有坂秀世「入声韻尾消失の過程」

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 古代支那語の入聲韻尾p,t,kは、現代の閩(福州・厦門・汕頭・臺灣等)粤(廣州・客家等)系統の諸方言では未だ保存されてゐるが、山西諸方言・南京方言・揚州方言及び呉方言の大部分(常州・蘇州・上海・寧波等)では聲門閉鎖音に變化し、北京・開封・漢口・四川・長安等の諸方言では全く消失してゐる。かつて藝文誌上に發表された滿田新造博士の論文「中原音韻と南京音」に據ると、古代支那語の入聲韻尾p,t,kは、元・明頃の北京官話では、既に聲門閉鎖音に變化して居り、その後つひに全く消失するに至ったものであるといふ。(もつとも、滿田博士御自身は「聲門閉鎖音」といふ語を用ゐては居られないが、博士の「無尾入聲」と稱せられたものは、實際上聲門閉鎖音で終る形を指してゐること、疑無い。)これは、まことに穩當な見解であると思ふ。  然るに、唐朝後半期の吐蕃人がその文字を以て當時の西北支那音を寫した例に於ては、入聲韻尾は常にp,r(d),g相當の文字で表されてゐる。(舌内入聲の韻尾は、最も普通にはrを以て寫されてゐるが、稍古い資料にはdを以て寫された例も混じてゐる。)そこで、羅常培氏は、このb,r(d),gを以て、古代のp,t,kが次第に弱まつて消失して行かうとする過渡状態を示してゐるものと考へ、それから推して、現代諸方言の形への發達の經路を下のやうに考へた。まづ、上古音p,t,kは、廣州・客家・汕頭・厦門等の方言ではそのまま保存せられ、呉方言では聲門閉鎖音に變じてゐる。然るに、或方言では、中古に於てこのp,t,kがb,d,gに變じ、更にβ,ð(r),〓 と弱まり、つひには全く消失するに至った。官話や西北方言は即ち後者に屬するものである(「唐五代西北方音」68頁)と。この考に據ると、北京官話の如きは、未だかつて聲門閉鎖音の状態を經過したことが無いといふことになる。從つて、前の滿田博士のお説とは相容れないのである。  ところが、この羅氏説は、それ自身の中に矛盾を含んでゐる。何故なら、羅氏が西北方言の中に數へてゐる所の文水方言や興縣方言は、現今入聲の韻尾に聲門閉鎖音を持つてゐるからである。これらは、所謂西北方言といふものが系統上成立すると否とを問はず、兎に角官話とはごく近い關係を持つた方言である。のみならず、官話の中でさへも、南京官話は入聲の韻尾にやはり聲門閉鎖音を持つてゐる。これらの状態から考へて見ると、同じ系統に屡する北京官話の如きも、古くはやはり入聲韻尾には聲門閉鎖音を持ってゐたものであり、それが後世消失した結果今の形になつたものである、と考へる方が一層穩かなやうである。  然らば、唐代の吐蕃人によつてb,r(d),gと寫された形の正體はどんなものであつたか、といふと、それは、現代の閩・粤系統の方言に保存された入聲韻尾の發音を觀察することによつて、略想像し得る。私自身が觀察したのは、臺灣中部の人の發音であるが、福州や廣東などに於ける發音もこれと大差無いことは、Karlgren氏の記載から推して、大體想像される所である。ところで、入聲は短促だといふから、國語の促音のやうにパッと促るのかと思ってゐたら、大いに豫期に相違してゐた。例へば、kip(急)、kat(葛)、kɔk(各)に於て、p,t,kと中心母音との結合状態は、決してJespersen氏の所謂fester Anschlussではない。どちらかと言へば、loser Anschlussの方に近い。もつとも、loser Anschlussの場合には、息が一度弱まつて、然る後に再び強まるのであるが、臺灣の入聲の場合には、中心母音の終で息が一度弱まると、もはや再び張まること無く、弱まつたままでp,t,kの閉鎖が作られるのである。故に、韻尾p,t,kは殆ど聞えず、或は殆ど聲門閉鎖音かと聽き誤られる位である。p,t,kの閉鎖は、勿論ごく柔かに作られる。且、聲帶の振動は、p,t,kの閉鎖が作られて後に始めて止む°(Karlgren:Études sur la phonologie chinoise 262頁。)故に、聽覺的効果から言へば、kip,kat,kɔkよりは、寧ろkib ̥,kad ̥,kɔg ̥の方に近い。更に一層詳しく言ふならば、kibb ̥,kadd ̥,kɔgg ̥のやうに記すべきであらう。つまり、「短促」と言つても、國語の促音などのやうに「急に止る」のではない。寧ろ、「急に消える」といふ感じである。國語の促音の場合には、相當に強い息が、p,t,kの閉鎖によつてパッと阻止される。然るに、臺灣の入聲の場合には、「阻止される」といふ氣持は少しも無い。閉銷の作られるに先立ち、呼氣は既にごく微弱になつてゐるので、t,k相互の區別などは、餘程注意してゐないと聽きとれない位である。廣東方言ではこのt,kの代りに屡々聲門閉鎖音を用ゐる(Jones and Woo:Cantonese Phonetic Reader xi頁)といふことであるが、さもあらうと思はれる。臺灣の發音でも、聲門閉鎖に似て聞えるのは主にt,k殊にkの場合である。但し、臺灣に於てもt,kの代りに實際に聲門閉鎮音を用ゐる場合が有るのかどうか、その點は未だよく知らない。  呉方言の入聲韻尾については、趙元任氏は左のやうに言つてゐる。「入聲韻尾には、p,t,kの音は全く無い。入聲字を單読する場合には、嘉興の入聲長讀法と温州の入聲の全部を除く外、一般には喉部の關閉作用ʔを伴つてゐる。但し、入聲が下の字に連つて行く場合には、ʔを用ゐず、ただ一種の短音となる。例へば、『六』はloʔであるが、『六角』は、loʔkoʔでもなく、日本の促音の如きlokkoʔでもなく、lokoʔであり、第一字はただ少し短く發音しさへすれば入聲に讀んだこととなるのである。」(「現代呉語的研究」68頁よりの抄譯)。別稿「悉曇藏所傳の四聲について」(本書所收)の中に記した常州出身の人の發音も、これと大體は一致してゐる。但し、「一個」iekʔ「一百」iepɑʔ「阿到」ɑtɒoなどのやうに陰入聲がp,t,kへ連つて行く場合、そのp,t,kは屡々聲門の閉鎖を拌つて發音されるやうに感ぜられるのであるが、如何なものであらうか。併し、勿論、「客人」kɲiŋ「作興」tsɔɕiŋ「一道」iedɒɔなどのやうな場合には、聲門は決して閉鎖されない。又、一般に位置の如何を問はず、sentence-stressの弱い場合には、入聲音節はʔ無しに發音されることが多い。結局、談話の中では、入聲音節はʔ無しに發音されることの方が寧ろ多いわけである。  これらの状態から考へると、唐代の吐蕃人によつてb,d,gと冩されてゐる當時の北支那の入聲韻尾は、その實は寧ろ現代の毫灣音の形に近いものではなかつたらうか。この種の形から聲門閉鎖音に移行することは、極めて容易である。而して、その聲門閉鎖音が更に弱まり、つひに消失して、その結果全く入聲の特色を失ふに至ることは、これ亦極めて自然なことである。  吐蕃人がrと寫したのも、恐らく、前記のd ̥dのやうな形が更に弱まり、舌尖の接觸がごく柔かくなつた状態を表してゐるものではないかと思はれる。即ち、このrは、劉半農氏の言ふやうな摩擦性の音ではなくて、寧ろ、glideだけのsemi-rolled rではないかと想像される。勿論、これ亦「急に消える」といふ氣持でごく微弱に發音されたものに相違無い。さうして、これは結局、d ̥dからʔへ移つて行く中間状態を示してゐるものと考へられる。  なほ、朝鮮の漢字音では、舌内入聲の韻尾は、tではなくてlになつてゐる。思ふに、その支那に於ける原音は、やはり前節のrと類似の性質のものではなかつたらうか。(吐蕃人によつて寫されたのは、唐朝後半期の西北支那音であるが、近代の朝鮮漢字音の基礎となつたものは、別稿に證する通り、五代又は宋初頃の開封標準音である。)但し、古代の諺解類に用ゐられた漢字音記法の一種の流儀に於ては、舌内入聲の韻尾を表すには、r又はlを表す諺文ㄹの右に、必ず、影母の記號ㆆを添へてゐる。古代支那語に於ける影母の頭音は、Karlgren氏等に據れば、聲門閉鎖音であつたといふ。古代の諺文では入聲韻尾のㄹの右に附記されたㆆは、單に入聲短促の勢を表す意味であつたらうか。それとも、支那或は朝鮮にかつてrʔ、lʔの如き發音が實際存在したものであらうか。(ㄹの右にㆆを附記した例は、固有の朝鮮語の申にも見出される。前間恭作氏著「龍歌故語箋」16頁參照。)  さて、北京官話に於て、「北」pəkはpeiとなり、「百」pʌkはpaiとなり、「沒」muətはmeiとなつてゐる。この類を見ると、あたかも入聲韻尾のkやtが母音化してiになつたかの如く見えるけれども、實はさうでない。何故なら、支那語の入聲に於ては、中心母音からp,t,kへの移行は、英語のdip,hat,cockの場合などとは違って、比較的緩かであり、從つて、その間のglideが顯著になつて來るといふことは、有り得べきことなのである。朝鮮音の「百」păik、福州音の「百」paikなどを思ひ合すべきである。「百」は中原音韻ではpaiʔの形であつた。つまり、まづ中心母音とkとの間のglideが發展してi音となり、然る後にkがʔに變じ、その後つひに消失し去つたのである。この例では、中心母音とkとの間にi音が發逹してゐるけれども、中心母音の性質によつては、u音の發逹した場合もある。例へば「博」pɑkは福州音ではpaukになつてゐる。北支那に於ても、pɑkは恐らくまづ pɑukに變化し、これから中原音韻の形pɑuʔに移り、更にpoʔ,poと變化して、現代の北京官話の形が出來たのである。(中原音韻に於ては、肅豪韻の平聲陰の下に包・胞・苞を出して「巴毛切」とし、更に同じ韻の入聲作平聲の下に薄・箔・泊・博を出してやはり「巴毛切」としてゐる。然るに、現代の北京官話では、前者はpɑuの音であり、後者はboの音である。然らば、同じ「巴毛切」でも、包の類と薄の類との間には、何らか區別が存したものと考へなければならない。中原音韻の起例中に曰く、「入聲派入平上去三聲者、以廣其押韻爲作詞而設耳。然呼吸言語之間、還有入聲之別。」と。思ふに、當時入聲は實際上未だ存在したのであらう。即ち、包の類がpɑuであつたのに對し、薄の類はpɑuʔであつて、兩者の間には區別が存したものと考へられる。)  なほ、唐朝後半期の北支那に於ける入聲韻尾の状態を知るためには、かの吐蕃人の轉寫例と略時代を同じうする所の我が天台漢音がよい參考になる。硲慈弘氏編「天台宗聖典」中の「法華懺法」及び「例時作法」に就いて見ると、例へば、   十萬億佛―しうばんにくふ   無量照十方國―ぶりやうせうしはうくゑき   成佛以來・於今十劫―せいふいらい・よきむしつけう   一心敬禮本師釋迦牟尼佛―いしんけいれいほんしせきやぼぢふ   佛告文殊師利・若菩薩摩訶薩云々―ふつかうぶんしゆしり・じやくほさつばかさ云々   若一日・若二日―じやくいちじつ・じやくじくじつ   此日己過―しじつちくわ   汝勿謂此鳥・實是罪報所生―じよぼつちしてう・しつしさいほうそせい   極樂國土―きらつくゑきと   白衆等聽説―はきしうとうていせつ   赤色赤光・白色白光―せきせきせつくわう・はいせきはいくわう   白鵠―はいかう かやうなわけで、入聲韻尾は、フチツキクの明瞭な形で傳へられてゐるものも有るが、中には促音になつてゐるものもあり、又全く消失してゐる例も多い。十(しう・しつ・し)佛(ふつ・ふ)薩(さつ・さ)白(はき・はい)などが、いろいろな形で現れてゐることに注意せよ。入聲韻尾の微弱化の中で、或者は恐らく我が國で傳誦される間に起ったものであらう。例へば、入聲韻尾の消失は大低は句の内部でのみ起ることであるのに、舌内入聲の場合だけは、句の末尾でも盛に消失が起つてゐる。思ふに、舌内入聲の韻尾は、我が國に輸入されてから後も、abitaFut(阿彌陀佛)Fosat(菩薩)の如く-tを以て發音されてゐたため、他の入聲の韻尾-Fu,-ki,-ku(及び舌内入聲の一部-ti)の場合よりは、一層消失し易かつたものであらう。併し、微弱化の或部分は、支那原音に於て既に起つてゐたものに相違無い。當時、入聲韻尾の三内の別は勿論儼存したが、その響は餘程微弱なものであり、即ち、結局、大體に於てやはり現代の臺灣音に於ける状態に近いものではなかつたらうかと思はれる。  當時入聲韻尾の發音が微弱であつたことは、羅常培氏の引いてゐる吐蕃人の轉寫例の申に、「一」・i「蹕」pyi「亦」yi「釋」ciのやうな例の存することから見ても想像される所である。唐末宋初頃、入聲韻尾が次第に弱まつて行く傾向に在ったことは事實であらう。但し、然らば入聲韻尾はかつてはごく明瞭な、國語の促音のやうなp,t,kであつたか、といふと、それは未だよく分らない。或は、最初から臺灣音の形と大差無い位の微弱な音であつたかも知れない。  因みに、朝鮮語のchip(家)kot(處)mok(頸)などのp,t,kも、やはりbb,dd,ggのやうな柔かい音であるが、臺灣音の入聲韻尾程に微弱ではない。但し、私の聽いたのは、大邱出身の人の發音である。
 古代支那語の入聲韻尾p,t,kは、現代の閩(福州・厦門・汕頭・臺灣等)粤(廣州・客家等)系統の諸方言では未だ保存されてゐるが、山西諸方言・南京方言・揚州方言及び呉方言の大部分(常州・蘇州・上海・寧波等)では聲門閉鎖音に變化し、北京・開封・漢口・四川・長安等の諸方言では全く消失してゐる。かつて藝文誌上に發表された滿田新造博士の論文「中原音韻と南京音」に據ると、古代支那語の入聲韻尾p,t,kは、元・明頃の北京官話では、既に聲門閉鎖音に變化して居り、その後つひに全く消失するに至ったものであるといふ。(もつとも、滿田博士御自身は「聲門閉鎖音」といふ語を用ゐては居られないが、博士の「無尾入聲」と稱せられたものは、實際上聲門閉鎖音で終る形を指してゐること、疑無い。)これは、まことに穩當な見解であると思ふ。  然るに、唐朝後半期の吐蕃人がその文字を以て當時の西北支那音を寫した例に於ては、入聲韻尾は常にp,r(d),g相當の文字で表されてゐる。(舌内入聲の韻尾は、最も普通にはrを以て寫されてゐるが、稍古い資料にはdを以て寫された例も混じてゐる。)そこで、羅常培氏は、このb,r(d),gを以て、古代のp,t,kが次第に弱まつて消失して行かうとする過渡状態を示してゐるものと考へ、それから推して、現代諸方言の形への發達の經路を下のやうに考へた。まづ、上古音p,t,kは、廣州・客家・汕頭・厦門等の方言ではそのまま保存せられ、呉方言では聲門閉鎖音に變じてゐる。然るに、或方言では、中古に於てこのp,t,kがb,d,gに變じ、更にβ,ð(r),〓 と弱まり、つひには全く消失するに至った。官話や西北方言は即ち後者に屬するものである(「唐五代西北方音」68頁)と。この考に據ると、北京官話の如きは、未だかつて聲門閉鎖音の状態を經過したことが無いといふことになる。從つて、前の滿田博士のお説とは相容れないのである。  ところが、この羅氏説は、それ自身の中に矛盾を含んでゐる。何故なら、羅氏が西北方言の中に數へてゐる所の文水方言や興縣方言は、現今入聲の韻尾に聲門閉鎖音を持つてゐるからである。これらは、所謂西北方言といふものが系統上成立すると否とを問はず、兎に角官話とはごく近い關係を持つた方言である。のみならず、官話の中でさへも、南京官話は入聲の韻尾にやはり聲門閉鎖音を持つてゐる。これらの状態から考へて見ると、同じ系統に屡する北京官話の如きも、古くはやはり入聲韻尾には聲門閉鎖音を持ってゐたものであり、それが後世消失した結果今の形になつたものである、と考へる方が一層穩かなやうである。  然らば、唐代の吐蕃人によつてb,r(d),gと寫された形の正體はどんなものであつたか、といふと、それは、現代の閩・粤系統の方言に保存された入聲韻尾の發音を觀察することによつて、略想像し得る。私自身が觀察したのは、臺灣中部の人の發音であるが、福州や廣東などに於ける發音もこれと大差無いことは、Karlgren氏の記載から推して、大體想像される所である。ところで、入聲は短促だといふから、國語の促音のやうにパッと促るのかと思ってゐたら、大いに豫期に相違してゐた。例へば、kip(急)、kat(葛)、kɔk(各)に於て、p,t,kと中心母音との結合状態は、決してJespersen氏の所謂fester Anschlussではない。どちらかと言へば、loser Anschlussの方に近い。もつとも、loser Anschlussの場合には、息が一度弱まつて、然る後に再び強まるのであるが、臺灣の入聲の場合には、中心母音の終で息が一度弱まると、もはや再び張まること無く、弱まつたままでp,t,kの閉鎖が作られるのである。故に、韻尾p,t,kは殆ど聞えず、或は殆ど聲門閉鎖音かと聽き誤られる位である。p,t,kの閉鎖は、勿論ごく柔かに作られる。且、聲帶の振動は、p,t,kの閉鎖が作られて後に始めて止む°(Karlgren:Études sur la phonologie chinoise 262頁。)故に、聽覺的効果から言へば、kip,kat,kɔkよりは、寧ろkib ̥,kad ̥,kɔg ̥の方に近い。更に一層詳しく言ふならば、kibb ̥,kadd ̥,kɔgg ̥のやうに記すべきであらう。つまり、「短促」と言つても、國語の促音などのやうに「急に止る」のではない。寧ろ、「急に消える」といふ感じである。國語の促音の場合には、相當に強い息が、p,t,kの閉鎖によつてパッと阻止される。然るに、臺灣の入聲の場合には、「阻止される」といふ氣持は少しも無い。閉銷の作られるに先立ち、呼氣は既にごく微弱になつてゐるので、t,k相互の區別などは、餘程注意してゐないと聽きとれない位である。廣東方言ではこのt,kの代りに屡々聲門閉鎖音を用ゐる(Jones and Woo:Cantonese Phonetic Reader xi頁)といふことであるが、さもあらうと思はれる。臺灣の發音でも、聲門閉鎖に似て聞えるのは主にt,k殊にkの場合である。但し、臺灣に於てもt,kの代りに實際に聲門閉鎮音を用ゐる場合が有るのかどうか、その點は未だよく知らない。  呉方言の入聲韻尾については、趙元任氏は左のやうに言つてゐる。「入聲韻尾には、p,t,kの音は全く無い。入聲字を單読する場合には、嘉興の入聲長讀法と温州の入聲の全部を除く外、一般には喉部の關閉作用ʔを伴つてゐる。但し、入聲が下の字に連つて行く場合には、ʔを用ゐず、ただ一種の短音となる。例へば、『六』はloʔであるが、『六角』は、loʔkoʔでもなく、日本の促音の如きlokkoʔでもなく、lokoʔであり、第一字はただ少し短く發音しさへすれば入聲に讀んだこととなるのである。」(「現代呉語的研究」68頁よりの抄譯)。別稿「悉曇藏所傳の四聲について」(本書所收)の中に記した常州出身の人の發音も、これと大體は一致してゐる。但し、「一個」iekʔ「一百」iepɑʔ「阿到」ɑtɒoなどのやうに陰入聲がp,t,kへ連つて行く場合、そのp,t,kは屡々聲門の閉鎖を拌つて發音されるやうに感ぜられるのであるが、如何なものであらうか。併し、勿論、「客人」kɲiŋ「作興」tsɔɕiŋ「一道」iedɒɔなどのやうな場合には、聲門は決して閉鎖されない。又、一般に位置の如何を問はず、sentence-stressの弱い場合には、入聲音節はʔ無しに發音されることが多い。結局、談話の中では、入聲音節はʔ無しに發音されることの方が寧ろ多いわけである。  これらの状態から考へると、唐代の吐蕃人によつてb,d,gと冩されてゐる當時の北支那の入聲韻尾は、その實は寧ろ現代の毫灣音の形に近いものではなかつたらうか。この種の形から聲門閉鎖音に移行することは、極めて容易である。而して、その聲門閉鎖音が更に弱まり、つひに消失して、その結果全く入聲の特色を失ふに至ることは、これ亦極めて自然なことである。  吐蕃人がrと寫したのも、恐らく、前記のd ̥dのやうな形が更に弱まり、舌尖の接觸がごく柔かくなつた状態を表してゐるものではないかと思はれる。即ち、このrは、劉半農氏の言ふやうな摩擦性の音ではなくて、寧ろ、glideだけのsemi-rolled rではないかと想像される。勿論、これ亦「急に消える」といふ氣持でごく微弱に發音されたものに相違無い。さうして、これは結局、d ̥dからʔへ移つて行く中間状態を示してゐるものと考へられる。  なほ、朝鮮の漢字音では、舌内入聲の韻尾は、tではなくてlになつてゐる。思ふに、その支那に於ける原音は、やはり前節のrと類似の性質のものではなかつたらうか。(吐蕃人によつて寫されたのは、唐朝後半期の西北支那音であるが、近代の朝鮮漢字音の基礎となつたものは、別稿に證する通り、五代又は宋初頃の開封標準音である。)但し、古代の諺解類に用ゐられた漢字音記法の一種の流儀に於ては、舌内入聲の韻尾を表すには、r又はlを表す諺文ㄹの右に、必ず、影母の記號ㆆを添へてゐる。古代支那語に於ける影母の頭音は、Karlgren氏等に據れば、聲門閉鎖音であつたといふ。古代の諺文では入聲韻尾のㄹの右に附記されたㆆは、單に入聲短促の勢を表す意味であつたらうか。それとも、支那或は朝鮮にかつてrʔ、lʔの如き發音が實際存在したものであらうか。(ㄹの右にㆆを附記した例は、固有の朝鮮語の申にも見出される。前間恭作氏著「龍歌故語箋」16頁參照。)  さて、北京官話に於て、「北」pəkはpeiとなり、「百」pʌkはpaiとなり、「沒」muətはmeiとなつてゐる。この類を見ると、あたかも入聲韻尾のkやtが母音化してiになつたかの如く見えるけれども、實はさうでない。何故なら、支那語の入聲に於ては、中心母音からp,t,kへの移行は、英語のdip,hat,cockの場合などとは違って、比較的緩かであり、從つて、その間のglideが顯著になつて來るといふことは、有り得べきことなのである。朝鮮音の「百」păik、福州音の「百」paikなどを思ひ合すべきである。「百」は中原音韻ではpaiʔの形であつた。つまり、まづ中心母音とkとの間のglideが發展してi音となり、然る後にkがʔに變じ、その後つひに消失し去つたのである。この例では、中心母音とkとの間にi音が發逹してゐるけれども、中心母音の性質によつては、u音の發逹した場合もある。例へば「博」pɑkは福州音ではpaukになつてゐる。北支那に於ても、pɑkは恐らくまづ pɑukに變化し、これから中原音韻の形pɑuʔに移り、更にpoʔ,poと變化して、現代の北京官話の形が出來たのである。(中原音韻に於ては、肅豪韻の平聲陰の下に包・胞・苞を出して「巴毛切」とし、更に同じ韻の入聲作平聲の下に薄・箔・泊・博を出してやはり「巴毛切」としてゐる。然るに、現代の北京官話では、前者はpɑuの音であり、後者はboの音である。然らば、同じ「巴毛切」でも、包の類と薄の類との間には、何らか區別が存したものと考へなければならない。中原音韻の起例中に曰く、「入聲派入平上去三聲者、以廣其押韻爲作詞而設耳。然呼吸言語之間、還有入聲之別。」と。思ふに、當時入聲は實際上未だ存在したのであらう。即ち、包の類がpɑuであつたのに對し、薄の類はpɑuʔであつて、兩者の間には區別が存したものと考へられる。)  なほ、唐朝後半期の北支那に於ける入聲韻尾の状態を知るためには、かの吐蕃人の轉寫例と略時代を同じうする所の我が天台漢音がよい參考になる。硲慈弘氏編「天台宗聖典」中の「法華懺法」及び「例時作法」に就いて見ると、例へば、   十萬億佛―しうばんにくふ   無量照十方國―ぶりやうせうしはうくゑき   成佛以來・於今十劫―せいふいらい・よきむしつけう   一心敬禮本師釋迦牟尼佛―いしんけいれいほんしせきやぼぢふ   佛告文殊師利・若菩薩摩訶薩云々―ふつかうぶんしゆしり・じやくほさつばかさ云々   若一日・若二日―じやくいちじつ・じやくじくじつ   此日己過―しじつちくわ   汝勿謂此鳥・實是罪報所生―じよぼつちしてう・しつしさいほうそせい   極樂國土―きらつくゑきと   白衆等聽説―はきしうとうていせつ   赤色赤光・白色白光―せきせきせつくわう・はいせきはいくわう   白鵠―はいかう かやうなわけで、入聲韻尾は、フチツキクの明瞭な形で傳へられてゐるものも有るが、中には促音になつてゐるものもあり、又全く消失してゐる例も多い。十(しう・しつ・し)佛(ふつ・ふ)薩(さつ・さ)白(はき・はい)などが、いろいろな形で現れてゐることに注意せよ。入聲韻尾の微弱化の中で、或者は恐らく我が國で傳誦される間に起ったものであらう。例へば、入聲韻尾の消失は大低は句の内部でのみ起ることであるのに、舌内入聲の場合だけは、句の末尾でも盛に消失が起つてゐる。思ふに、舌内入聲の韻尾は、我が國に輸入されてから後も、abitaFut(阿彌陀佛)Fosat(菩薩)の如く-tを以て發音されてゐたため、他の入聲の韻尾-Fu,-ki,-ku(及び舌内入聲の一部-ti)の場合よりは、一層消失し易かつたものであらう。併し、微弱化の或部分は、支那原音に於て既に起つてゐたものに相違無い。當時、入聲韻尾の三内の別は勿論儼存したが、その響は餘程微弱なものであり、即ち、結局、大體に於てやはり現代の臺灣音に於ける状態に近いものではなかつたらうかと思はれる。  當時入聲韻尾の發音が微弱であつたことは、羅常培氏の引いてゐる吐蕃人の轉寫例の申に、「一」・i「蹕」pyi「亦」yi「釋」çiのやうな例の存することから見ても想像される所である。唐末宋初頃、入聲韻尾が次第に弱まつて行く傾向に在ったことは事實であらう。但し、然らば入聲韻尾はかつてはごく明瞭な、國語の促音のやうなp,t,kであつたか、といふと、それは未だよく分らない。或は、最初から臺灣音の形と大差無い位の微弱な音であつたかも知れない。  因みに、朝鮮語のchip(家)kot(處)mok(頸)などのp,t,kも、やはりbb ̥,dd ̥,gg ̥のやうな柔かい音であるが、臺灣音の入聲韻尾程に微弱ではない。但し、私の聽いたのは、大邱出身の人の發音である。

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