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ja
2017-07-30T04:56:31+09:00
1501358191
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自転車泥棒
https://w.atwiki.jp/swfdk792/pages/36.html
19.自転車泥棒
小学校四年生の頃でした。まだまだ世情は不安定な時期です。ある日学校から帰る途中、泥棒!自転車泥棒だ!と大声で怒鳴りながら走っている男の人に出くわしました。前をみると自転車に乗った男の人がペタルを懸命に踏みながら逃げているところでした。私も夢中で、自転車の持ち主と一緒に泥棒を追いかけました。昼間時で、大勢の通行人がいました。その自転車泥棒は通行人に遮られ、取り押さえられてしまいました。追いついた自転車の持ち主は、観念し無抵抗になった自転車泥棒の横面を殴るは殴る、たちまち泥棒の顔面は腫れあがり無残な顔になってしまいました。どちらも30歳前後のおそらく兵隊上がりの人たちだったと思います。その後泥棒は警察に引き渡されたと思いますが、私は泥棒の腫れ上がった顔をみて可哀想になり、その場にいたたまれなくなり、早々に家に帰りました。
そのようなことがあってしばらくして、イタリアのビットリオ・デ・シーカ監督が「自転車泥棒」という映画を発表したのです。発表されたのは1948年とあります。アカデミー外国語映画賞を受けた作品です。私がこの映画をみたのは、発表後数年経ってからだったと思います。見た途端以前目撃した自転車泥棒の光景を思い出したのは当然のことでした。日本だけでなく、同じ敗戦国イタリアでも同様な事件が起こっていたのだと想像できました。唯映画は泥棒を殴るような画面はなく、最後を人情味豊かな場面にしてありました。
戦後、混乱のイタリアのある町で、商売道具の自転車を盗まれた父親とその小学校低学年ぐらいの息子が、まる一日自転車の行方を捜したが、見つからず、疲れて座った向こうに一台の自転車がおいてあるのが父親の目にとまったのです。父親は突然その自転車に乗って走り出しました。まるで自転車泥棒になってしまったのを全く意識してないように。しかし、すぐ自転車の持ち主に発見されました。持ち主は大声で自転車泥棒だと叫びました。通行人の何人かが自転車を遮り、無惨にも父親は取り押さえられてしまいました。取り押さえられた父親の元に、息子は泣きじゃくりながら駆け寄りました。それは自転車泥棒をした父親でなく、何人かに取り押さえられている父親を哀れんでのものでした。それを見た初老の自転車の持ち主は、子供があまりに不憫に感じたのでしょうか、警察に引き渡せと言ってる皆の言葉を聞かず、自転車さえ返
2017-07-30T04:56:31+09:00
1501358191
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疎開先での通学
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14.疎開先での通学
三年生の3学期、間疎開先で,たしか中村国民学校といったと思いますが3ヶ月間通学しました。この間今でも忘れられない屈辱を受けることになってしまいました。
3学期に既存のクラスに編入された私は、どうにも馴染めませんでした。短期間の編入ということで他所者扱いにされたせいか、私の消極的な態度のせいか、誰も話しかけてこないし、私も話しかけませんでした。1,2年生のとき、クラスでは中心的存在だった私にとっては、屈辱のなにものでもありませんでした。
またある日担任の女性教師にコラッという掛け声もろ共、竹の細棒で頭を叩かれました。当時まだ戦時中の雰囲気が残っている時であれば女性教師といえども日常茶飯事に行っている体罰だといえばそれまでですが、後にも先にも無かった体罰を受けた私にとっては屈辱そのものでした。
さらに、3歳上の兄が六年生にいました。兄は非常に優秀だが弟はたいしたことがないという言葉が私の耳にはいってきたのです。兄が優秀だという言葉で止めておけばいいものを、そのあとの言葉が気にいりませんでした。結構自尊心が強かったのか屈辱として強く残りました。兄が優秀だったのは確かです。国民学校を卒業と同時に何人受験したかはわかりませんが、中村小学校から唯一人、旧制鹿児島県立第二中学校に合格したんですから。
(工事中)
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2016-05-26T04:36:48+09:00
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国策映画
https://w.atwiki.jp/swfdk792/pages/34.html
07.国策映画
#image(center,http://cdn62.atwikiimg.com/swfdk792/?cmd=upload&act=open&pageid=34&file=IMG_9959%20-%20%E3%82%B3%E3%83%94%E3%83%BC.JPG)
私が国民学校2年生、終戦の前の年(1944年)敗色濃厚のため本土決戦が叫ばれだした頃に、学校全員で映画を見にゆきました。映画の題名、内容、出演者などなにも憶えていませんでした。しかし、上の写真のような敵の船に討ち入りする武者の姿だけが、脳裏の片隅に刻み込まれて離れませんでした。今までも放映されたかもしれませんが、今年(2015年)の8月「かくて神風は吹く」という題名の映画が放映され、学校から見に行った映画はこれだったと約70年ぶりにみて確信しました。
「かくて神風は吹く」は、鎌倉時代に日本に押し寄せた元軍が台風によって全滅した史実を映画化したものです。元軍を米軍になぞらえ本土決戦を訴えた戦時中の国策映画でした。出演者には坂東妻三郎、嵐寛寿郎、市川右太衛門、片岡千恵蔵など当時から終戦後にかけての大スターが名を連ねています。
この映画の最後の10分間を次の動画でご覧ください。「第2、第3の国難日本国を襲おうとも、必ずや皇祖神霊の御加護あり、なにを恐るることやあらん」というセリフが当時の状況を表しています。
#center(){&youtube(https://www.youtube.com/watch?v=hRNr83Bi_u0){600,400}}
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2016-01-04T15:40:45+09:00
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出征
https://w.atwiki.jp/swfdk792/pages/33.html
03.出征
私が国民学校にはいってからだったか、はいる前だったかはっきりしませんが、父の工場で働いていた「光彦さん」に招集令状がきたのです。たしか両親と早く死に別れた人だったと思います。そういう事もあって、内で壮行会を開きました。大勢の人がきてくれて、励ましの言葉を「光彦さん」にかけてくれました。ところが本人は、それに答えるでもなし、無言のままなのです。当然頑張ります、お国のためにつくしてきますという返事が出るとばかり思っていた私には全く意外な壮行会でした。さらにその時の「光彦さん」の目が忘れられません。いつもの目と違うのです。憂いのこもった今にも泣き出しそうな目なのです。そのときはただどうしてそんな目をしているのか不思議なものとしか思えませんでした。
2,3ヶ月してから、練兵場に面会にも行きました。鹿児島には、陸軍歩兵第45連隊がありました。大東亜戦争のときは、最近の戦記によりますと、昭和18年1月にブーゲンビル島に駐屯し、同年11月に米軍が上陸し、攻防戦を展開。翌昭和19年3月に45連隊壊滅。6千余名のうち生存者8百余名とあります。面会は、2,3ヶ月の訓練を経て、補充兵として送られるための最後の日だったのかもしれません。暗い雰囲気だったことを憶えています。
ただ救いは、終戦後しばらくして、内に「光彦さん」が挨拶にみえたことでした。生きて復員できたのです。その時の顔は、壮行会の暗いものではなく、笑い声のある明るいものでした。ただ、戦争の話は全く無かったとおもいます。現在どうしているかについての話をしてたと記憶してます。
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2015-07-17T15:14:32+09:00
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消火訓練
https://w.atwiki.jp/swfdk792/pages/32.html
06.消火訓練
町内では、毎日のように消火訓練が行われていました。40歳代の父が隊長役で、2,30人程の町内の人たちを集めて掛け声をかけながら、訓練が行われていました。町内の人たちはお祖父さんかもんぺい姿のおばさんでした。それでもバケツリレー、はしごをかけて屋根に水をかけるなどの訓練を真面目にやっている姿がありました。ただ竹槍をもって敵を刺す訓練は見たことがありません。
しかし後で書くように、空襲の時は防空壕の中に閉じこもりじっとしてるしかありませんでした。
その頃子供心にも役立つはずがないと思われた事がありました。それは家の天井板を取り外しなさいという指令があった事です。理由は天井板があると焼夷弾が屋根を突き抜けて天井板のところで止まり火災を倍加させるからだというのです。天井板がなければ、畳のうえに落ちるから外へ掃き出しやすいというものでした。
(工事中)
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2015-09-07T16:36:11+09:00
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開戦
https://w.atwiki.jp/swfdk792/pages/31.html
01.開戦
昭和16年12月8日大東亜戦争開戦。その時私は5歳でした。父親、母親が何を言ったか、ラジオで何が放送されたか、全く記憶にありません。記憶にあるのはやはり小学校へはいってからです。
開戦は、山本五十六連合艦隊司令長官の提案により、計画され、昭和16年(1941年)12月8日未明、「にいたかやまのぼれ」の暗号文のもと、ハワイオアフ島にあったアメリカ海軍基地を奇襲攻撃して始まりました。この攻撃により、アメリカ軍に多大の打撃を与えることに成功しました。というようなことはずっと後で知りました。また、アメリカでは、「リメンバー・パール・ハーバー」という言葉で、日本軍の加害行為に対して強い憤りを示しました。その表れが山本五十六連合艦隊司令長官の搭乗機を撃墜するという事にもなったのでした。
#image(center,http://cdn62.atwikiimg.com/swfdk792/?cmd=upload&act=open&pageid=31&file=640px-Isoroku_Yamamoto.jpg)
#center(){ウィキペディア フリー百科事典より引用}
山本五十六大日本帝国元帥海軍大将です。1884年新潟県長岡市生まれ。1943年4月18日死没59歳、ソロモン島ブーゲンビル島上空で戦死。
#image(center,http://img.atwikiimg.com/www62.atwiki.jp/swfdk792/attach/31/17/IMG_0026%20-%20%E3%82%B3%E3%83%94%E3%83%BC%20-%20%E3%82%B3%E3%83%94%E3%83%BC.JPG)
私は30歳ぐらいの頃、千葉県船橋市に移り住みました。船橋市の地図を見ましたら、円形の敷地があるのが目を引きました。直径が800メーター円周が2.5キロメーターにもなります。その円周の部分は、道路になっています。まるでカーレース用の道路を思わせるものです。数年経ってから興味半分でそこへ行ってみました。その円形の敷地内は団地になっていました。中央部は公園になっており、そこに写真のような記念碑が建っています。旧日本海軍無線電信所船橋送信所の跡地だったのです。そこに「にいたかやまのぼれ」の開戦の暗号文は、この地から発せられたと
2016-12-23T05:54:50+09:00
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物乞い
https://w.atwiki.jp/swfdk792/pages/30.html
17.物乞い
戦争が終わって生き残った人々には、住む家は焼け、着るものは替えるものがない状態でした。しかし、やはり食べるものがないのが、差し迫った一番の問題でした。いつもは食べないカエル、ヘビ、トカゲなどの動物、木の実、草類などなんでも食べた経験があります。そして最もてっとり早いのがアメリカの兵隊に物乞いすることです。兵隊はなんでも持っていました。特にチョコレイト、チューインガムなどは魅力でした。皆米兵の後を追いかけていました。私も欲しかったんですが、妙なプライドがあったのか、親からきつくいわれたのか追いかけて物乞いした記憶はありません。
ここで書きたいのは、若い女性のことです。我々が住んでる家の近くにも若い女性がいました。米兵の間で情報交換ができてるせいか夜暗くなると米兵が来るんです。そして二人で出かけてゆきます。若い女性の親が止める様子はみられませんでした。今晩も娘が稼いできてくれるという気持ちだったのでしょうか?白昼でも堂々と二人連れで歩いているのも、よく見受けました。ああいう女性がいるから良家の女性が助かっているんだという風説までながれました。
しかしこの時代の日本の若い女性にとって不幸な事は、相手になる若い日本人の男性が全く少ないとという事だったと思います。戦争で亡くなっているのです。
(工事中)
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2016-05-16T07:10:32+09:00
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海軍軍事工場
https://w.atwiki.jp/swfdk792/pages/29.html
05.海軍軍事工場
小学生低学年の頃、夜8時には寝ていたとおもいます。母親によく寝る子だった言われていました。ある日、寝付いて熟睡に入ろうとする時、父親に激しく揺り起こされました。父親の顔は笑っていました。そして内の工場が海軍軍事工場になったというのです。それ以上は何も言いませんでした。それはおめでたい事だと思いましたが、寝ている子供を無理に起こしてまで伝えなければならない嬉しいことかなと思ったものです。
私の父親は、30人くらいの人を雇って家具製作を主体の木工場を営んでいました。1階が機械場で、2階が加工場でした。2階には俺が鹿児島一のタンス製作の職人だと自称する人がずらりと並んで仕事に励んでいました。しかし戦争が激しくなるにつれ、兵役に駆り出されたんでしょう、若い人からいなくなってゆくのは、私の目からみても寂しく感じるものでした。
戦争が終わって、またそれ以後も海軍軍事工場の話を父親がすることはありませんでした。私からも持ち出すことはありませんでした。しかし、その時の父親の嬉しそうな顔の理由は、20歳ぐらいになった頃にはわかりました。それは、軍事工場になったことで兵役に引っ張られて戦争にゆかなくて済むということです。父親はこの時すでに40歳を過ぎた年齢でしたが、40歳過ぎても招集令状が来るような切羽詰まった時期になっていたのです。
親が私を揺り起こして言った言葉に、これで戦争に行かなくて済むという言葉を加えたら、父親は非日本国民になってしまう。また私もなんと情けない男だろうと思ってがっかりしたと思います。そういう言葉をもらしてはいけない時だったのです。
(工事中)
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2016-12-22T14:11:33+09:00
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アメリカの援助
https://w.atwiki.jp/swfdk792/pages/28.html
20.アメリカの援助
戦争をして勝った方が負けた方の全てを奪うのが、昔からの戦争の慣わしです。我々は皆殺されるという噂まで出たほどでした。ところが負けた方に奪う何もないのです。焼け野原の国土と、疲れ果てて飢えた生き残りの人間だけです。それで勝った方が、負けた方に医薬品、食料などの援助をしたのです。医薬品で有名となったのはDDTです。白い粉末の殺虫剤でノミ、シラミなどを防ぎました。学校で頭からこの粉をかけられました。食料では、学校給食はほとんどアメリカの援助で行われたと思います。日本人は脂肪の摂取量が少なすぎると叫ばれました。だから体が小さいのだと、しかしこの考え方は十数年後に覆されましたね。当時は脂肪分のたっぷりはいった学校給食のおいしかった事はいまだに忘れられません。また鉛筆やノートもよく支給されました。
これらの援助を受けて日本は立ち直ってゆけました。その代わり終戦70年近くなっても、いまだアメリカに頭を下げ続けています。
(工事中)
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2016-12-22T06:24:24+09:00
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中洲小学校四年生
https://w.atwiki.jp/swfdk792/pages/27.html
18.中洲小学校四年生
#image(center,http://cdn62.atwikiimg.com/swfdk792/?cmd=upload&act=open&pageid=27&file=IMG_5362%20-%20%E3%82%B3%E3%83%94%E3%83%BC.JPG)
#center(){現在(2014年)の中洲小学校}
昭和21年4月、疎開先の川内市から鹿児島市に帰り、中洲小学校四年生として入りました。三年生の時、学校へは約四ヶ月、一年のうち三分の一しか行っていません。それでも四年生になりました。学校へ行っても、最初は焼け跡の整理でした。焼けた瓦の片付けです。片付けた後は地面に座り青空天井のもと、先生の話を聞きました。
いつごろだったか正確には覚えていませんが、四年生の二学期が始まる頃だと思いますが、校舎ができたのです。机も椅子もありました。ようやく学校の体裁が整いました。
校舎ができて喜んだかどうかその喜びを覚えていません。今思うと意外に早く校舎ができたなと思います。終戦二年目です。皆住む家さえ堀建小屋の時ですから。五年生になった時は二階建ての校舎になっていました。我が国は教育の必要性を非常に重要視した国であったからだと思います。
学校の体裁は整いましたが、我々の服装はみじめのものでした。将校だった五年生の時の先生はいまだに軍隊のズボンをはいていましたし、私の服は一張羅でした。休みの日に洗って干して乾くまで裸でいました。靴はありません。皆裸足でした。いくら南国鹿児島でも冬は寒いのです。足はあかぎれができていました。教室でぶるぶる震えながら先生の話を聞いていました。小学校五年生の冬、親が下駄を買ってくれました。冷たい地面に足を触れることなく歩くことができました。その時の暖かい足の感覚今でも忘れません。
(工事中)
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2016-05-16T07:10:55+09:00
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