【ユキ 揺杏】
「知ってる? 一年の真屋ってヤツ、カラダ売ってるって話」
「え、ウソ」
「いやホント。先輩がその手のサイトで見たらしいんだけど――」
特に深いことは考えず、ただ知ったことを垂れ流す二人。
話の中心人物となっている『真屋』という少女についても、彼らは知らない。
ただ、何となく知ったことでその場が盛り上がれば、それでいいのだ。
「……おい、お前ら」
◆
「いてて……」
「もう、バカなことして。取っ組み合いの大げんかだなんて、真っ青になっちゃいましたよ」
絆創膏の貼られた頬を摩る京太郎を、由暉子は頬を膨らませながらも心配そうに見詰める。
京太郎の頬に貼られている絆創膏も、知らせを聞いて真っ先に駆け付けた由暉子によるものである。
「だってよ。アイツらユキのこと――」
「どうでもいいんです。そんなことは」
由暉子が京太郎の手を握り、上目遣いで怪我の残る痛ましい顔を見詰める。
細くひんやりとした由暉子の指先と、少しゴツゴツした京太郎の指先が絡み合う。
「誰が何て言ったって。京太郎くんが私の隣にいてくれたら、それで……」
「ユキ……」
夕日の沈む帰り道。
大きな影が、小さな影に目線を合わせるように屈んで。
そっと、二つの影が、重なった。
「お熱いねぇ」
「先輩」
京太郎と別れた由暉子に声をかけたは、有珠山高校2年の岩館揺杏。
先程までの一部始終を見ていたのだろう、ニヤニヤと意地悪い笑みを浮かべている。
「大変だったんだってね、京太郎も」
「ええ……ありがとうございます、先輩」
「……ん?」
「先輩のお陰で、より愛されてるって。実感できましたから」
二人の間の空気が、ほんの一瞬だけ凍り付く。
由暉子も揺杏も表情が消える。
「……ま、よくわかんないけどさ。上手くいったなら良かったんじゃない?」
沈黙を破ったのは、揺杏からだった。
怪訝な表情で頭をかいている。
「ええ。ですから、心配ご無用ですよ? 先輩は、何もしなくてもいいですから」
対して由暉子は小首を傾げながら、満面の笑みで答える。
可愛いらしい童顔にその仕草は良く似合っており、健全な男子高校生なら直ぐに骨抜きにされてしまうだろう。
「……ハ。そうやって誘惑したんだ、京太郎のことも」
「京太郎くんも好きですから、こういうの。仕方ないですね」
「……ビッチ」
「何もないよりは。ずっと良いですよね」
七夕の夕方が、曇り空に覆われていく。
ポツリと、小さな雫が、二人の頬に当たった。
【成香】
「見てて、くれますか……?」
――何を、と問いかける前に。
成香はそっと、自分の手の平にカッターナイフを走らせた。
血が滲み、白い手首を伝う。
「っ!」
相当な痛みがあるのだろう。涙目になり、震えている。
だというのに、成香の手は止まることなく、カッターナイフを更に深く手の平に食い込ませる。
赤い雫が、ポタポタと廊下に垂れる。
「す、すてき……です!」
痛みに声を震わせながら、視界を涙で滲ませながら。
成香は京太郎の手を取って、心から微笑んだ。
「こうすれば……京太郎くんが……見てくれるって……!」
「お洒落しても、お料理を頑張っても駄目だったけど……」
「は、初めて……上手くいきました……!」
想い人の温かさを直ぐ側で感じる。
誰よりも何よりも、自分のことを見てくれている。
この瞬間、成香は世界で一番、幸せだった。
【爽】
舌を入れて、キスされている。
突然のことにフリーズした京太郎が状況に気付いたのは、顔を離した爽との間に透明な橋がかかってからだった。
ペロリと舌で唇を拭う爽を前に、京太郎は間抜けに空いた口が塞がらない。
「……先輩、どういうつもりですか?」
代わりに、静かな怒りを含ませる声で由暉子が爽に問い掛ける。
京太郎の彼女である由暉子には、例え冗談でも目の前で行われた行為を見逃すことはできなかった。
「んー。どうっていうか、ちょっと京太郎を寝取ろうと思って」
「……はぁ?」
「その様子だとヤッてないんでしょ? まだ」
「だから、私が先に。ちょっと既成事実作っちゃおうかなって」
口調こそ軽いものだが、決して冗談ではない。
彼女と似たような目をした女を、由暉子は他に、3人ほど知っている。
「……なるほど」
つまり、この女も――
「許しません、絶対に」
「いいよ、別に」
――敵、だ。
【なるか】
――運命の出会い、なんて信じてなかったけれど。
「大丈夫ですか?」
あれは、私にとって、とても大事な出会いでした。
目を閉じれば、浮かぶ顔。
「成香ー?」
暖かくて、私の手よりも、大きな手。
「おーい、成香ー?」
何故、でしょう。
あの日から、あの子のことが――
「成香ってば!」
「ひゃいっ!?」
――突然の揺杏ちゃんの大きな声と、肩を揺らす腕に。
私の瞼の裏にいた彼は、まるで煙のように消えてしまいました。
「な、何……?」
「次、成香の番だってば」
「あっ……」
目の前にあるのは彼の顔じゃなくて、机の上に、山のように積まれた捨て札の束。
いつもの見慣れた光景。麻雀部とは名ばかりの、卓上ゲームで遊ぶ部活。
物思いに耽っていたせいか、私の手番だということに、すっかり気が付かなかったみたい。
「……大丈夫? 顔、赤いけど」
「う、うん。大丈夫、だから……ごめんなさい、パスで」
「ほーん……あ、8切でー」
……ここのところ、こんなことばかり。
ここに、この学校に、彼がいるわけないってわかっているのに――どうしても、私の目は、彼の姿を探してしまうのでした。
……どうしても、ゲームに集中できなくて。
私が連続で最下位になり続けて、挽回できないままに、ついに下校時刻になってしまった頃に。
「最近の成香、ちょっとおかしくない?」
「え?」
「うーん、確かに。さっきも何だか上の空?って感じだったしなー」
揺杏ちゃんと爽ちゃんが、そんなことを言ってきたのです。
「あ、もしかして~?」
揺杏ちゃんの、ニヤニヤと意地悪な笑顔。
わかっています、こういう時には、大体――
「ズバ」
「あ、男とか?」
――揺杏ちゃんが指を勢い良く突き付けて、格好良く決めようとした瞬間に、空気を読まない爽さんが割り込んでくる。
決めようとしても今一決めきれない、それが揺杏ちゃんだから。
「……男って……なるか?」
……目をまん丸にして、信じられないと私の顔を見詰めてくるチカちゃん。
恥ずかしくってその顔を直視できない私は、顔を真っ赤にして俯くしかありません。
「あ、マジなのかー」
「……まぁ、あれだけアンニュイなオーラ出してたらねぇ。なんつーか、見るからに恋する乙女、みたいな」
……やっぱり、みんなにはお見通しみたいです。
私でも、よくわからなかった自分の心。
でもやっぱり、この気持ちは、きっと。
「おー、赤飯炊く?」
「……でも、心配だわ」
「そうだなぁ。成香ってダメ男に引っかかりそうな――」
「あの人ことを、悪く言わないで!!」
……自分でもビックリするぐらい、大きな声。
みんながみんな、同じように、ポカンと口を開けて驚く顔。
「あ……ご、ごめんなさい……」
「い、いや……うん、こっちこそ、ゴメン」
気まずい空気。
誰が何を言えば良いのかわからない、そんな雰囲気の中で、爽さんが真っ先に口を開く。
「……でさ、その成香がゾッコンな男子ってのは、誰なんよ?」
「それは――」
少しでも、この空気を払拭したい。
そんなことを考えてたからでしょうか、普通なら躊躇って口に出せないことを、私は――
「……あれ?」
「……なるか?」
――そういえば、私は。
「……もしかして、名前、知らない?」
――私は、一番大事なことを、知らなかったのです。
「ダメだコリャ」
ヤレヤレだと、爽さんの肩をすくめるポーズ。
それは多分、みんなの心の中を代弁していました。
雨の日に、足を滑らせてしまったこと。
転びそうになって目を閉じた瞬間に、その男の子に抱き留められたこと。
風で傘を飛ばされてしまった私に自分の傘を渡して、その子は走り去って行ったこと。
「ふーむ……」
ポツリポツリと、あの日のことを思い出して話す私。
どうしても彼の顔がチラついて、しどろもどろになってしまう私の話を、みんなは一生懸命に聞いてくれました。
「なるほどなぁ」
「何か、感慨深いなぁ」
「……その男の子について、何か手がかりはないの? 見た目とか」
「えっと、背が高くて――」
「あー……多分その男子見たことあるわ」
身長が180cmくらい。髪の毛が金髪。出会った場所。
これぐらいしかわかることがなかったのに、揺杏ちゃんは思い当たることがあるみたいで。
「ほら、いつも買い出しで通る中学の前。あそこで掃除当番っぽいことやってるの見た」
「ふむふむ……」
「じゃあ、早速……!」
「待った待った」
いきり立つ私を制止する手のひらは、爽さんのもの。
「もしかしたら人違いかもしれないし」
「でも、行ってみないと」
「んー……成香、その男子を前にして、ちゃんと話せる?」
「えっ……」
……爽さんの言葉は、確かで。
こうして頭に思い浮かべるだけで胸がフワフワするのに。
本人を前にして、お話しなんて――とても、出来るわけがありません。
「第一次本内成香大作戦――開始!!」
第二次はあるのか、だとか聞いても基本的にノリで動いている爽さんに答えられるわけないです。
そのことがわかっているから、ちかちゃんも呆れ顔をしながらもツッコミを入れることはありませんでした。
「よ、よろしくです……!!」
それに、私も。
変わりたい、この気持ちを伝えることが出来なくても、せめてお礼だけは。
そう思ったので、爽さんの提案は、とてもありがたかったのです。
「ねーねー、ちょっと聞きたいんだけどさー」
「こんな子を探してるんだけど……」
揺杏ちゃんが彼を見たっていう中学の近くでの聞き込み活動。
「……わかった、ありがとね」
――須賀、京太郎。
私の胸の中から離れない名前。
「……でさ、もう一ついいかな?」
京太郎くんの好みのタイプや、服。
知らない相手から、そんなことまで聞き出せるのは、私にはとても出来そうにありません。
「ふーむ……成香には、ちょっと厳しいかー……?」
「あぅ……」
そして、判明していく彼の好み。
――確かに、私の貧相な体型では、彼の好みからは外れているかもしれません。
……だけど、諦めちゃダメ。
例え今は好みから外れていても、彼の好みに近付けることはできます。
「成香が燃えてる……!」
「こんなの、初めて見た……」
頑張って、ファッションのお勉強を。
頑張って、バストアップのお勉強を。
先輩たちに協力してもらって、自信の持てる自分になること。
それだけを目標に私は頑張って――
「いってきます!」
――ついに、「その日」がやってきたのです。
――その日は、曇り空でした。
まるで緊張する私の内面を映し出したような空模様。
……だったら私が、この空を晴らして見せる。
そんな、本当に。本当に、柄にもないことを、私は胸に抱きました。
「……うん」
それはきっと、自分を奮い立たせるため。
震える足を押さえて、ゆっくりと、一歩ずつ、私は中学の校門へと向かいました。
ちかちゃんたちの調査で、この日の、この時間に彼が下校することはわかっています。
後は、私が――
「ユキ……俺と……俺と、付き合ってほしい」
金髪の彼――京太郎くんの正面に立つ女の子。
ユキ、と呼ばれたその子は、とても胸が大きくて。
眼鏡の下は、私よりも、可愛らしい顔立ちをしていました。
「――」
そのユキと呼ばれた子が、京太郎くんの告白にどう答えたのかは、聞き取れませんでした。
ただ。
その、赤くはにかんだ顔は、鏡で見る私のそれに、よく似ていて。
……気が付いたら、私は、見覚えのない道を、ただ独りで歩いていました。
彼に返す筈だった傘も、いつの間にかに失くなっています。
天気は、バケツをひっくり返したかのような雨模様。
「……」
当然、傘もなく、合羽も着ていない私の全身はずぶ濡れ。
命の恵みを与えてくれて、嫌なことを洗い流してくれる筈の雨は、ただ私の体を冷たく打つだけでした。
「……どうして?」
口から漏れた言葉。
どうして、あの日に私を助けてくれたの?
どうして、京太郎くんを好きになってしまったの?
どうして、あなたが――
「……違う」
ユキちゃんが、悪くないのはわかっています。
きっとあの子は、私よりも京太郎くんのことを、知っていて。
私よりもずっと先に、京太郎くんに出会っていたのでしょう。
私よりも胸が大きくて、私よりも可愛らしいあの子は、私よりも京太郎くんに相応しい。
そう、わかっている筈なのに。
「ユキちゃん」
あなたが。
あなたさえ――
……雨に打たれて、化粧が剥がれていくように。
私の心の中からは、あの子への悪い気持ちが、とめどなく溢れてきました。
「……あ」
だから、でしょうか。
私は前から走ってくるトラックに気が付かず、思いっきり水溜りの泥水をかけられてしまいました。
そして、足元の小さな出っ張りにも気が付かず。
「ぁ……」
私は、思いっきり前のめりになって、転んでしまいました。
頑張って勉強したお化粧は、雨水に剥がされて。
みんなに見繕って貰った綺麗で可愛い服も、泥水で台無しに。
「……そっか」
きっとこれは、罰なのだと。
誰よりも自分が悪いのに、あの子への気持ちを止められない私には、泥の化粧が相応しいと。
私には、そう理解できました。
「……」
目の前の水溜りは、たくさんの大きな雨粒に打たれて、ぐしゃぐしゃです。
目を閉じると、雨粒が色んなところを叩く音が、耳を埋め尽くしました。
寒い。冷たい。
けれども、彼は、あの時のように抱きしめてはくれません。
だって彼の胸の中は、あの子のものだから。
「……ねむい、なぁ」
このまま、泥のように、雨水に流されて。
水溜りの中に、とけることができたのなら。
私の心の中は、きっと、そんな想いで満たされているのでしょう。
――けれど、きっと。
「大丈夫ですか!?」
運命の出会いっていうのは、きっと、こういうことを言うのだと。
「え……」
何よりも暖かくて、素敵な気持ち。
私のまぼろしでないのなら、この声を、私が間違えるわけがありません。
「すぐ、人を呼びますから!!」
あんなにも、夢見た彼が。
幾度となく、瞼の裏側に描いた顔が。
私のことを、見詰めていました。
よく見ると、少し遠くから、ユキちゃんがこっちへ走ってきています。
一緒に歩いて帰っている途中、だったのでしょうか。
「すいません、少し我慢していて下さい……!」
転んだ時に切ってしまったのか。
私の膝からは、赤い血が流れていました。
けれど、傷の痛みよりも、体の冷たさよりも。
「あ……ぁ」
――ずっとずっと。
誰よりも、何よりも。
私だけを、見てくれる。
たった一つだけ、ユキちゃんに勝てるところを見つけられた私の心の中には。
ただ一つの、小さな喜びが、芽吹いていました。
――その時、不思議なことに。
痛いほどに私の体を叩いていた雨が、確かに止んだのです。
「あ、ああ……!」
風で流されたのか、雲と雲の間に出来た隙間。
雨空に閉ざされていた太陽の光が、私たちを、優しく包みました。
「これは……」
京太郎くんが見上げた空。
雲の間から差す陽の光。
それは、私たちだけを照らす舞台照明のようであり。
私たちを祝福する光のようであり。
「そっか……そう、なんですね」
――歪な、傷痕のようでもありました。
【聖痕】
【ユキたんいぇい】
温かく、とても素敵な気持ち。
「ま、待ってください……!」
気がついたら、私は走り去っていこうとする彼の腕を、夢中で掴んでいました。
そうしなきゃいけないような、ここで置いてかれちゃダメだって――何かに、突き動かされるような。
もしかしたら、コレを――天啓と、呼ぶのかもしれません。
「何ニヤニヤしてるんですか? 気持ち悪いですよ」
相変わらず容赦のない突っ込みに、京太郎は苦笑しつつ携帯を畳んだ。
声の方向に振り向けば、山のようなプリントの束を抱えた小柄な少女。
「手伝うよ。大変だろ?」
「……ありがとう、ございます」
頼まれごとを嫌な顔一つせずにホイホイと受け入れるものだから、気が付いた時にはその小さな体には収まりきらない量の仕事を抱えている。
それがこの、真屋由暉子という少女だ。
初めは親切心半分、あわよくば可愛い女の子とお近付きになりたい下心が半分で声をかけたのだが。
「ほい。いつものゴミ捨て場だよな?」
「はい。よろしくです」
今ではすっかり、目が離せなくなってしまった。
何だかんだ言って世話焼きな京太郎には、少し危なっかしいところのある由暉子は放っておけなかったのである。
野暮ったい大きな眼鏡と長目の前髪が与える印象に加え、彼女自身あまり不満を言わない性格なので勘違いされがちだが、由暉子は言いたいことは遠慮しないタイプだ。
更にややこしいことは、キツイ発言をすることがあっても、別にその相手を嫌っているわけではない、ということである。
由暉子とそこそこに付き合いの長い京太郎には十分にそのことが理解できているために、先程の発言程度では一喜一憂することはない。
「……そういえば」
「ん?」
「さっきのアレ、何だったんですか?」
そして、さっきのアレとは聞くまでもなく、ニヤニヤしながら携帯の画面を見ていたことだろう。
「まぁ、ちょっとな」
「……ちょっと……ってなんですか」
じっと、眼鏡の奥の大きな瞳が見詰めてくる。
心なしか、いつもよりお互いの距離が近い。肩と肩が触れ合いそうだ。
いつのも彼女なら大して気にすることはないのだが、今日はやけに踏み入ってくる。
「ちょっと前の雨の日あっただろ? そこでさ――」
それに少し引っかかりながらも、京太郎は先日あった出来事を話し始めた。
目の前で転びそうになっていた有珠山高校の女子生徒を反射的に抱きとめてしまったこと。
タイミング悪く吹いた強い風に、彼女の傘が吹き飛ばされてしまったこと。
見詰めあって、つい気恥ずかしくなって、走り去ろうとしたら引き留められたこと。
そして――
「……その人と。相合傘をして帰ったわけですか。須賀くんは」
「うん。お礼させて下さいってことで、メルアド交換までしちゃったよ」
「……」
「……ユキ?」
急に押し黙ってしまった由暉子を怪訝に思うも、彼女の返事はない。
やれやれだと、京太郎は胸の中で溜息を吐き――
「……あ」
――そういえば俺、ユキのメルアド知らねえや。
ふと、そんなことを思いついた。
「……」
とは言え、黙りを決め込む今の由暉子にメルアドを聞いても教えてくれるだろうか。
変なところで頑固なのだ、この真屋由暉子という少女は。
「……あ、アレ。あの人だ」
「え?」
何気なく視線を泳がせた先。
校門の前でジャンケンをしている有珠山高校の女子生徒たち。
「あの、ちょっと前髪が長い人。あれが今の話の、本内さん」
「えっと――」
と、タイミングの悪いことに。
由暉子が振り向いた瞬間、前方不注意になってしまったせいで足元の小石に気が付かず。
「あっ!」
「大丈夫か!?」
プリントの束を撒き散らしながら、盛大にすっ転んでしまった。
前のめりに両腕を伸ばして倒れる姿は見ていて気持ちの良くなるくらいの転びっぷりで。
倒れた瞬間の、彼女の豊満な部分が広がる瞬間はまさにおもちのようで眼福――ではなく。
「眼鏡は、無事でした」
「怪我は?」
「多分大丈夫かと」
下らない方向にそれかけた思考を首に振って戻し、プリントの束を脇に置いて屈む。
転んだせいで制服は汚れてしまっているが、見たところ由暉子の身体に目立つ傷はないようだった。
「ほら」
「……」
差し伸べた手を、じっと見つめて。
「……由暉子?」
「……ありがとうございます」
逡巡するように何度か瞬きしてから、由暉子は京太郎の手を取った。
繋いだ手を引っ張って由暉子を立たせる。見た目以上に彼女の体は軽く、そして柔らかかった。
美容やファッションにはあまり興味が無い由暉子だが、繋いだ指は白く細く、なめらかで、綺麗だと京太郎は思った。
「……もう大丈夫です」
「あ、あぁ」
つい見惚れてしまったが、いつまでもそうしているわけにはいかない。
名残惜しく思いながらも、京太郎は由暉子の手を離す。
「はやく、プリントを――」
「はい、どうぞ」
風で散らばる前に、速くプリントを回収しないと。
そう考えた由暉子に白い紙の束を差し出す腕は、京太郎のものではなく――
「おケガはありませんか?」
「あなたは……」
――本内、成香。
「また、お会いできましたね」
ニッコリと京太郎に満面の笑みを見せる彼女こそが、さっきまでの話題の中心となっていた少女だった。
「どうしたのさ、なるかー」
「急に走り出さないでよ、重いんだからぁ……」
少し遅れて、彼女の後からやって来る有珠山高校の制服を着た女子たち。
一番後ろの髪の長い女子は、4つのビニール袋を両手にぶら下げて息を切らしている。
その様子からして、買い出しの途中だったところに成香が抜け出して来たのだろうか。
「……お? 成香、この少年が例の?」
「はい。須賀くんです」
いつの間にやら、ぞろぞろと。
二人しかいなかった校舎の脇が、随分と姦しくなった。
「ありがとうございました!」
京太郎と由暉子は、二人して頭を下げた。
彼女たちの親切心によって運ぶのを手伝ってもらったので、予定より随分と早くゴミ捨てが終わった。
「んー。二人とも、この後ヒマか?」
「はい」
「はい、今は部活やってないんで」
「ふむ……よし!」
髪を頭の右サイドで括っている少女――獅子原爽は、一人頷いて。
「お前ら――今から、ウチの部活に来い!」
連れて行かれた先は麻雀部――というのは名ばかりの、卓上ゲームクラブ。
先代が麻雀牌を売り払ってしまったために、あるのは麻雀マットだけで後はトランプやらボードゲームやらで遊ぶしかないらしい。
それならばと、由暉子が自宅の壊れた自動卓を直せば動くかも、とのことで寄贈することになり――
「おぉっ! 動いた!」
「すっげ! なんだこのオモチャ!!」
――有珠山高校麻雀部。
ゲストの由暉子と京太郎を加えて、初めてその名の通りの活動が始まるのであった。
由暉子、爽、誓子、揺杏。
寄贈者である由暉子は確定で、後はジャンケンで決まった卓の面子。
奇しくも、経験者が卓を囲み、初心者である成香と京太郎は見学することになった。
「いつもゴミ捨てとか雑用とか押し付けられてるっぽいけど、それでいいのか?」
「押し付けられてるつもりは、ないのですが……」
牌を切りながら卓上で交わされる会話。
安牌を切り、爽に返事をしながら、由暉子は無意識に京太郎に横目を向けた。
「私には取り柄とかなにもなくて、何か頼まれごとしてると落ち着くんです」
「んー……」
取り柄がない、の言葉に首を捻ったのは京太郎である。
同じく、揺杏と爽もその台詞には引っかかるものがあったようで。
「顔立ちいいじゃん」
「うん、かわいいよね。あと胸デカいし」
「それって誰かのためになるんですか?」
「それを誰かに見せたらよろこぶ人がいるんじゃねーの?」
所謂、アイドルのような扱い。
顔立ちも良く、少し改造すれば光るものがあるのではないかと言うのは爽の言葉だ。
「そっすね。確かに今のままだともったいないかも」
元からほぼ一目惚れのような形で由暉子に惹かれていた京太郎は、その台詞には頷くばかりである。
「アイドルで私みたいに身長が低すぎる子ってなかなかいないし、胸が大きいのもダメなんじゃないですか」
「この清水谷とか神代とか胸は結構あるけど人気だよ」
そう言う揺杏の指差す雑誌のページには、健康的な印象の少女と、巫女服に身を包んだ少女。
二人とも由暉子にサイズは劣るものの、大きな胸をしている。
「それにさ――そこの少年も、大きいの嫌いじゃないっしょ」
「えっ」
そしてこの流れで自分にパスを渡されるとは思っていなかった京太郎は、女子たちの視線に狼狽えるしかない。
「……須賀くん?」
特に、由暉子の目線。
眼鏡と前髪で隠れがちだが――彼女の目力は、強い。
「須賀くんは、好きですか?」
「え、えっと……」
「私の胸――好き、ですか?」
京太郎も健全な男子であるからして。
勿論、正直に答えればイエス以外の返答はない。
そもそも最初に由暉子に惹かれたきっかけが、その立派な二つの膨らみなのだから。
「……まぁ、その……うん、そうだな――」
「好きか嫌いか。ハッキリしてください」
だが、それを目の前の本人に言うのは些か恥ずかしい。
二人っきりなら兎も角、ここには年上のお姐さん方がいるわけで。
目を逸らしても必ず誰かしらの視線と重なり――面白そうに観察しているのが3人、不安そうなのが一人、瞬きもせずに返事を待つのが一人。
逃げ道は防がれている。
「……き、だよ」
「聞こえません。もっとハッキリしてください」
「――好きだよ! 大きな胸が、ユキの胸が!!」
廊下にまで響く大きな声。
最早、半ば焼けっぱちであった。
「……そう、ですか」
頬を朱に染め、うつむくように京太郎から視線を逸らす由暉子。
彼女がこのように照れているのは中々にレアな光景だが、今の京太郎にその様子を堪能する余裕はなく――
「……の」
「……へ?」
――隣から、蚊の鳴くような声と、控え目に引かれる手。
「私の胸は、どうですか……!」
ひゅう、と口笛を吹いたのが揺杏。
おー、と面白そうな声をあげたのが爽。
あんぐり、と大きな口を開けて驚いたのが誓子。
「ま、負けません……!」
成香の小さな手に導かれるがままに。
京太郎の手のひらは、その控え目ながら確かな柔らかさをもった温もりに触れていた。
「え……あ……え?」
もっとも当の本人は、オーバーヒートしたままに、まともな返事などできる筈もない。
「……」
そして、その様子を見て面白くないと感じる少女が、ここに一人。
制服越しに伝わる感触は柔らかく、優しく、手のひらに伝わる鼓動は成香の心の揺れ動きを感じる。
どうにかしなければと茹で上がった頭で考えても、具体的な結論は何も浮かばず――
「須賀くん」
――無防備に空いた左手を、由暉子に掴まれて。
「あなたの好きな、胸ですよ」
そのまま立派な二つの膨らみの、谷間の中へと――
世界で一番幸せな大岡裁き。
後に京太郎はそう振り返っているが、今現在の彼にそんな余裕はない。
ただでさえ成香のアプローチで限界寸前だったところに、由暉子の誘惑である。
「……」
「むむ……っ!」
目の前で二人の少女が静かに火花を散らす様にも気が付けない。
仮に気が付いたとしても――今この場で京太郎にできることは、火に油を注ぐ以外にはない。
「か、かくなる上は……!」
「は……!」
「早まるなーっ!!」
京太郎が決着を着けなければ――否。
例え決着を着けたとしても、一度着いた火は消えることなく、周り全てを巻き込んで燃え続ける。
京太郎の意思がどうあれ――火種となった彼に出来ることは、燃え尽きるまでその身を委ねることだけである。
【事後】
強い雨風が窓を叩く音が目覚ましベルの代わりとなって、京太郎は目を覚ました。
「……あー」
カーテンの向こう側は薄暗く、陽の光は分厚い雲に遮られている。
壁にかかった時計の針は正午を示し、枕元の携帯に目を向ければ何件かの着信履歴が溜まっていた。
恐らくは先輩と同級生からのものだろうと、京太郎は身を起こし――
「……んぅ」
――隣で眠る、一糸纏わぬ姿の彼女に引き留められた。
彼女と京太郎は先輩と後輩の関係で、恋人同士だったわけではない。
昨夜は雨が強く、びしょ濡れの彼女が雨宿りさせてほしいと来たので、家に上げた。
風邪をひかないように風呂場に案内し、彼女が温まっている間にココアを淹れて、母親の部屋から着替えを幾つか拝借して。
『……あの』
そしたら。
京太郎のワイシャツだけを身に付けた彼女が、ベッドに腰掛けて、京太郎を待っていた。
『……わかってます。私だって、男の人に、こういうことする意味は』
震える瞳は、迷いなく京太郎を捉え。
『はしたないって、思うかもですけど……』
零れる吐息は、あなたがほしいと、訴えていた。
『それでも、好きなんです――あなたのことが』
先輩たちへの言い訳だとか、同級生への罪悪感だとか。
胸を過ったものは色々あるけれど、何よりも彼女が愛おしかった。
「そうだった……」
初めて彼女と一線を越えて――気持ち良さとか何だとかは、お互いに緊張し過ぎてよくわからなかった。
こうして行為を終えた後に残るのは――ただひたすらに、彼女を愛おしく思う気持ち。
「ふー……どうすっかなぁ」
だが、いつまでもそうしている訳にはいかない。
台風が近付いて来ているとのことだが、休校の連絡は来ていない。
つまるところ、彼女と京太郎は二人揃って授業をサボタージュしてしまったのである。
「……でもなぁ」
幸せそうに身を寄せて眠る彼女を起こすのも忍びない。
あまりの痛みに涙を滲ませて――それでも行為をやめないでほしいと懇願してきた彼女。
今の京太郎の中での彼女は、学業や部活動よりも優先すべき存在となっていた。
「……ふむ」
リボンを解いた彼女をこんなにまじまじと見詰めるのは初めてだ。
何気無く、彼女の髪を一房手に取ってみる。
指を通してみると滑らかで引っかかるところがなく、気持ちがいい。
クルクルとスパゲッティのように人差し指に巻き付けて匂いを嗅ぐと、とても良い匂いがした。
「……ん、……アレ……?」
そうこうしているうちに、彼女も目を覚ましたようだ。
「おはようございます」
「はい……おはようござ……え?」
寝ぼけ眼のままに京太郎の部屋を見渡す彼女に挨拶をすると、段々と意識が覚醒してきたらしい。
意思を宿す瞳がハッキリとしてきて、昨夜の記憶を思い返し――
「~~~っ!?」
――羞恥心のあまり、顔を真っ赤にして布団に潜り込んでしまった。
「あ、あの、先輩?」
「うぅ……っ!」
シーツを体に巻き付けて必死に隠すその姿は、昨夜アレだけ自信の恥ずかしいところを見せて来た彼女の姿とはまるで結び付かない。
だが、惚れた子にちょっかいを出したくなるのは思春期の男子の特徴であり、意地悪なところでもあり。
「てい」
「ひゃぁっ!?」
頭隠して尻隠さず。
剥き出しになっている真っ白な背中。
その魅力的な首筋から背骨のラインに添って人差し指を走らせると、実に良い声を上げてくれた。
「も、もう……!」
「ごめんなさい、つい」
プンプンとほっぺを丸く膨らませてはいるが、彼女だって本気で怒っているわけじゃない。
その一挙一動が本当に可愛く見えてしまうのは、コレが惚れた弱みということだろうか。
――ピンポーン。
「……あ」
そんな風に彼女にちょっかいをかけていると、響き渡るインターホン。
最初は宅配便かと思ったが、何度も短い間隔で押されることから、恐らくは友人の誰かであることは想像がついた。
「……すみません、ちょっと行って来ます」
せめて寝巻きだけでもと、京太郎は軽く身なりを整えて。
誰だろうと、ドアスコープを覗き込んだ。
「……ユキ?」
ドアスコープの向こう側で待っていたのは、同級生の由暉子だった。
出来るだけ急いで準備をしたとはいえ、先輩との情事の後。
色々と手間取ってしまい、玄関先で待たせるには時間がかかり過ぎたのだが、それでも彼女は待っていた。
「……悪い、遅くなって」
さも今起きたばかりという風体を装って、由暉子を迎える。
もし学校をサボった理由がバレたりしたら――なんて想像は、できるだけ避けたかった。
「……どうしたんですか? 先生や先輩が心配してましたよ」
顔を合わせる彼女の調子は、いつもと変わらない。
バレてはいないようだと、京太郎は内心で安堵の息を零しながら、表面上は何でもない風に装う。
「なんか……朝調子悪くてさ。寝てたら大分良くなったんだが」
「そうですか……。これ、今日貰ったプリントです。台風の影響で、午後は学校を閉めるようなので」
彼女が鞄から取り出した藁半紙の束を受け取る。
授業で使ったものに加えて、台風についての注意事項が記されたそれに、京太郎が軽く目を通していると――
「……ソレ、大丈夫ですか?」
「え?」
由暉子が目敏く見付けて指差した先。
はだけた寝間着の胸元から、血の滲んだ小さな傷跡が見えていた。
「あっ……!」
思い当たる節は、昨夜の出来事。
情事の差中に、痛みに耐えながら、先輩が無意識に立てた爪。
だが、それを正直に伝えるわけにはいかない。
「いや……多分虫に食われたんじゃないかな。掻きむしっちまったんだよ」
「なるほど……」
由暉子の目線が胸元から逸れる。
どうやら誤魔化せたようだ。
「ところで、先輩も無断でお休みしたみたいなんですけど」
「え?」
「何か――知りませんか?」
知っているも何も。
この玄関の先の、向こう側に彼女はいるわけだが――
「いや……知らないな。桧森先輩なら何か知ってるんじゃないか?」
「そうですか……それでは、お大事に」
何食わぬ顔で嘘をつくと、由暉子は長い髪を風に靡かせながら帰って行った。
曲がり角の向こう側に消えた後ろ姿を見送って、京太郎はドアを閉めた。
「ふうぅー……」
胸の奥から深く息を吐き、ずるずるとドアに背中を預けてへたり込む。
さっきまで胸の中を占めていた幸せいっぱいな気持ちはどこへ行ったのやら、その頬には冷や汗が伝っていた。
「言い訳……ちゃんと、考えておかないとなぁ……」
バスの窓を叩く大粒の雨。
「……」
ドアの隙間から見えたローファー。
あのサイズは、明らかに京太郎の物ではない。
「……」
『先輩』としか言っていないのに、彼の口から出た『桧森先輩』という名前。
虫さされとは思えない、胸の傷。
「……嫌、だな」
由暉子の勘違いであればいい。
勘違いで、あってほしい。
けれども、彼女の見たものは、想像を嫌な方向へと運んで行く。