた船行の顔面がわしづかみにされる。もはやパン崎の右手の感覚はなく、掴んでいるとすらいえない。右手を当てているだけだ。普段の船行ならば、すぐに振りほどいて反撃できただろう。
 だが、その船行の顔面と押し当てられた手の平の隙間に一枚の布。船行の視界には、青色の布地に白いレースが見えていた。
これは、先ほど脱がされたばかりの、自身のパンツだ。
「ななななーっ!」
「うおおおおおおお!」
 取り乱し、防御を忘れる船行は、そのままなすがままに押し倒される。パン崎は、計算したわけではない。ただ勝ちたいというその一心で、硬いコンクリートの屋上に向かって、船行の頭を叩きつける。
「Dad Rule. She Move!」
 ゴキャア!
 腕が伸びる時の加速も加えられて、船行の後頭部がコンクリートの屋上にめり込んだ。本日二度目の、頭部への強打。
 もう、船行は立ち上がれなかった。
 勝敗は、決したのだ。


≪船行呉葉 リタイア≫



5/7 12:31  <パン崎 努>
 ふらふらと立ち上がるパン崎。その鼻には、かぐわしい女の香りが立ち込めていた。当然香りの出所は、手に持つパンツである。
 ついに、手にしたパンツ。青色の布地に、ワンポイントで白色のレースがつけられたローライズのパンツ。それも新品や、洗濯物ではない。今まさに脱がしたパンツ。よく見れば、黄色いシミや想像もつかない透明なシミなどもついているかもしれない。これを、この時を、どれほど待ち望んだことか。
 思えば人生がオナ禁だった。周りのみんながかわいい女子を見て興奮しているときも、すぐさまパンツを奪ってしまいそうで話に加わることもできなかった。パンツ以外には興奮しない。この性癖を、どれほど恨んだことか。
 焼きそばパンのことも忘れて、手にしたパンツに吸い込まれる。局部が痛いほど隆起する。視界が群青色に染まる。全てがパンツに。世界がパンツに!
 パンツ、パンツ! ぱんつ! パンツ! 口に、口に! パンツをくちにぃぃぃぃ!
『情けない奴だ』
 パン崎の頭にまた、父の言葉が思い浮かぶ。うるさいうるさいうるさい! 僕はこんなに我慢していたじゃないか。何が情けないって言うんだ。
 父さんは、僕を情けない息子だと思っていたんだろう。だから、立派な人間になろうとしたさ。でも、もう限界だ。自分のやりたいことをやるのが情けないことだというのなら、僕はもう、情けなくていい!
 パンツを食うんだ! パンツ! パンツを! パンツを!
『おまえは、パンツを食べたいのに食べれないといった。それは、与えられた環境に目を背けているだけだ』
 目を背けて何が悪い。逃げだして何が悪い。こんな自分、認められるわけないだろ。好きになれるわけないだろ! 逃げ出すしか、ないじゃないか!
 今まで一度も思い出せなかった、父の言葉の続きが頭に響く。パン崎が泣きじゃくって耳に入らなかった言葉が、長い時間を経て、パン崎に届く。
『前を向け。選択をしろ。自分を許し、欲望を満たすか。欲望を抑え、正しいと思うことを貫くか』
 うるさいうるさいうるさい。黙れ黙れ黙れ。もう遅いんだ。もう食べるんだ。パンツを、パンツを。
『どちらにしても茨の道だが、選択は覚悟だ。覚悟は、道を歩む力となる』
 なんで今更思い出すんだ。やめろ。そんな言葉を思い出すのは、お願いだからやめてくれよ。
 そんな優しい声を、思い出させないでくれよ。
『俺は、お前と、お前の選択を愛しているよ』
 父は、穏やかに笑っていた。
 群青色に染まった視界が、急に開けた。見えるのは、青い空。灰色のコンクリート。倒れる船行。自分の体中から流れる赤色。パンツを手に持ち、大口を開けてよだれを垂らしながら、涙を流す自分。
 いつも一緒に昼ご飯を食べる、クラスメイト。いつも笑顔で話してくれた、ヨガ部のみんな。厳しくも、優しい父母。次々と思い出す。僕の人生は、我慢の人生だった。でも、それでも、得るものがなかったわけではない。大切なものがなかったわけではない。
 今パンツを食えば、もう戻れないだろう。
 歯を食いしばり、立ち上がる。折れた右手が、抉れた左腕が、絶え間ない痛みに襲われる。溢れ出る衝動を抑えるには、ちょうどいい。
 パンツを食う道も、パンツを食わない道も、道は道だ。同じ、道。痛みなく歩めるはずもない。
 ならばせめて、胸を張って歩ける道を。
 パン崎は、両手でパンツを持ち、少し力を込めた。
 その瞬間、パンツはただの布に変わった。ダイヤモンドが、ただの炭に変わるように。
 泣いているのか、笑っているのか、興奮しているのか、消沈しているのか、もはやパン崎にすらわからなかった。
 そして、パン崎は意識を失った。その時立っていた場所は、奇しくも先ほど、激流とともにフェンスが流された、屋上の端。
 パン崎は、堕ちた。



5/7 12:31  <兵動 惣佳>
『ソーカちゃん! パンは新校舎の屋上に行ったヨ!』
 肌色の柱が購買部に向かって伸びた後、燕の案内で兵動惣佳は、新校舎に向かって走っていた。
『ソーカ、もう無理だろ。諦めようぜ』
 小次郎が、あきれた顔で惣佳に問う。
「だから……、違うの。無理とかじゃなくて、納得いくまで頑張りたいの!」
 ぜえぜえと息を切らしながら、それでも限界まで走る惣佳。それを、見る小次郎は、どことなく嬉しそうだ。
 新校舎玄関前校庭にたどり着くと、先生たちが集まり、まだまだ大量の黒焦げ生徒を保健室に運んでいる。
『ん? なんだこりゃ。雨は降ってないよな』
 校舎にほど近い場所には、大量の水で濡れた跡があった。小次郎が、濡れた地面にふんふんと鼻を近づけた。
「こ、これ、どうしたんだろう?」
『わからん。焼きそばパンの関係かも……!』
 燕が騒いだ。小次郎と惣佳は、同時に空を仰ぐ。
 人が、落ちて来た。
『ソーカ、避けろ!』
 小次郎が叫ぶ。だが、惣佳は考える前に動き出していた。人の落下地点。そこに、向かって、わき目も振らず。
 腕を広げてから、あ、これって受け止めたら私も潰れちゃうんじゃないかな、とやっと思い至った。しかし、もう遅い。覚悟を決めて、受け止めようとした、その時
『『『『ソーカちゃーん!!!』』』』
 森の動物たちが、猛スピードで駆けて来た! 羊が、アルパカが、リャマが、そして武蔵が! 腕を広げていた惣佳を押しのけ、
ボーン!
 空から降ってきた男は、そのふわふわ毛並隊に激突する。ふわふわの毛並は、落下の衝撃をほぼ100パーセント軽減し、落ちて来た男はやさしく地面にずり落ちた。
『ソーカちゃーん! 無茶しちゃだめだよー!』
 武蔵が泣きながら訴える。惣佳を一番に押しのけたのは、この忠犬だ。
「ありがとう、武蔵」
 と言って、惣佳は武蔵をなでる。それでもう武蔵はメロメロになっていた。
『バカソーカ! こいつ、まだ息があるぜ!』
 言うことを聞かなかったから当然だろうが、小次郎も怒っているようだ。
 惣佳は、地面に倒れている男に近寄り、しゃがみこんで観察すると、声にならない悲鳴を上げた。長身に、スキンヘッド。肌は透き通るように白い。だが、怪我の程度が尋常ではない。左腕が抉れて骨が見えているし、ぼろぼろの学生服の奥には、火傷まみれの体が見える。まだ出血も止まっていない。呼吸はしているようだが、このまま放置すれば死んでしまうかもしれない。
「た、大変! だ、誰か、保健室の先生を呼んでくださーい!」
 立ち上がり、男に背を向けて、周りにいる生徒に大声をかける。内気な自分では考えられない行為だが、今はそれどころではない。すぐに保健室に運んだほうがいいかとも思ったが、下手に動かした方が危険かもしれない。とにかく、先生を呼ぶのだ。
「花柄だ」
「えっ!?」
 突然背後からかけられた声に、振り向く惣佳。見ると、スキンヘッドの男性は目を開けていた。
「あ、気がついたんですね! よかった! 今、保健室の先生を呼んでいますから……ね……?」
 ここまで言い、男の台詞の意味に思い至った惣佳は、ほっぺをりんごのように真っ赤にし、慌ててスカートを押さえた。
「…み、見ました、か?」
 若干の怒りと大きな恥じらい。そんなことを言っている場合ではないとわかっていても、惣佳の中の乙女が、男の発言を無視できなかった。
「うん。見た。ふふ、ははは」
 息も絶え絶えのくせに、笑う男に惣佳は呆れる。こんな重症なのに、この余裕は何だろう。
「も、もう、やめてください! いいから安静に……」
「ごめんね。命の恩人に、失礼なこと言ったよ。お礼にこれをあげる」
 等と何気なく懐から出した物を、なんの期待もせずに見た惣佳は、パンツを見られたとき以上に仰天した。
男が差し出したのは、焼きそばパン。黄金に輝く焼きそばに、ふっくらとしたパン。パッケージは若干煤けているものの、「これがあの伝説の焼きそばパン!」と書いてある。
「こ、これ、これって…!」
「いいからいいから、もらっておくれ」
 男は、いたずらをした子どものように、力なく、それでも心の底から、笑った。
「僕、パンは苦手なんだ。ご飯派だから」


≪パン崎努 リタイア≫


≪伝説の焼きそばパン争奪戦勝者:兵動惣佳≫




※自キャラ敗北SS キャラクター名<パン崎努>