彼のために 彼女のために

「智紀ッ!」


室内に響き渡る怒号。

全力で振るわれた拳に、眼鏡が弾き飛ばされる。

鋭い痛みと、鉄の味。

咳をするように口を開くと、真っ赤な唾液と一緒に、欠けた奥歯が零れ出た。


「お前っ! お前、何したか分かってんのか!?」


鬼のような形相というのは、きっと今の純のことを言うんだろう。

彼女がここまで激怒しているから、自分は冷静に、客観的でいられるのだと、智紀は痛む頬を手の平で押さえた。


「辛そう、だったから」

「あぁっ!?」

「……彼と、衣では、セックスが、出来ない。体格が違い過ぎる」

「そうだよ! でも、アイツは、京太郎は、他の女に手を出さなかった!! 衣が、大好きだったからな! それを、お前は――」

「薬を、盛った」

「ッ!」


返事の代わりに振るわれた拳によろめくと、胸倉を強く掴まれる。

眼鏡を通さない曖昧な視界でも、純の想いは強く感じ取れた。


「アイツが! アイツが、オレのところに来て、何て言ったか分かるか!?」

「……」

「殺してくださいって、そう言ったんだぞ! 死にそうな、顔で!!」


想像するのは、難しくない。

衣への不義理になるからと、そういった行為を極力抑えてきた彼が。

薬に後押しされたとはいえ、衝動に身を任せて、この肢体を貪り食らったのだから。


しかし。


「……何で」


開かれた口から出た言葉は、


「何で、そんなに怒るの?」


純が期待したものとは、全く別のもの。

 

「お前、まだ――!」

「衣のため……では、ないでしょう?」

「ッ!?」


胸倉から感じる力が弱まった。

畳み掛けるように、言葉を続ける。


「あなたの怒りは……彼を、汚されたから」

「違う! オレは!」


「初めてを……私に、取られたからでしょう?」


「……違うッ!」


壁に押し付けられ、肺の中の空気が絞り出される。

喉の奥から、咳だか何だか、よくわからないものが漏れ出た。


「……許さねぇ」


吐き捨てるようにそう言い置くと、純は乱暴に扉を閉めて出て行った。

智紀は服の埃を払うように軽く腕を振るうと、屈んで足元の眼鏡を拾う。

左のレンズに、大きな罅が入っていた。

最終更新:2014年08月17日 16:53