石垣謙二「主格「ガ」助詞より接續「ガ」助詞へ」2

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三 主格形式の發展

 平安時代初期に至ると主格「が」助詞も用言を承け得る事となつたのであるが、用言を承け得るといふ事は換言すれば名詞句を承け得るといふ事に外ならない。然るに國語の名詞句には大いに性質を異にする二種類が識別され、例へば、
 (1) 友の遠方より來れるを喜ぶ。
 (2) 友の遠方より來れるをもてなす。
に於て傍線の部分は共に一の名詞句であるが、(1)では「事」といふ體言の資格に立つて居るのに(2)では「者」といふ體言の資格に立つて居り、更に「遠方より來れる」が(1)では「友」を述定してゐるのに(2)では意味上寧ろ「友」を裝定するやうな關係に在る。(以下略して2の關係を單に装定と表現する事がある。)私は嘗て之等二つの名詞句に對して、(1)の如きものを作用性名詞句、㈹の如きものを形状性名詞句と夫々命名しておいたのであつて、之等の點に關しては昭和十七年十一月の「國語と國文學」に於ける拙稿「作用性用言反撥の法則」(本書後收)を參照せらるれば幸甚である。
 然らば前節の竹取物語の例に於て「が」の承けてゐる名詞句は右の二種類中いづれに屬するかといへば、

  程なく罷りぬべきなめりと思ふ(事)が悲しく侍るなり

  然ばかり語らひつる(事)が流石に覺えて

と考へられるゆゑ、之等は皆作用性名詞句に屬するのである。而も上代の喚體形式に於ける名詞句も亦

  携ぐ舟人を見る(事)が羨しさ

  魯ふべき由の無き(事)がさぶしさ

等の如くすべて作用性名詞句なのであつて、兩者が極めて接近した用法と考へられる原因の一孚はかやうに「が」の承ける名詞句が性質を同じくする點に存するのである。

 さて名詞句の二類の中、作用性名詞句が上代から存した事は右の喚體形式に依つても明らかであるが、他の一類たる形状性名詞句も亦既に上代から見られるのである。即ち、宣命に次の如き諸例が有る。
(1) 新造寺乃躪圓寺止可成波官寺止成賜夫 (=二詔)
(2)奪靈乃子孫乃遠流天翼京都仁召上天臣止成无(三四詔)
(3) 子孫乃淨久明伎心乎以天朝廷爾奉侍灘乎必治賜牟 (四〇詔)
之等の意味は夫々

(1) 新に造れる寺の官寺と成すべき(者)は官寺と成し賜ふ。
(2) 尊き靈の子孫の遠く流りてある(者)をば京都に召上げて臣と成さむ。
(3) 子孫の淨く明き心を以て朝廷に侍へ奉らむ(む者)をば必ず治め賜はむ。

と考ふべきであるから傍線を引いた部分は皆「者」といふ體言の資格に立ち、「官寺と成すべき」・「遠く海りてある」・「淨く明き心を以て朝廷に侍へ奉らむ」の部分は各ヒ體言「寺」や「子孫」を寧ろ裝定するやうな關係に在る。即ち右の傍線の部分は皆形状性名詞句を構成してゐると云はなければならない。

 唯右の例に於ける形状性名詞句はすべて客語の地位に在るもののみであるが、平安時代初期に至ると主格「が」助詞も名詞句を承ける能力を獲得した事は嚮の竹取物語の例に依つて知られるのであるから、竹取物語の例は偶辷作用性名詞句を承けるもののみであつたけれども當然形状性名詞句を承ける場合も生ずべきであると考へられる。

 竹取物語と同樣平安時代初期に屬する伊勢物語に就いて看るに、用言を承ける「が」助詞三例の中、連體助詞たる二例を除くと、次の如きものが殘るのである。

女のまた世へすとおほえたるか人の御もとにしのひて (下卷一二〇段)

之が解釋は季吟の『拾穂抄」や藤井高尚の『新釋」等に依れば、結局、

女のまだ世經ずと覺えたる(者)が人の御許に忍びて
即ち、

まだ世經ずと覺えたる女が、人の御許に忍びて
といふのと同じ意味に解いて居り、「が」の承けてゐる名詞句は正に形状性名詞句であると云ふ事が出來る。即ち平安時代に入ると共に、主格「が」助詞も用言を承け得るに至り、名詞句を承ける事が出來るやうになつた結果、名詞句に本來存する二つの種類-ー作用性のものと形状性のものとーのいづれをも承ける例が生じて茲に異つた二つの新しい「が」の用法が現れたのである。

 之等の二用法は夫々竹取物語・伊勢物語に於て甫めて見出されるのであるが、竹取物語と伊勢物語とは共にその制作年時が明かでなく、いづれも平安時代初期のものたる點は確實であるとしても兩者間の先後は俄かに決定する事が出來ない。ゆゑに右の二種類の「が」も亦いづれが先に生じた用法であるか資料の上のみからは定める事が出來ないわけである。又恐らくこの二用法は殆んど時を同じくして發生したのが事實であるかも知れない。然し前節で見たやうに、上代に於て喚體形式があり、喚體形式の「が」助詞が承ける名詞句は正に作用性名詞句なのであるから、竹取物語の「が」に連るものであつて伊勢物語の「が」に連るものではない。さすれば上代の喚醴形式が其のまま普通の述體形式となつて竹取物語の例の如き形が先づ生れたのであると考へるのが理論上自然であらう。かくて主格「が」助詞も用言を承け即ち名詞句を承け得るに至つた爲に、おのつから名詞句の二類の中他の一類たる形状性名詞句を承けるものをも生じたのが伊勢物語の例であると思はれるのである。依つて竹取物語の例のやうに作用性名詞句を承ける「が」助詞を主格形式第一類、伊勢物語の例のやうに形状性名詞句を承ける「が」助詞を主格形式第二類と呼ぶ事が出來るであらう。

 さてかやうに主格「が」助詞が形状性名詞句を承け得るに至ると、茲に又新しい問題が生ずるのである。それは嚮に掲げた宣命の例に就いても知られる所で、
(1)寺の官寺と咸すべきは官寺と咸し賜ふ。
(2) 子孫の遠く流りてあるをば京都に召上げて臣と成さむ。
に於て、此の『歴朝詔詞解」の訓を動かざるものとすれば、傍線の部分はいづれも形状性名詞句である點で相等しいけれども、(1)(1)の間には又おのつから違を見出すであらう。何となれば(2)の名詞句では「遠く流る」といふ動作を實際行ふのは結局「子孫」に外ならず、畢竟「子孫が遠く流りてある」のであるが、之に反して(1)の名詞句では「官寺と成す」といふ動作を實際行ふのは決して「寺」ではなく「寺が官寺と成す」のではなくて「何物か(ここでは朝廷)が寺を官寺と咸す」のである。形状性名詞句の用言は事物の屬性を述定せずして寧ろ裝定すると見られるのであるから、(1)の如き場合に「子孫」を「遠く流りてある」に對する文法上の主語と稱する事は不適當であるとしても、少くも意味上の主體である事は認め得るであらう。さすれば(1)の名詞句に於ては用言が主體の屬性を裝定してゐるに對して、(1)の名詞句に於ては用言が客體の屬性を裝定してゐるといひ得べきである。

 かくの如く形状性名詞句中に又異つた二種が識別されるのであるが、嚮の主格形式第二類に於て「が」の承けてゐる名詞句は

女のまだ世經ずと覺えたるが人の御許に忍びて

であつて、用言「覺ゆ」は「思はれる」の意味であるから、結局「女がまだ初心だと思はれる」のであり、即ち主體を裝定する形状性名詞句なのである。然し既に主格「が」助詞に形状性名詞句を承ける能力が賦與された以上、形状性名詞句の他の一種を承ける場合も早晩生ずべきものと豫想されるのである。特に大和物語の如きに至ると此の種の形状性名詞句が比較的頻繁に見出されるのである。例へば、
河原の院の面白く作られたりけるに、京極の御息所一所の御曹子をのみして渡らせ給ひにけり (上卷)
此の大徳の親族なりける人の女の内裏に奉らんとかしづきけるを、密に語らひてけり (下卷)
(類例、二例)
の如くであつて、夫々「河原の院を面白く作り」「女をかしつく」のである。果して同じ大和物語の主格「が」助詞には、次のやうな新しい用法を發見する事が出來る。
(1) 同じ中納言、かの殿の寢殿の前に少し遠く立てりける櫻を近く掘り植ゑけるが、枯れざまに見えければ (上卷)
(2) 釣殿の宮に若狹の御と云ひける人を召したりけるが、又も召し無かりければ、詠みて奉りける (同)
先づ(1)に就いて見ると、第一に「が」の承けてゐる名詞句中「近く掘り植ゑける」といふ部分は體言「櫻」を装定する關係に在ると考へられるから、此の名詞句は形状性であり此の點丁度伊勢物語の主格形式第二類と同樣であつて、結局、

近く掘り植ゑける櫻が枯れざまに見えければ

といふのと等しい文意と解される。然るに第二に此の例に在つては「近く掘り植ゑける」に對して「櫻」は意味上の主體でなくて客體となつて居り、この點伊勢物語の主格形式第二類とは甚しく異るのである。(2)も全く同樣で「若狹の御と云ひける入」は名詞句の客體なる事が明らかである。即ちこの大和物語の例に至つて主格「が」助詞は、形状性名詞句中客體の屬性を裝定するものをも承ける事となつたのである。而も右の二例に於ては共に客體表示の格助詞「を」を拌つてゐるから、この間の消息は一層明瞭と云ふべきである。さればかやうに意味上客體の屬性を裝定する形状性名詞句を承ける「が」助詞を主格形式第三類と命名する事が出來るであらう。資料の上より見ても第三類は第一類・第二類に稍遲れて發生したものと考へる事は充分に妥當である。
 さて主格「が」助詞に三つの新しい種類を認めたのであるが、之を順に排列してみると、
主格形式第一類
やがて罷りぬべきなめりと思ふが悲しく侍るなり (竹取物語)

主格形式第二類
女のまだ世經ずと覺えたるが人の御許に忍びて (伊勢物語)

主格形式第三類
同じ中納言、かの殿の寢殿の前に少し遠く立てりける櫻を、近く掘り植ゑけるが、枯れざまに見えければ(大和物語)

の如くになる。

 今之等の三類を順次に比較すると自ら其の間に一つの傾向を看取し得ると思ふのである。之等の三類は等しく「が」助詞によつて主部と述部とが結合せられ一つの複文を構成してゐるが、その結合し方に於て漸次緊密さが弱まつてゐると考へられるのである。
 先づ第一類は「やがて罷りぬべきなめりと思ふ」が全體で一つの陳述として即ち一文として一體のまま下へ懸つてゆくから、隨つて「が」助詞の上下は最も緊密に結合してゐるのである。之に對して第二類は「女のまだ世經ずと覺えたる」の中直接下へ懸つてゆくのは體言「女」だけであり、「まだ世經ずと覺えたる」は意味上「女」を裝定する點に於て間接的に接觸を有するに過ぎない。隨つて「が」の上下は第一類に比して著しくその結合が弛緩してゐるのである。然るに此の類に於ては尚體言「女」が意味上名詞句の主體である爲に複文全體に對する主體と名詞句の主體とが同一であつて、「まだ世經ずと覺え」るのも「人の御許に忽」ぶのも畢竟同じ「女」である。隨つて體言「女」がいはば核となり一複文としての統一を保つてゐるといへるのであるが、次の第三類に至ると此の統一も亦崩されて了ふのである。何となれば第三類では複文全體に野する主體は「櫻」であり、「櫻が枯れざまに見え」るのであるに拘らず、その「…櫻」は名詞句の主體ではなくして客體であり、名詞句の主體は別に「同じ中納言」が存するのである。
隨つて第二類の如く複文の核となるべきものを見出す事が出來ず、其の統一は著しく亂れるから、「が」の上下の結合は益ミ緊密度が弱まつて了ふのである。

 之を要するに主格形式の發展は第一類・第二類・第三類と順次に「が」助詞の上下の結合する緊密度が弛緩して行くのであつて、「が」の上なる部分と下なる部分とが互に獨立しようとする傾向であるといふ事が出來るのである。

四 主格形式より接續形式へ

 平安時代初期に於て「が」の上なる名詞句と「が」の下なる部分とが互に獨立しようとする傾向の見られる事は、前節の如くであるが、更に平安時代中期より末期院政時代にかけて、此の傾向は益ヒ顯著となり、終に「が」の上下が完全に獨立した文と文とに成長して、接續助詞たる用法が發生するに至るのである。以下先づ源氏物語の全「が」助詞に就いて、その經路を跡づけてみたいと思ふが、それに先だつて主格「が」助詞と接續「が」助詞との區別の基準を確定して置かなければならない。兩者を識別する基準としては、大體次の三項を擧げ得るかと思ふ。

 (一) 文意の解釋による。
 (二) 「が」助詞の下の部分に主體を示す語が現れてゐれば「が」は接續助詞である。
 (三)「が」助詞の承ける用言も懸る用言も共に作用性用言ならば「が」は接續助詞である。

(二)に於て主體を示す語といふのは主語といつてもよい所であるが、唯主語とは文法上主格助詞を伴ふか又は全然助詞を伴はぬか何れかの形を採るものに限られるから、この外係助詞・副助詞・間投助詞等を伴ふ場合をも廣く含めて意味上文の主體たるもの一般を指すのである。然る時は主體を示す語が存すれば一文なる事が明らかであり、「が」の下が完全な文を構成する事を確認出來るから、隨つて「が」は接續助詞と斷定し得るのである。

 又(三)に於て作用性用言といふのは終止形がウ列音で終る活用語をいふもので、嚮に觸れた拙稿「作用性用言反撥の法則」に詳述した所である。

 さて(二)(三)の兩項は(一)に比して客觀性を有するけれども、共に接續助詞である事を斷定する基準にはなるが接續助詞でない事を確める役には立たない。何となれば(二)(三)共に逆は成立しないからである。故に私は以下右の三項を共に考慮に入れつゝ用例の處理を行ふが、客觀的確實性を保つ爲に、接續助詞と認めざるを得ないもののみを接續助詞と認め他はすべて主格助詞と見做す事にしようと思ふ。

 右の如き基準に據って源氏物語五十四帖に於ける全「が」助詞を檢討するに、結論を先づ一言に盡せば、接續助詞と認めなければならぬ例は未だ存在しないといひ得べきである。然し源氏物語の主格「が」助詞は名詞句を承けるものが過牛數を占め、第一類極めて多く、第二類之に次ぎ、第三類も或る程度用ゐられてゐて、「が」の上下の結合が弛緩してゐる事は認め得る上に、特に第二類に屬すべきものの中に種々なる新しい例を見出す事が出來る。
 元來主格形式第二類は前節で詳述した通り、

女のまだ世經ずと覺えたるが人の御許に忽びて (伊勢物語)

の如く「が」助詞が形状性名詞句を承け、その名詞句の用言は意味上名詞句の主體たる體言を寧ろ裝定する關係に在るものであるが、形状性名詞句がかやうな特殊の構造を形作るのは全く「の」助詞の特性に據るものである。「の」
                         ニツツジノ ニホハムトキ サクラバナサキナムトキ
助詞には古くより「八束穗能伊加志穗」(所年祭鯢詞).「丹管士乃將薫時能櫻花將開時」(萬葉六)の如く同種の語句を結び付ける同格的な用法が存在し、
女のまだ世經ずと覺えたる
も畢竟その一つの現れと見る事が出來る。即ち「女であつて同時にまだ世經ずと覺えたる者」といふ意味から「まだ世經ずと覺えたる女」といふ意味に連るものと考へられるのである。
 かかる同格的な用法は「の」助詞以外の助詞には無い所であるから、形状性名詞句は理論上「の」助詞に據らなければ構成され得ない筈である。實例に徴しても形状性名詞句の大部分は必ず「の」助詞を有するのであるが、源氏物語に於ては次の如く「が」の承ける形状性名詞句が「の」助詞に依らずに構咸される例が相當に見られるのである。
 先づ第一は助詞を伴はずに形状性名詞句を構成するもの。
  母君の御阻父○中務の宮と聞えける加、領じ給ひける所(松風)
  髪○いときよらにて長かりけるが、分け取りたるやうにおち細りて (眞木桂)
  右のおほい殿○左にておはしけるが、辭し給へる所なりけり (宿木)
  某が妹○故衞門督の北の方にて侍りしが、尼になりて侍るなん (夢浮橋)
   (類例、澪標・槿・手習)
之等は「○」印の所に「の」助詞が存すれば普通の形状性名詞句である。
 第二は係助詞に依つて形状性名詞句を構成するもの。
雪は所々きえ殘りたるが、いと白き庭の (若菜上)
すめの尼君は上逹部の北の方にて有りけるが、其人亡くなり給ひて後、むすめ唯だ一人をいみじくかしづきて (手習)
御調度どももいと古代に馴れたるが、昔やうにて麗しきを (蓬生)
顏かたち靹そこはかと何處なん優れたるあな清らと見ゆる所も無嘉・唯だいと艶めかしう(匂宮)
(類例、夕顏・螢)
之等は係助詞の特性に依って普通の形状性名詞句とは意昧上趣を異にするやうに見えるが、構造上は「の」助詞の代りに係助詞を用ゐる蓮のみであるといへよう。
第三は體言の部分が全然現れずに形状性名詞句を構成するもの。

其の北の方なん某が妹に侍る。彼の按察隱れて後、世を背きて侍るが、此の頃煩ふ事侍るに由り斯く京にも退かでねば (若紫)
言はむ方なき盛りの御かたちなり。いたう聾やぎ給へりしが、少し成り合ふ程になり給ひにける御姿 (松風)
引出物祿どもなど二無し。そこら集ひ給へるが、我も劣らじともてなし給へる中にも (初昔)
小さき家設けにけり。三條わたりに戲ればみたるが、未だ作りさしたる所なればはかみ丶しきしつらひもせでなん有りける (東屋)(類例、葵・須磨.澪標.松風・薄雲・螢・宿木)

 さてかやうな例に於ては、形状性名詞句の目印ともいふべき「の」助詞が存在しない爲に、名詞句の用言が裝定の關係に在るといはんよりは述定に與つてゐるが如く感じられるのである。蓋し係助詞は常に述定の場合に用ゐられる助詞であり、助詞を伴はない形式と主語の現れない形式とは、國語に於て夫々主述關係を表示し又文を構成するに最も普通な文法形態だからである。隨つて右の諸例は「が」助詞の上の部分が形状性名詞句とは見えずに却つて完全に述定せられた一文であるが如く見え、吾々には宛かも「が」が接續助詞であるかのやうに感じられるのである。然しながら之等が當時如何に意識せられたかは問題であらう。今日の吾々は既に「が」の接續助詞としての用法を知つてゐるから動もすれば右の諸例を接續の側へ引付けようとする傾があるが、主格助詞としての「が」のみを知つて未だ接續助詞としての「が」を知らない人々は恐らく右の諸例を主格形式第二類の一變形と見做すであらうと思はれるのである。即ち源氏物語時代には右の如き場合「が」の承けてゐるものを形状性名詞句と考へたであらうと推測されるのである。然し同時に又「の」助詞に擦る普通の形状性名詞句よりは、述定された文に近いといふ感じはやはり俘つたに違ひないと思ふ。かくて平安時代初期より「が」助詞の上下が次第に結合の緊密度を失ひつつあつたのに加へて、更に「が」の上なる部分の獨立性が一層強まる結果となつたのである。
 而も源氏物語の「が」助詞に就て特筆すべき事は之だけに止まらない。主格形式をして最も端的に接續形式に近附かしめる原因は、寧ろ以下に述べる用法であると云ひ得るのである。鉚ちそれは「の」助詞の代りに「"〉カ」助詞自身によつて形状性名詞句が構成せられるといふ現象である。宿木の卷に下の如き例がある。
さて又常陸に成りて下だり侍りにけるが、この年頃苦にも聞え給はざりつるが、此春上りて彼の宮には尋ね參りたりけるとなん。
右の例には「が」助詞が二つ用ゐられてゐるが、後の「が」助詞は「此春上りて」以下の述部に對して主部を示すから主格助詞である。然らば先の「が」は何であらうか。意味上之も亦主格助詞と考へ得ない事はないが同時に又、
さて又常陸に成りて下だり侍りにける(者)の、この年頃音に亀聞え給はざりつる(者)
といふ形状性名詞句と同じ意味と解して、「が」助詞が「の」助詞の職能を代行してゐると見る事も出來るのである。更に、                                           ○
なま/\の上達部よりも、非參議の四位どもの世のおぼえ口惜しからずもとの根ざし賤しからぬが、安らかに身をもてなし振舞ひたる、いとかはらかなりや (帚木)
の例に於ては、或る種の「上逹部」と或る種の「非參議」とを比較して後者の方が「いとかはらかなりや」と結論してゐるものと解されるから、「安らかに身をなし振舞ひたる」も畢竟「非參議」の屬性を裝定してゐると考へなければならない。即ち、
非參議の四位どもの世の覺え口惜しからずもとの根ざし賤しからぬ(者)の安らかに身をもてなし振舞ひたる(者)
の如く二つの「の」助詞によつて二重の形状性名詞句が構成されて居るのと同樣であり、唯「の」助詞には用言を承ける能力が無い爲に後の「の」助詞を「が」助詞に置き換へたに過ぎぬと見る事が出來るのである。

 最後にかの有名な冐頭の一例、
いとやんごとなき際にはあらぬが勝れて時めき給ふ有りけり (桐壷)
の「が」助詞も要するに右と同種の用法と認められるのであつて、
いとやんごとなき際にはあらぬ(者)の勝れて時めき給ふ(者)
といふ形状性名詞句と同じものであり、「の」の代りに「が」が用ゐられてゐるのは用言を承ける必要からに外ならない。
 さて右の如き「が」助詞は「の」助詞と同樣の職能を以て形状性名詞句を構成するものであるが、「が」助詞と主格との關係が餘りに密接である爲に、どうしても「が」を見れば直ちに主述關係を聯想し、先づ述定を意識して裝定を意識する事を妨げるのである。然し「が」は右の場合「の」の同格的用法を代行してゐるもので主格助詞ではないのであるから、單に主語と述語とを結合する述定關係と見倣す事も亦不可能である。茲に於て此の矛盾を兩立させる爲に、同格的であつて而も述定に與る「が」助詞といふものが冥々の間に形咸せられる事となるのである。即ち、
いとやんごとなき際にはあらぬが勝れて時めき給ふ有りけり
に於て「勝れて時めき給ふ」が裝定的な性質を脱却して述定力を獲得しながら、而も一方では「いとやんごとなき際にはあらぬ」に對して單なる述語とはならずに互に對等の資格に立っと、茲に「いとやんごとなき際にはあらず(同時に又)勝れて時めき給ふ」といふ關係が成立し、「が」は獨立した文と文とを結合する接續助詞と見られるに至るのである。
 之は今日吾々が理論的に忖度した結果であるけれども「の」助詞及び「が」助詞の特性から考へるならば恐らく源氏物語時代の人々の意識する所も亦かやうであつたと信じられるのである。但し前述の如く當時はまだかかる「が」を完全に接續助詞とは考へずに主格形式第二類の一變形と考へたであらうが、尚右の如き原因が「が」を驅つて接續助詞化の方向へ拍車をかけた事は充分に想像し得べきである。
 以上を要するに、平安時代初期以來「が」の上下の結合力が弛緩の傾向にあつた處へ更に、一方では「が」の承ける形状性名詞句が係助詞其他を以て構成せられる事により「が」の上の部分が述定力有る獨立の文たる色彩を濃くし、又一方では「が」助詞自身を以て形状性名詞句が構成せられる事により「が」の下の部分が述定力有る獨立の文たる色彩を強め來つたのであり、かくて「が」助詞の上も下も共に獨立せる文と文とに成長しようとする勢は正に頂點に逹したといふべきである。主格「が」助詞より接續「が」助詞への發展は實に剩す所一歩であり、接續「が」助詞の發生に對する準備は茲に全く完了したと稱する事が出來るのである。
 (註) 「の」以外の助詞によつて形状性名詞句が構成せられるといふ點よりいへば、主格形式第三類も正にそれである。
櫻を近く掘り植ゑけるが枯れざまに見えければ(大和物語)
は即ち
櫻の近く掘り植ゑけるが枯れざまに見えければ
と同一であつて、「の」助詞の代りに「を」助詞を以て形状性名詞句が構成されてゐるのである。
 さすれば主格形式第二類より第三類への發展は、一方で一複文としての統一が崩されるのと、同時に他方では述定的色彩が濃くなつて主部の獨立性を張めるのと、この二重の意味で「が」助詞の上下は遊離の度が強まつてゐると考へる事が出來る。
 この點、源氏物語の諸例が單に主格形式第二類に述定的な色彩の加つたものたるに過ぎないのに比して、寧ろ第三類の方が一層の進展を示してゐるといはねばならない。主格形式第三類は上述の如く大和物語に既に見られるのに、源氏物語の諸例の如き用法は大和には未だ發見されないのであつて、即ち「が」助詞の發展が「が」の上下の遊離といふ方向に沿うてゐると云ひ得る爲には、大和物語の用法と源氏物語の用法とが時間的に矛盾するやうに考へられるのである。
 思ふに、第三類は客語を述定する形式であつて、客語と述語との關係よりも主語と述語との關係の方が同じ述定に於ても文としての獨立性は一層強力に感じられ、爲に大和物語の例よりも源氏物語の例の方が一層「が」の上なる部分の獨立性が著しいと云ひ得るのであらう。
 〔逍記〕 然るに春日政治博士の近著「輔款金光明最勝王經古點の國語學的研究」によれば、源氏物語の如き「が」の用法は既に同經の古點に見られるのであつて(同書研究篇一二二頁・四六頁。術本文篇に用例を見出す事が出來る)、點本語法と物語語法との異質性を考慮に入れねばならぬとしても、源氏の如き「が」の用法が少くも大和より以前に溯り得る事は殆んど確實である。果して然らば大和に用例の無いのが寧ろ偶然であつて、「が」助詞發展の過程は一層無理なく説明し得る事となるのである。


こちら へ続く

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最終更新:2016年04月22日 00:38