柴田宵曲『蕉門の人々』「惟然」

 多士済々《たしせいせい》たる蕉門の俳人のうち、世間に知られたという点からいえば、広瀬惟然《ひろせいぜん》の如きもその一人であろう。惟然の作品は元禄俳壇における一の異彩であるに相違ない。けれども彼はその作品によって知られるよりも、先ずその奇行によって知られた。飄々《ひようひよう》として風に御するが如き奇行にかけては、彼は慥《たしか》に蕉門第一の人である。ただその奇行が何人にも奇として映ずる性質のものであるだけに、作品を閑却して奇行だけ伝えるか、あるいは奇行を説くのに都合のいい作品のみを引合に出すような結果になりやすい。子規居士が乞食百句の中で「ある月夜路通惟然に語るらく」と詠《よ》み、鳴雪翁《めいせつおう》が井月《せいげつ》の句集に題して「涼しさや惟然の後に惟然あり」と詠んだのは、いずれも後年の放浪生活を主としたものであるが、彼がそこに到るまでの径路を知るには、もっと前に遡って彼の作品を点検する必要がある。
 今普通に行われている『惟然坊句集』は、曙庵秋挙《あけぼのあんしゆうきよ》の編に成るもので、初版の総句数九十八、再版の増補のうち芭蕉の句の混入したものを除いて二十、更にこれを「有朋堂《ゆうほうどう》文庫」に収める時、藤井紫影《ふじいしえい》博士が追補されたもの三十二を加えても百五十句に過ぎぬ。(但この追補の中には重複の句が一つあるし、秋挙の編んだ中にある「梅さくや赤土壁の小雪隠」なども、『梅桜《うめさくら》』にある桂山《けいざん》の句の誤入だとすれば、当然勘定から除かなければなるまい)しかし惟然の作品の諸俳書に散見するものは固よりこれにとどまらず、すべてを合算すれぽ「有朋堂文庫」所収の二倍以上に達するであろう。必ずしも材料に乏しいわけではない。
 惟然は最初の号を素牛《そぎゆう》といった。彼が芭蕉の門に入ったのは何時《いつ》頃か。
      関の住素牛何がし大垣の旅店を訪はれ侍りしに彼ふ
      ちしろみさかといひけん花は宗祗のむかしに匂ひて
    藤の実は俳諧にせん花の跡 芭蕉
とあるのが初対面であるとすると、元禄二年の『奥の細道』の帰りか、元禄四年の秋、美濃を経て名古屋に遊んだ時か、いずれかのうちであろう。しかし『猿蓑《さるみの》』には惟然の句は未だ見えず、元禄五年に至って、嵐蘭《らんらん》の『罌粟合《けしあわせ》』、支考《しこう》の『葛《くず》の松原《まつばら》』、車庸《しやよう》の『己《おの》が光《ひかり》』、句空《くくう》の『北の山」等にその句が見えるのだから、あるいは四年の方ではあるまいかと思う。但これは臆断で、慥《たしか》な推定ではない。惟然はこの芭蕉の句によって自ら『藤の実』なる集を編むに至ったが、当時のこれらの書には皆「素牛」の名で出ている。
 惟然の書いた「貧讃」を読むと、「今は十とせも先ならむ、芭蕉の翁の美濃行脚に、見せばやな茄子《なすび》をちぎる軒の畑、と招隠のこ丶ろを申遣したるに、その葉を笠に折らむ夕顔、とその文の回答ながら、それを絵にかきてたびけるが、今更草庵の記念となして、猶はた茄子夕顔に培《つちか》ひて、その貧楽にあそぶなりけり」ということがある。これだけでは書翰の応答のように解せられぬこともないが、『藤の実』には「芭蕉翁岐阜に行脚の頃したひ行侍て」という前書があって、「見せばやな」の句が出ているから、この時たずねて行ったのである。「藤の実は」の句を示したのと、茄子の絵を与えたのとは同じ時であるかどうか。芭蕉と惟然との交渉は慥に興味ある問題だけれども、遺憾ながらあまり資料とすべきものが見つからない。元禄五年にはじめてその句を見るという一事を以て、おぼつかない区割たして置こうと思う。
 素牛時代の初期における惟然の作品には
    山吹や水にひたせるゑまし麦  素牛(葛の松原)
      南都の行
    此水に米頬ばらんかきつばた  同  (己が光)
    年の夜や引むすびたる織守《さしまもり》  同
の如く『惟然坊句集』で|御馴染《おなじみ》のものもあり、
   蜻蛉や日は入ながら|鳰《にお》のうみ  素牛(北の山)
   |棹竹《さおだけ》の|雫《しずく》落けりけしの花 同 (罌粟合)
   |石菖《せきしよう》の朝露かろしほとゝぎす同(己が光)
   |初午《はつうま》や畠のむめのちり残り 同
   |水無月《みなづき》や朝起したる大書院  同
     車庸子の庭興
   横わたす|柄杓《ひしやく》の露や錦草 同
   一くゝり雙紙やしめる|木槿垣《むくげがき》  同
   |鹿子《かのこ》ゆふ音きこゆ也夜の雪同
   たてつけの日影ほそしや水仙花  同
の如く「有朋堂文庫」の追補に洩れたものもあるが、大体において極めて|著実《ちやくじつ》な発足を示している。「水にひたせるゑまし麦」は、山吹の句として永く価値の変らぬものであろうが、「蜻蛉や日は入ながら」の一句が最も|感誦《かんしよう》に値する。かつて琵琶湖に浮ぶ夕暮の船中で、偶然こういう景色を見たため、直に船中の句と解していたが、湖畔の句としても|差支《さしつかえ》ないように思う。琵琶湖のような大景に対して、無造作にタ暮の蜻蛉を点じ来ったのが、頗る自然で面白い。
 次いで元禄六年にも
  風寒き流れの音や|手水鉢《ちようずばち》 素牛(薦獅子集)
  |陽炎《かげろう》や|庇《ひさし》ふきたる杉の皮 同
  紫の花の乱やとりかぶと 同
  |洗菜《あらいな》に朝日の寒き|豕子《いのこ》かな 同
  起ふしにたばふ|紙帳《しちよう》も|破《やれ》ぬべし同(流川集)
その他の句があり、『|薦獅子集《こもじししゆう》』の肩書に「京」とあることなども、当時の居所を示す点で注意しなければならぬが、元禄七年に『藤の実』の|出《い》ずるに及んで、惟然の力量は完全に発揮された。『惟然坊句集』にある客観的好句なるものは、大部分がこの時代に成ったのではないかという気がする位である。
  張残す窓に鳴入るいとゞかな  素牛(藤の実)
  朝露のゐざり車や草の上 同
    湖上吟
  田の|肥《こえ》に藻や|刈寄《かりよせ》る磯の秋  同
  |物干《ものほし》にのびたつ梨の|片枝《かたえ》かな  素牛
  しがみ付岸の根笹の枯葉かな  同
   尋元政法師墓
  竹の葉やひらつく冬の夕日影  同
   万句興行のみぎりに
  初霜や小笹が下のえびかづら  同
  鵜の糞の白き|梢《こずえ》や冬の山 同
   詣因幡堂
  |撫房《なでぼう》の寒き姿や堂の月 同
  茶をすゝる|桶屋《おけや》の弟子の寒かな 同
  枯蘆や朝日に氷る|鮠《はえ》の顔 同
  |燕《つばくろ》や赤土道のはねあがり 同
  とりちらす|檜木《くれき》の中や|雉《きじ》の声  同
   詣聖廟
  |二月《きさらぎ》や松の苗売る松の下 同
    かるの子や首指出して|浮萍草《ひるもぐさ》  同
      嵯峨|鳳仭子《ほうじんし》の|亭《てい》を|訪《とい》し|比《ころ》川風涼しき橋板に|踞《きよ》して
    涼しさや海老のはね出す日の|陰《かげ》り 同
      遣悶
    |難鳴《とりなく》や柱|蹈《ふま》ゆる紙帳|越《ごし》 同
 「梅の花赤いは〳〵赤いはな」流の句でなければ惟然らしくないと思う人は、こういう句の多いのをむしろ意外とするかも知れぬ。けれども元禄の俳句はそう簡単に片附かぬところに特色がある。素牛時代にこの種の好句を示した惟然が、早く芭蕉の認むるところとなったのは怪しむに足らぬであろう。
 われわれはこの十余句を通覧して、如何にも生々たる自然の呼吸を感ずる。しがみついている岸の根笹の枯葉も、鵜の糞のために白くなっている冬山の木の梢も、枯蘆の下の氷にじっとしている鮠の顔も、皆これわれわれの眼前に味い得べき趣であって、その間に時代の距離も何もない。惟然の感じた通りを、直に身に感ずることが出来る。それがこの種の句の強味であるが、同時にこれだけ手際よく纏めた惟然の|伎倆《ぎりよう》にも注目しなければならぬ。
 深草の|元政上人《げんせいしようにん》は、予が|墳《はか》には竹三|竿《かん》を植えよと遺言して死んだ人である。竹三竿とは修辞上の|詞《ことば》であるのを、その辞句に拘泥して今に至るまで三本しか竹を残してないということが、往年『ホトトギス』の「随筆」に見えていたかと記憶する。惟然の|詣《まい》った時代にも無論三本だったのであろう。その竹の葉が夕日の光の中にひらひらと動く。風などのない場合に相違ない。冬の夕方のしずかな空気は、この一句に溢れている。「ひらつく」という俗語が、竹の葉の動きと、それにさしている夕日の色とを如実に現しているように思う。巧にして自然な句である。
 因幡堂の句は『惟然坊句集』には「さむき影なり」となっている。影を点じた方が複雑になるかも知れぬが、調子は「寒き姿や」の方が引緊っている。撫房というのは|撫仏《なでぼとけ》のことだそうである。
 「かるの子」というのは|軽鳧《かるがも》のことであろう。『大言海』に軽鳧、なつがもに同じと出ている。「有朋堂文庫」の註には「かりの子」か「かもの子」の誤だろうとあるが、単にカルとのみ|称《とな》える地方もあるようだから、このままで差支あるまい。|小川芋銭《おがわうせん》氏の画にでもありそうな小景である。
 これらの句は前に挙げた『己が光』その他のものに比して、別に傾向を異にするわけではない。ただ調子が緊密に赴くと共に、内容においても深味を加えており、仮に『猿蓑』集中に移したところで、さのみ|遜色《そんしよく》を感ぜぬほどの出来栄であると思う。『藤の実』は惟然最初の撰集であるだけに、大に力を用いたものであろう、自己の作品のみならず、全体にわたって佳句に富んでいる。しかして彼はこの集を最後に素牛の名を棄て、惟然の号を用いるに到ったのであった。
 素牛時代における惟然の句は、先ず以上説いたようなものである。これらの句は絶対に他人の窺うを許さぬ独造の天地とはいい難いにせよ、|如是《によぜ》の作品のみを以てしても、惟然は当時における有力な作家と称して差支ない。飄々たる惟然の風格を愛するの余り、この種の句における伎倆を閑却するのは、真に惟然を知る者ではあるまいと思う。
 子規居士は明治二十八年の須磨保養中、古人の集を点検してその好句を算えた結果を鳴雪翁に報告したことがあった。この居士の標準によると、好句百以上のもの蕪村、六十以上|白雄《しらお》、四十以上|几董《きとう》、三十以上|去来《きよらい》という順序であるが、惟然は嵐雪、|鬼貫《おにつら》、|凡兆《ぼんちよう》、|嵐外《らんがい》等と同じく、自二十まで二十四の中にあり、「意外にも見あげたる」者の中にも惟然を挙げている。恐らく居士もそれ以前は惟然を以て単なる風狂的作家とし、自己の新なる標準に照して採り得べき句の少いものと解していたのであろう。居士は惟然の如何なる句を好句の中に算えたか、その実例がわからぬのは遺憾であるが、『藤の実』所収の句はその大半を占めておりはせぬかと思われる。少くとも居士が意外に見上げたという|所以《ゆえん》のものは、惟然がよく自然の趣を得た点にありそうな気がするのである。

       二

 惟然に関する逸話はほぼ、『惟然坊句集』所収のものに|悉《つく》されているといって差支ない。『近世畸人伝』なども句集に先立ってそのうちの若干を伝えているが、いずれもやや時代を隔てて書かれたものだけに、事実の興味はあっても、年次の|徴《ちよう》すべきものは殆どない。庭前の梅花が時ならず鳥の|羽風《はかぜ》に散るのを見て、しきりに隠遁の志を起したというのは|何時《いつ》頃か、妻子を捨て|薙髪《ちはつ》して蕉門に入ったのは何時頃か、そういう点になると明瞭な経過がわからぬのは遺憾である。|正徳《しようとく》元年に歿したということは|慥《たしか》であったにしても、|享年《きようねん》が未詳というのであれば、逆算して『藤の実』時代の年齢を知ることも困難になって来る。
 『藤の実』の中には「素牛を宿して」という前書で「すゝみ出て瓜むく客の|国咄《くにばな》し」とある|智月《ちげつ》の句、「素牛にこととはれ侍折ふし我宿のことしけゝれは鄰寺に伴て」という前書で、「古寺をかりて|蚊遣《かやり》も夜半かな」とある|正秀《まさひで》の句などが見える。これらも惟然との交游の模様を知り得る点において面白いが、更に
      訪素牛市居 二句
    蚊遣火の鄰は暑しつるめさう  |史邦《ふみくに》
    涼しさや|竈《かまど》二つは有ながら |洒堂《しやどう》
      素牛か家に宿して
    菊の香や|御器《ごき》も|其儘《そのまま》宵の鍋 |支考《しこう》
等の句あるによって、素牛時代の彼がどこかに居を定めていたことを推察出来る。但この「市居」というのが『薦獅子集」にある「京」の家であるかどうか、そこまではわからない。素牛の名が『藤の実』以後に見えぬことは、前に記した通りであるが、何時どういう動機で惟然と改めたかは不明である。元禄七年秋、芭蕉最後の旅行に|随《したが》った時は無論惟然であり、芭蕉の書簡に出て来る名前も、多くは素牛でなく惟然になっている。
  昨日は渡紙沢山御恵辱存候処昨夜惟然一宿例之むだ書剰筆の先棒になし困入申候、今四五枚|申請度《もうしうけたく》候、此人に御こし|可被下《くださるべく》候
などという|杉風《さんぷう》宛の書簡は、年代不明の部に入っているけれども、素牛以後、最後の旅行以前であることは間違ない。こういうものを見ると、如何にも両者の様子の打解けていたことが窺われる。|尤《もつと》も親疎は必ずしも年月の|多寡《たか》によらぬ。近く子規居士の例を見ても、晩年の病牀に侍しただけで、十年の故旧よりも親しかった人はいくらもある。芭蕉と惟然とは俳句以外にも何か契合《けいごう》すべきものがあったのであろう。(惟然の号は普通「イネン」と呼ばれている。しかし実際は「イゼン」であったのかも知れない。惟然が鬼貫を|訪《おとの》うて「秋晴れたあら鬼貫の夕べやな」と|詠《よ》んだ時、「いぜんおじやつた時はまだ夏」と鬼貫が脇をつけた話は、相当|人口《じんこう》に|膾炙《かいしゃ》している。あれは以前ということにかけるため、特に洒落《しゃれ》ていったものかと思っていたが、句集の中にも「いせん」と仮名書にしたものが散見するようである)
 芭蕉最後の旅行に伊賀から随従したものは支考と惟然とであった。支考はこの間の消息を『|笈日記《おいにつき》』に伝えているが、惟然には何も書いたものがない。病中祈願として
    足がろに竹の林やみそさゞい 惟然
の句、歿前歿後にわたって
    |引張《ひつぱり》てふとんぞ寒き笑ひ声 惟然
    花鳥にせがまれ尽す冬木立 同
等の句が残っているだけである。一切をふり捨てて芭蕉のいわゆる「|此《この》一筋」に|縋《すが》ろうとし、芭蕉によって道を歩んだ彼は、|半途《はんと》にして師と別れなければならなかった。蕉門の|高足《こうそく》は|固《もと》より乏しくなかったにせよ、一度芭蕉において魂の契合を見た彼が、他人によってこれを補い得ぬのは当然である。偉大なる百世の師を得ることは、人生の至福であるに相違ないが、不幸にしてこれと|永訣《えいけつ》するに及んでは、何者を以てしても|償《つぐな》い得ぬ悲哀に陥らざるを得ぬ。この意味からいえば、孔子をして「天|予《われ》を|喪《はろぼ》す」と歎息せしめた|顔回《がんかい》は、師を失うの悲哀を味わずに済んだ点で、むしろ幸福だったといえるかも知れない。
 師の道は常にその高弟によって継承される。けれども高弟によって代表せられるものは、決して師の全部ではないから、そこに自ら領域の差を生じて来る。其角、嵐雪、去来、|丈艸《じようそう》、いずれも蕉門の逸材たるに恥じぬ人々ではあるが、その世界は所詮分割の形になって、芭蕉在世当時の如き盛観を呈するわけには行かなくなった。|大店《おおだな》の主人が亡くなった後、一番番頭では店のおさまりがつかぬというようなのは、世間に珍しくない話である。いわんや芭蕉の如き人物の歿後、一癖ある蕉門の人々が|動《やや》もすれば分散的傾向を帯びるのは怪しむに足らぬところであろう。
 惟然の如きも慥に芭蕉の死によって魂のよりどころを失った一人であった。『藤の実』時代の作品は一句一句完成されたものに富んでいるけれども、一面からいえばいわゆる格に入ったもので、惟然の天縦《てんしょう》を十分に発揮したものではないかも知れぬ。芭蕉歿後に出た『有磯海《ありそうみ》』『続猿蓑』等にある句も、大体においてその継続と冤るべきものである。
   馬の尾に|陽炎《かげろう》ちるや昼はたご  惟然
   |無花果《いちじく》や広葉にむかふ|夕涼《ゆうすずみ》  惟然
   粘ごはな|帷子《かたびら》かぶるひるねかな 同
   |時鳥《ほととぎす》二ツの橋を淀の景 同
   磯ぎはをやまもゝ舟の|日和《ひより》かな 同
   肌寒き始にあかし|蕎麦《そば》のくき  同
    悼少年
   かなしさや|麻木《おがら》の|箸《はし》もおとなゝみ  同
   別る丶や柿喰ひながら坂の上  同
   |更行《ふけゆく》や|水田《みずた》の上のあまの河  同
   |待宵《まつよい》や流浪のうへの秋の雲 同
   銭湯の朝かげきよき|師走《しわす》かな  同
   こがらしや刈田の|畔《あぜ》の|鉄気水《かなけみず》  同
   冬川や木の葉は黒き岩の|間《あい》  同
   水仙の花のみだれや藪やしき  同
「粘ごはな」の句、「別るゝや」の句、「待宵」の句などには、多少惟然その人の様子を想わしむるものがある。「粘」の字は「ノリ」と読むのであろう。
    しる人になりてわかるゝかゞしかな  惟然
 元禄七年の『|其便《そのたより》』には「近付に」とあり、『惟然坊句集」にも「近付」となっている。芭蕉に随従して奈良から大坂へ出る途中の作らしい。田の中に立っている案山子と御馴染になって、やがてまたこれに別れて行くというところに、この人らしい旅情が窺われる。とぼとぼ歩く昔の旅行でなければ味い得ぬ趣である。
    ひだるさに馴て|能《よく》寝る霜夜かな 惟然
 これは旅中の吟であるかどうかわからぬが、惟然にあらずんば道破し得ぬ世界であろう。
    |煤掃《すすはき》や|折敷《おしき》一枚|蹈《ふみ》くだく 惟然
などという句になると、軽快な調子といい、多少の滑穩味を帯びている点といい、よほど惟然らしいものになっている。が、それよりも惟然の面目を発揮したものは、『有磯海』にある|左《の》の一句であろうと思う。
      奈良の|万僧供養《まんぞうくよう》に詣で片ほとりに一夜あかしけるに夜明て主につかはすべき料足もなければ枕もとのから紙に名処とともに書捨のがれ出侍りける
    短夜や木賃もなさでこそはしり 惟然
 宿賃の|持合《もちあわせ》もなかったから、|枕許《まくらもと》の|唐紙《からかみ》に住所姓名と共にこの一句を|認《したた》めて逃出した、というのである。これを|来山《らいざん》の
      しろ〳〵と見ればよその天井なり
    みじか夜や高い寝賃を出した事  来山
と対照すれば、両者の世界が如何にかけ離れているかわかるであろう。「こそはしり」などという俗語も、極めて惟然らしいものである。
 元禄十二年の『けふの昔』に次のようなことが書いてある。
  李白が法外の風流を得て道にちかしと宋儒の評せられしは天機を動かさゞればなり、惟然が諸州を跨て句をわるくせよ〳〵、求めてよきはよからず、内すゞしくば外もあつからじといふは生得の無為をたのしみて此為に塵埃をひかじとならむ。
      南部の雪に逢ひて
    木もわらん宿かせ雪の静さよ
      二本松にて
    |先《まず》米の多い処で花の春
      松しまにて
    松しまや月あれ星も鳥も飛
      深川の千句に
    おもふさまあそぶに梅は|散《ちら》ばちれ
  など一句として|斧鑿《ふさく》にわたりたりとは見えず、地獄天堂は学ぶ人の心なるべし。
 これは編者たる|朱拙《しゅせつ》の筆に成るものに相違ない。ここに挙げた数句は|悉《ことごと》くいわゆる惟然調で
あって、慥に|法度《はつと》の外に出ている。「句をわるくせよ〳〵」というのは無技巧論のようであるが、「求めてよきはよからず、内すゞしくば外もあつからじ」とあるのを見れば、単に技巧を排したのではない、技巧よりも自然を重んじたのである。巧を求める間はなお斧鑿の|痕《あと》を免れぬ、自然に巧なるに及んではじめて全きを得る、というのがその眼目であろう。由来無技巧論は立派な手腕の所有者によって|唱《とな》えられる。惟然が俳句においてすぐれた伎倆を具えていたことは、これまでに引用した句が何よりも|明《あきらか》に語っている。|妄《みだり》にこれを振廻す者が邪道に陥るのである。「地獄天堂は学ぶ人の心なるべし」とは朱拙がこの点を|警《いまし》めたものと思われる。
 朱拙の批評は惟然本来の句風に比し、「木もわらん」以下の句を法度の外に遊ぶものとしたので、この見解は当を得ている。「生得の無為をたのしみて此為に塵埃をひかじとならむ」というのも惟然の意を|忖度《そんたく》したのであるが、|知己《ちき》の言たるを失わぬ。

       三

 惟然は党を立てて人と争い、論を以て他に見ゆる風の人ではない。けれどもその|天縦《てんしよう》の材は、同門の士とも合わぬ点があったらしく、|許六《きよりく》の如きは口を極めてこれを|罵《ののし》っている。その「贈2落柿舎去来1書」において、蕉翁歿後の俳諧を慨歎した末、特に惟然一人の名を挙げて攻撃を加えたのは、|明《あきらか》に両者の肌の合わぬことを語るものであろう。
  惟然坊といふもの、一派の俳諧を|弘《ひろむ》るには益ありといへども、却て衆盲を引の罪のがれがたからん。あだ口をのみ|噺《はな》し出して、一生真の俳諧をいふもの一句もなし。蕉門の内に入て、世上の人を迷はす大賊なり。故に近年もつての外、集をちりばめ、世上に|辱《はじ》を|晒《さら》すも、もつぱらこの惟然坊が罪也。口すぎ世わたりの便りとせば、それは是非なし。惟然にかぎらず、浄瑠璃の情より俳諧を作り、金山談合の席に名月の句をあんずるやからも、稀にありといへども、これは大かた同門他門ともに本性を見とゞけ、例の昼狐はやし侍れば、罪もすくなからん。
俳諧における論議がとかく漫罵に流れるのは、珍しいことでもないが、芭蕉歿後僅々数年にして、しかも同門より出づる評語としては、甚しきに過ぎたる|憾《うらみ》がある。篤実なる去来がこれに答えて「雅兄惟然坊の評、符節を合したるが如し」といいながら異見を開陳したのは、むしろ当然であるとしなければならぬ。
 去来の答弁はかなり長きにわたっているから、全文を引用するに|堪《た》えぬが、|劈頭《へきとう》先ず「一生真の俳諧一句もなしといはんは、過たりとせんか。また大賊とは云ひがたからんか」といって、許六の説の感情に|奔《はし》り過ぎたのを|咎《とが》めている。去来の説に従えば、惟然は蕉門に入ること久しくして、芭蕉に|昵近《じつきん》する機会が乏しかったのを、芭蕉最後の旅行に随遊した際、芭蕉は惟然の「性素にして、ふかく風雅に心ざし、能く貧賤にたへたる事をあはれみ」俳諧に導くことが切だったというのである。惟然の俳諧はこの間に長足の進歩を遂げたが、同時に芭蕉の感覚と、俳談とによって多少の迷を生じた。惟然を迷える者とはいい得るが、自ら欺き人をたぶらかす者ではない、というのが去来の見解である。故に去来は撰集に関する許六の攻撃も誤解であるとし、事実を挙げて惟然のために弁じている。「口すぎ世渡りのたよりとせば、それは是非なし」という罵評に対し、「彼坊における、定てこの事なけん」といったのは、惟然の美点を認むるに|吝《やぶさか》ならざるものがあったのだろうと思われる。
 けれども|倨傲《きよごう》なる許六は直にこれに承服しなかった。「再呈2落柿舎1書」の中に、次のような一節がある。
  二十四章惟然坊が評、猶以てさたなし。先生の論神の如し、一生真の俳諧なしとは、予過論か、碌々たる石の中には、金に似たるものもあらん。
    世の中を這入かねてや蛇の穴
  は少し哀なる所もあり、これ坊素牛といへる時、藤の実といふ集を編り。その時はさしたる事も無きやうに思ひ侍れども、この頃余りに集どもの拙きを見て、この集取り出し見るに、中々頃日の集に似たる物にもあらず、これは師在世したまふ光也。この藤の実|専《もつぱら》洒堂が後見と見えて、奥の俳諧は|珍碩《ちんせき》なり、|丈艸《じようそう》の手伝ひも見えたり、|正秀《まさひで》が序文は丈艸の口なり、師の手伝とは見えず。
 『藤の実』が出た時にはさほどにも思わなかったが、近年世間の俳書があまりに低下しているので、それに比べれば見上げたものだという説である。『藤の実』の価値は認めても、|鉄中《てつちゆう》の|錚々《そうそう》、|庸中《ようちゆう》の|佼々《こうこう》としか考えない。しかのみならず芭蕉在世の光とし、洒堂、丈艸ら手伝の|賜《たまもの》とし、どこまでも惟然の力を|減殺《げんさい》しようとかかっているのは、感情に偏する|譏《そしり》を免れぬ。『藤の実』は元禄俳書の中でも出色のものである。許六、|李由《りゆう》の撰に成る『|韻塞《いんふたぎ》』の|下風《かふう》に立つものではない。惟然の句も『藤の実』集中にすぐれた作品の少からぬこと、已に述べた通りであるにかかわらず、同書中の作は一も挙げることなく、僅に「蛇の穴」の一句を示して「碌々たる石の中には、金に似たるものもあらん」などと|瀟《うそぶ》いているのは、公正なる批評とはいい得ぬであろう。この「蛇の穴」|及《および》「磯際の波に鳴入いとゞかな」「|晩方《ばんがた》の声や|砕《くだけ》るみそさゞい」等の諸句は、許六自身『韻塞』に採録したものである。これらの句が『藤の実』所収の句よりまさっているか否かは|姑《しばら》く|措《お》く。「一生真の俳諧なし」ということを頑守すれぽ、自らその句を採用した|所以《ゆえん》を弁じなければなるまい。すなわち前言を指して「予過論か」といい、自家撰集中より特にこの一句を挙げたものではないかと思われる。
 惟然に対する許六の非難は必ずしも以上を以て尽きず、惟然を引合に出すごとにこれを攻撃したというよりも、むしろ攻撃せんがために惟然の名を持出すかと思われる位である。|某《なにがし》の集に
    |閑《しずか》なる秋とや|鮹《たこ》も壺の中 惟然
を収めたことを難じて、「是師の句の下手なるもの也。予が集の時も、この句かきておくれり。大きにいやしみ我党は小便壺へかいやり捨るなり」といえるが如き、彼の筆は常に一種の毒気を含んでいる。何故にこれほど目の|敵《かたき》にしなければならなかったか。湖東の天刑子の眼孔もまた|僻《へき》せりといわなければならぬ。
 前に引いた去来の「答2許子問難1弁」を読むと、芭蕉が惟然に教えた中に「俳諧|吟呻《ぎんしん》のあひだの|楽《たのしみ》なり。これを紙にうつす時は|反故《ほご》に同じ」「当時の俳諧は、工夫を日ごろに積んで、句にのぞみてたゞ|気先《きさき》をもつて吐出すべし」「俳諧は無分別なるに高みあり」等の語があったと記されている。惟然はこれによって悟入すると共に、いささか迷を生じたというのが去来の説であるが、|這間《しやかん》の消息を伝うべき例句は別に挙げていない。もし無拘束な惟然調なるものがこの辺から顕著になったものとすれば、その可否は見る人によって異るであろう。朱拙が「生得の無為をたのしみて此為に塵埃をひかじとならむ」と評したのも、許六が徹頭徹尾罵倒したのも、時代からいえばほぼ同じ頃だからである。
 芭蕉歿後における惟然は、多くの歳月を漂浪の旅に費した。
      広しまにて
    やがて花になる浦山や海苔日和  惟然(初蝉)
      |周防《すおう》岩国山の麓にて
    |半帋《はんし》すく川上清しなく|雲雀《ひばり》 同
      長崎に入の吟
    朝ぎりに海山こづむ|家居《いえい》かな 同
   豊前小倉に舟つきて
  名月や|筵《むしろ》を|撫《なで》る磯のやど 同
   |象潟《きさかた》にて
  名月や青み過たるうすみいろ  同  (菊の香)
   |湯殿山《ゆどのやま》にて
  日のにほひいたゞく|龝《あき》の寒さかな 同
   越中にて
  ゆり出すみどりの波や麻の風  同
   周防路を過るとて
  風呂敷に落よつゝまん鳴雲雀  同  (鳥の道)
   西国船か丶りの|比《ころ》
  あすのひのひより誉てや宵の月 同
   |礪波山《となみやま》も程なく過て猶山そひ|井波《いなみ》の麓にしるべ有まゝたつね入て
  真綿むく匂ひや里のはひり口  同
 いずれも芭蕉歿後数年を出でざる間の句である。前書の地名がこれを語っている通り、足跡の広きにわたる点においては固より芭蕉以上であろう。けれどもこれらの句は惟然としてその最高峯を示すものではない。『藤の実』以降の佳句に|如《し》かぬのみならず
   どんみりと桜に|午時《ひる》の日影かな  惟然
   曇る日や|水雞《くいな》ちらりと麦の中  同
の如き、比較的平凡な句に比べても、なお物足らぬところがある。傾向として軌道を|外《はず》れているというわけでなしに、どこか一点釘の|緩《ゆる》んでいるような感じである。|但《ただし》芭蕉生前の諸作と後の惟然調との間に、こういう中間的な時代のあることは、一顧を要するかと思う。
 惟然調を以て目せらるる句は、前に朱拙が『けふの昔』に引いたような種類のものであるが、なお少しく『惟然坊句集』によって実例を挙げる必要がある。
   梅の花赤いは〳〵あかいはな 惟然
   我儘になるほど花の句をさらり  同
   若葉吹く風さら〳〵と鳴りながら同
     故郷の空ながめやりて
   あれ夏の雲又雲のかさなれば 同
    あそびやれよ遊ぼぞ雪の|徳者達《たつしやたち》 同
    水さつと鳥よふは〳〵ふうはふは  同
    水鳥やむかうの岸へつうい〳〵  同
      芋鮹汁は宗因の洒落 奈良茶漬は芭蕉の清貧
    |冬籠《ふゆごもり》人にもの言ふことなかれ 同
 この種の句は『藤の実』時代の句が誰からも推奨されるのと異り、|毀誉相半《きよあいなかば》するという結果になりやすい。その代り惟然らしいという点からいえば、頗る惟然らしいもので、容易に他人の|廡下《ぶか》に立たぬだけの特色を|具《そな》えている。俳諧は吟呻の間の楽で「紙にうつす時は反故に同じ」という言葉はこういう句の上に適切であるかも知れない。しかし惟然自身としては「工夫を日ごろに積んで、句にのぞみて、たゞ気先をもつて吐出」したので、少くとも「無分別なるに高みあり」位の自負は持っていたであろう。この種の句が口を衝て出《い》ずるに及んで・、「句をわるくせよ〳〵、求めてよきはよからず、内すゞしくば外もあつからじ」というような説法をするに至るのは想像に|難《かた》くない。朱拙はそこが気に入ったらしいが、去来のような人から見ると、少し薬が利き過ぎた感がないともいえぬ。「水さつと」の句の|外《ほか》、これらの句の出来た時代はよくわからぬけれども、もし「答2許子問難1弁」時代に当るものとすれば、去来の懸念も一応|尤《もつとも》なわけである。
 但ここに列挙した中にも自らいろいろな種類がある。「若葉吹く」の句、「水さつと」の句、「水鳥や」の句などは、いい廻しが惟然的に自由なだけで、十分客観的な要素を持っている。「若葉」の句は『類題発句集』などには「若葉吹くさら〳〵〳〵と雨ながら」となっており、雨が添えば更に変化を生ずるわけであるが、いずれにせよ|爽《さわやか》な若葉の風を|耳許《みみもと》に聞く|思《おもい》がある。水鳥の二句にしても、畳みかけた俗語の使用によって、軽快な感じを現しているので、それがために動的描写の効果を収め得たのであるが、「あれ夏の」の句になると、そうは行かぬ。「雲又雲のかさなれば」の一語は、重畳たる夏雲の様を目に浮ばせぬではないけれども、故郷の空を望むという作者の主観が|勝《まさ》っているために、|渾然《こんぜん》として十七字に|纏《まと》まりきらぬ|憾《うらみ》があるかと思う。
 「梅の花」の句にしてもそうである。作者の興味は梅花の紅に集中されており、「赤いは〳〵」を繰返すあたり、無分別の|尤《ゆう》なるものではあるが、俳句としては主観に傾き過ぎて、その梅の紅を読者の眼前に|髣髴《ほうふつ》することが出来ない。|田安宗武《たやすむねたけ》の「ひむがしの山の紅葉は夕日にはいよ〳〵赤くいつくしきかも」という歌は、同じく単純なものであっても、山を現し、夕日を現し、紅葉と|相侯《あいま》って一幅の画図をなしている。「赤いは〳〵あかいはな」は俳句として珍たるを失わぬけれども、真に成功したとはいい難いであろう。
 「あそびやれよ」の句は、句法の変化において「木もわらん宿かせ雪の静さよ」の句に似ている。ただ「木もわらん」の句が句法に伴っで内容も変化に富んでいるに反し、「あそびやれよ遊ぼぞ」の繰返しには、それほどの妙味が認められぬ。『惟然坊句集」にはこの二句が並記してあるけれども、同じ場合の句ではなさそうである。

       四

 芥川龍之介氏は『続芭蕉雑記』の中で、惟然を評して「彼の風狂は芝居に見るように|洒脱《しやだつ》とか趣味とかいうものではない。彼には彼の家族は勿論、彼の命をも賭した風狂である」といい、更に附加えて「もし彼の風狂を『とり乱している』と言う批評家でもあれば、僕はこの批評家に敬意を表することを|吝《おし》まないであろう」ともいった。|桎梏《しつこく》を厭い、山野を恋うるの情は、何人といえども多少は持合せている。ただこれを実行に移すに及んで、惟然の如き勇気を持合せぬため、大概の人は首途に|逡巡《しゆんじゆん》するのである。この意味から見れば、惟然は蕉門中最も芭蕉に近い一人といい得るであろう。『|渡鳥集《わたりどりしゆう》』が集中の作者を国別にして挙げた中に、一処不住としたのは芭蕉、丈艸、支考、惟然、|雲鈴《うんれい》の五人である。同じく一処不住であっても、支考と惟然との間には大なる|径庭《けいてい》を認めなければなるまい。
 惟然は風狂のために家を捨て、妻子を棄てた。彼が芭蕉を|喪《うしな》って後、その遺句をつらねた|風羅念仏《ふうらねんぶつ》なるものを作って、「心の趣《おもむ》く所へはしりありく」うち、名古屋の町中で成人した自分の娘に遭遇した。この時
    両袖にたゞ何となく|時雨《しぐれ》かな  惟然
の句をいい捨てて|逃《のが》れ去った事、娘が京都まで慕って来たと聞いて、自分の旅姿を画いた上に、
    おもたさの雪はらへどもはらへども 惟然
と題したものを人に托したまま、直に越路をさして走り去った事などは、惟然の生涯における最も有名な逸話で、同時に彼の風狂の如何なるものかを語る有力な資料になっている。その娘も遂に|薙髪《ちはつ》して惟然の郷里に草庵を結ぶと、惟然も越路から帰って暫く起居を共にした。この辺は多少|西行《さいぎようお》の|俤《もかげ》があるが、調度が七つしかないというので、その庵に|弁慶庵《べんけいあん》と命ずるあたり、西行よりも洒脱な、平和なところがある。しかし折角の弁慶庵の生活も一年とは続かず、「又風雲の心おこりて風羅念仏を歌ひ浮れて走り出」てしまったのは、固より惟然の惟然たる所以で、彼は一切を捨てて風狂に身を|委《ゆだ》ねたのである。|古《いにし》え孔子の大聖を以てすら「七|十而《ニシテテ》従2|心所《ノニ》1v|欲《スル》不v|踰《こエ》v|矩《のりヲ》」といった。惟然のような|天縦《てんしよう》の材が、心の赴くところに任せた|迹《あと》を見て、常軌を逸したことを|咎《とが》めるのは、そもそも咎める方が無理であろう。
 われわれは惟然の行蔵《こうぞう》を以て飽くまでも天賦《てんぷ》の性によるものとし、こういう人物をも自分の翼《つばさ》が下に置いて自由に〓翔《こうしょう》せしめた芭蕉の包容力に敬意を表せざるを得ない。芭蕉さえ健在であったならば、惟然も風羅念仏を歌って浮れ歩く必要もなかったろうが、また一方から考えれば一たび芭蕉に|遭《あ》い得たからこそ、風羅念仏を歌ってでも残生を全うしたのであろう。幸不幸は比較の問題である。芭蕉に別れた惟然の悲愁は同情に堪えぬけれども、芭蕉に遭い得なかった人、たとい遭い得ても彼の如く魂の契合を見出し得なかった人に比べれば、彼は遥に幸福であったといわなければならぬ。
      翁身まかり給ひてふたゝび伊賀におもむく道中
    痩顔のうつりて寒しむらの橋  惟然
      深川の旧庵に入て
    こゝらにはまだ〳〵梅の|残《のこれ》ども 同
      む月廿日あまりふかゝはの旧庵に入てこゝかしこなつかしき事のみなれば
    鶯のなけば今朝尚おきられず  同
     芭蕉翁三回忌
   庵に寝るなみだなぞへそ|浦鵆《うらちどり》 惟然
     芭蕉翁七回忌追善
   空よそらさればぞ風の只寒み 同
     芭蕉忌
   |摺小木《すりこぎ》も飛て廻るか散木葉  同
 こういう芭蕉歿後の作に、しみじみとした追慕の情を感ずるものは、勿論われわれだけではあるまいと思う。けれども静にその作品の迹をたずねると、芭蕉歿後の惟然は必ずしもいい道ばかり辿っているわけではない。許六が漫罵を|逞《たくま》しゅうした『青根が峯』時代よりもむしろ後において、惟然の作品は「過ぎたるはなお及ばざるが如し」の感を与えるものが多くなっている。
   きり〴〵すさあとらまへたはあとんだ 惟然(きれ〳〵)
   何とせう名月なれどなぐれたは  同
   暖さ水仙があ丶|莟《つぼ》んだぞ 同
   おしめたゞはや浅瓜かこれは〳〵 同(三河小町)
  よい|節供《せつく》でござるどなたも菊のはな  同
  新麦かさらばこぼれをほつ〳〵と 同
  何でやはひとりわらひは涼しいか  同
  ふんきつて尚悪うなくちる梅か 同
  |朧《おぼろ》でも月に何にもあらばこそ 同  (はつたより)
  おらもはや霞む知る人もゝすかち 同
    三栄軒の三字は二百才にたらざる寿老の手跡にこそ、窓前松あり菊ありながら再久世のおの〳〵に対面すといふことば書ありて
  先あきよ月をたがひの無事ながら 同(花の雲)
   致景は作の内久世といふながれにこそ
  奪合ふものいちごから|水雞《くいな》から 同
   人丸の社頭を拝す
  やんはりと海を真向の桜の芽  同
   わらぢ解里は鴨方となん、その家あたらしう三つば四つ葉になど
  |覚《おぼえ》ふぞ十七日の夏の月  惟然(二葉集)
     兀峰亭にて
  涼しいか草木諸鳥諸虫ども 同
     道は水のながるゝがごとくものとあらそはざれば、おのづから麦もあからむ時あれはなり。只潜竜をもちゆる事なかれと、浪々士禿峰のもとにおくる
  おのづからおのづからこそ雲の峯 同
  この雪に何がなとかく座禅かよ 同
     兵庫に入吟
  つげてくるゝ最とまれとや|雉子《きじ》の声 同(当座払)
  新麦で先しつとりと|誰《た》が命 同
  |鮠《はえ》ならば松茸ならば|嘸《さぞ》や〳〵  同
 『きれ〳〵』は元禄十四年、『三河小町』『はつたより』『花の雲』『|二葉集《じようしゆう》』は共に十五年、『|当座払《とうざはらい》』は十六年の刊行である。これらの句に著しいものは第一に俗語の駆使であるが、これは伊丹派にも同様の傾向があり、必ずしも惟然の|擅場《せんじよう》と見るわけには行かない。ただこれを前に引いた「若葉吹く風さら〳〵と鳴りながら」「水さつと鳥よふは〳〵ふうはふは」「水鳥やむかうの岸へつうい〳〵」等の諸句に比べると.同じ俗語であっても効果に大分の相違がある。少くとも『三河小町』以下の諸書に散見する句は、この若葉の句|乃至《ないし》水鳥の句ほど、自然の趣を感ずることが出来ない。いわば惟然のひとり|言《ごと》であって、この種のひとり言は|動《やや》もすれば「ひとりよがり」に堕しやすいのである。
 惟然が芭蕉から教えられた「俳諧無分別」の語も、この辺に至るといささか横道に入り過ぎた嫌がある。「句をわるくせよ〳〵、求めてよきはよからず」という惟然の説も、|徒《いたずら》に巧を弄する者に対しては|慥《たしか》に|頂門《ちようもん》の|一針《いつしん》であるが、句をわるくした結果が如上の作品に到達するとすれば、これも一考せねばならぬ問題であろう。生活の上において|矩《のり》を|踰《こ》えた惟然は、作品の上においても同じ|轍《てつ》を|蹈《ふ》んだ。それも惟然の特異な性格と相俟って、面白いと感ぜられる間はよかったが、ただ口を衝いて出るままを|是《ぜ》とするに至っては、芥川氏のいわゆる「とり乱している」ものといわざるを得ない。
 歴史は繰返すという。中心人物の芭蕉を失った元禄俳壇は久しからずして乱離に陥った。俗語の濫用もまたその乱離の一現象である。ひとり惟然のみが好む所に偏したわけではない。『花の雲』『二葉集』『当座払』等の句集を執って|検《けみ》すれぽ、皆|滔々《とうとう》としてこれに赴く|風《ふう》のあったことを知り得るであろう。「|和《やわ》らかに|女松《めまつ》生ひそふつゝじかな」「菜畠や二葉の中の虫の声」「|藁《わら》つんで広く淋しき枯野かな」「よろ〳〵と|撫子《なでしこ》残る枯野かな」等の句に元禄期の最も雅馴なる傾向を示した|尚白《しようはく》の如き作家ですら、『花の雲』になると、「見えましたお|相撲《すもう》見えた見えました」というような、たわいもない句を作っている。他は推して知るべしである。
 俳諧が在来の|連歌《れんが》に対して新生面を開いたように、元禄に大成された蕉門の俳句なるものに新な展開を試みようとしたのが、惟然らの俗語駆使であったと解釈出来ぬこともない。また惟然は|慥《たしか》に俗語において或成功を収めている。但あまりにこれに偏するに及んで、無拘束の弊に堕したのである。俳句における口語の作品―今いう口語なるものは明治以後における言文一致的口語であって真の口気をうつしたものではない、その点からいえばむしろ俗語の天真なるに|如《し》かぬ―を論ずるならば、惟然は伊丹派の作家と共に|真先《まつさき》に挙げらるべきであろう。世人が|一茶《いつさ》の俗語にのみ|瞠目《どうもく》するのは、たまたまその限界の狭いことを証するに過ぎない。
 無分別を|尚《たつと》び、無拘束を喜んだ惟然は、一方において無季の句をも作っている。
    うれしやなけさはねくさが生て出た  惟然(二葉集)
    船よふねこちがはやいか須磨の岡 同
 これらは前のひとり|言《ごと》的作品と類を同じゅうするもので、詩として成功したとはいい難い。われわれが以上の句に興味を感ずるのは、俳諧の拘束を脱しようとする運動が、元禄の昔から用語において口語(俗語)に傾く事、季を無視してかかる事の二途を出ない点である。惟然には破調の句もないではないが、大体において十七字を破壞するほどの傾向は認められない。『|田舎句合《いなかのくあわせ》』『|常盤屋句合《ときわやのくあわせ》』から『|虚栗《みなしぐり》』を経て元禄の雅正に帰した当時からいえば、十七字破壊の如きはむしろ時代逆行の観があって、それほど新な意義を感じなかったのかも知れぬ。
 惟然の作品は比較的多くの俳書に散見するようである。これは彼の足跡が天下に|遍《あまね》きにもより、その句の一風変っているにもよるが、またその人柄の天真愛すべき点も|与《あずか》って力あるのではないかと思われる。|秋挙《しゆうきよ》は『惟然坊句集』を編むに当って必ずしも古俳書に|拠《よ》らず、旅寝の折々に見たり聞いたりしたものを主としたようだけれども、句の佳なるものはほぼこれを集め、俗語の濫用に陥った時代のものは|概《おおむ》ねこれを洩している。俳人としての惟然の面目は、殆ど『惟然坊句集』に尽くるといっても差支ない。以上惟然の句を説くに当り、爾余の作品に及んだのは、出来るだけ年代的に句作の跡を|討《たず》ねようとしたに外ならぬ。蛇足的言説を咎められなければ|幸《さいわい》である。

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最終更新:2017年01月14日 21:47