国民学校一年生

02.国民学校一年生


現在(2014年)の山下小学校

私は、昭和18年4月国民学校一年生として鹿児島市立山下国民学校に入学しました。当時の世界地図をみると、日本国土は赤く画かれていました。同時に台湾、朝鮮半島及びサハリンの北緯50度線の南も赤く画かれていました。いずれも日本国であるとの表示ですが、なんの疑問も持ちませんでした。
入学してすぐだったんですが、山本五十六連合艦隊司令長官が戦死されたということが担任の女性教師から知らされました。そして「偉い人が亡くなるから日本は強いのです」というその女性教師の言葉が私のずっと引きずった疑問になりました。何故だろう偉い人が死ぬと何故国が強くなるのか答えはすぐには出ませんでした。
一年生の時、戦時中にかかわらず良い思い出があります。大相撲一行が巡業先として鹿児島にきたのです。しかも当時人気、強さとも絶頂の横綱双葉山がこの山下国民学校を訪れたのです。そしてクラスから一名選ばれて双葉山と相撲をとることになったのです。私もその一名に幸運にも選ばれ、ようやく手が届いたと思われる高さにある双葉山の腹を押したのです。双葉山の腹に私の手形がはっきり付きました。双葉山は私の押しに耐えられずもろくも倒れてしまいました。倒れた双葉山に付け人がかけよりすぐ起こしていました。その時の写真が残っていないのは残念ですが、戦時中の明るい出来事でした。
国民学校二年生になった時、クラスのメンバーは同じでしたが、担任の先生が変わりました。若い女性の先生でした。一年生の時の先生によく話を聞きに行っていたところをみると学校でたての新人教師だったかもしれません。笑うと片えくぼができる美人の先生でした。私は4月生まれでクラスで一番体が大きかったのです。そのせいもあって級長を言いつかっていました。よく先生に声をかけられました。帰りは二人で話しながら帰ることがよくありました。どんな話したか全く憶えていません。しかし楽しかったのだけはたしかです。一度だけでしたが、先生から電話がありました。母親が先生から電話だよと言われ、ただ夢中に受話器を握っていました。この時も何の用件だったか憶えていません。先生はその頃若い男性と話したい年頃です。ところが若い男性は戦役に駆り出され全くいません。私の穿った考えですが、そういう気持ちを私のような子供に求めたのかもしれません。そうだとすると、戦争のために自分の希望をなんら満たすことができなかった若い女性教師の不幸でした。先生の名前はあまり自信がありませんが、新留先生だったと思います。苗字に留がつくのは鹿児島によくあるのです。例えば稲留、福留とか。三年生になったとき、家が引っ越したこともあって荒田国民学校へ転校しました。そのため以後先生に合うことは全くありませんでした。もし先生が生きていらしゃれば現在90歳位のはずです。この文章をみてそれは私しよと名乗り出てこられたらどうしようと、まるで夢のようなことを考えてはいけないでしょうか?

(工事中)


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最終更新:2016年06月30日 05:56
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