食料難

15.食料難
空襲によって住居に大被害を受けました。被害は住居だけでなく、田や畑も被害をうけました。当然食料が不足します。加えて中国、朝鮮、台湾からの引揚者も多く、生産と消費のバランスがくずれます。食料不足は生死にかかわる大問題でした。
食料を生産しない町には、金があっても食料を買えないのです。流通機構が全く作動していません。だから田舎へ買い出しに行きます。列車は買い出しにゆく人で満員です。人が1杯で、列車の入口から入れないので窓から出は入りするのが普通でした。2人座る席も3人座るのが当たり前。通路の床に皆座っていました。現在テレビで東南アジアで列車の天井にまで乗ってる人の様子をみますが、それは見受けられませんでした。ただ荷物を置く網棚に子供が腰掛けている光景はありました。
買い出しに行っても腹を満たす程にはゆきません。庭に、空き地に食料になる物をなんでも植えました。代表的のものがサツマイモとカボチャです。サツマイモとカボチャは素人の町育ちの人間でも簡単に作れました。形は整ったものが作れますが美味しいかどうかは別問題。またこれを毎日食べさせられたら、いくら食料難の時期でもうんざりしてくるんです。終戦から69年経った今でも私は、サツマイモとカボチャは食べようと思いません。避けて口にしません。私だけじゃないと思いますよ。当時カボチャを見るとお化けに見えて恐いというエノケンという俳優のでる映画ができたぐらいですから。その映画をみてエノケンの気持ちに全く同調しました。
我が家でも空き地があって、母親が先頭にたって食べるものはなんでも作りました。作物の肥料は、人糞です。住居と空き地との距離が500メートル程ありました。その間をリヤカーで運ぶのです。途中市電を横切らねばなりませんでした。市電は通常の道路より1メートル程高い位置を走っていました。そのため市電を横切るには、坂道を登り下りせねばなりませんでした。登る時は、母と兄と私3人で勢いをつけて駆け上がりようやく越すことができました。また、晴天が続くと井戸から水を汲み上げ作物にかけてやらねばなりません。この水を汲み上げる作業もかなりきついものでした。夕方作業を終えてなっているトマトをもぎとり、食べた時のおいしかったこといまだに忘れません。


上の写真は、昭和17年に撮ったもので、私が満6歳です。真ん中が私で、右が兄で、左が母親です。この3人が4年後にリヤカーで人糞肥料を運ぶ運命となったのです。当時写真は写真館へ行って撮ってもらうのが普通で、この写真も写真館で撮ったものです。戦火を免れた写真で、私にとっては貴重なものです。またその頃、カメラは高価なものとされ、個人で持っている人は稀でした。


(工事中)

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最終更新:2016年05月16日 07:09