我が家の焼失

09.我が家の焼失


桜島に見守られる最近(2005年)の鹿児島市
市街の中央に位置する城山から撮った鹿児島市の一廓です。この市街が焼夷弾空爆を受け、全くの焼け野原になったのです。

昭和20年6月17日夕、鹿児島市は何回目かのB29爆撃機による空襲を受けました。現在の記録によると、死者3329名、負傷者4633名、家屋の93%が焼けたということです。壊滅的な被害を受けました。ほとんど焼夷弾によるものでした。
この日我々は、引っ越したばかりで、高麗町に住んでいました。私の家族は、祖父母、両親、兄弟4人の8人でした。6月17日けたたましい空襲警報で、家族全員,家から10メートルも離れていない庭先にある防空壕へ避難しました。私と父が最後でした。私は防空壕に入る前に、今出てきた家を振り返りました。家全体に火が燃え盛っているではありませんか。一瞬のことでした。もう少し遅れたらと思うと、この時初めて恐怖を感じました。我々はただひたすら防空壕へ閉じこもり家が焼け落ちるのを待つしかありませんでした。消火作業などできるものではありません。隣の家もまたその隣も焼けているのですから、防空壕から外へでたら焼け死ぬだけです。翌朝ようやく防空壕から出て、焼けてしまって街の形が残っていない道を、幸いに焼けなかった別の家に移動しました。
この日から飛行機の爆音が怖く感じられて仕様がありませんでした。この恐怖感は終戦を経て2,3年経った後にも残りました。
家が焼けて2,3日して焼け跡に行ってみました。家の真ん中に焼夷弾の薬きょうがあったのです。高さ1メートル、縦横が50センチぐらいの鉄枠でした。我が家は焼夷弾の直撃を受けたわけです。だから一瞬にして家全体に火がついたのです。
終戦2,3年後、科学朝日という雑誌に焼夷弾の構造を示す記事が載りました。その中にこの薬きょうもちゃんと載っていました。自慢にもなりませんが、この薬きょうが内の焼け跡に残っていたと人に話したものでした。

(工事中)


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最終更新:2015年09月07日 16:36
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