小高敏郎「戴恩記解題」岩波日本古典文学大系95

一、著者について
 戴恩記は、功成り名遂げた七十半ばの老文人が、生涯を顧みて師の恩を語ったものだから、文壇史、乃至は文化史的な資料であるとともに、おのずから歌人・歌学者としての自叙伝的要素が豊かである。従って、まずその肖像をえがき、ついで、彼を生み、育てた家庭と時代とを考えてみよう。

 文人貞徳 一般には貞門俳諧の始祖としての面だけで知られているが、実はヴォルテールにも比すべき博宏多力の百科全書家風の学者であり、またわが国文化史上稀に見る啓蒙家でもあった。中世末に生をうけ、近世初期のいわゆる啓蒙期に、八十三の長寿を終えたが、中世の文化遺産を継承し、かつこれを新時代にふさわしい平易通俗的なかたちに再編成し、新興庶民層に普及し、近世文化の淵叢となったのである。
 まずすぐれた啓蒙家らしく、その活動は文化のほとんど全領野に及び、またはなはだ精力的であった。俳諧を文学として確立したその適切多角的な業績は周知のところだが、そのほか、自らは歌人・歌学者を以て恃し、三千余首の詠草を残すとともに、多くの注釈書を作り、語源研究・標準語の研究・歌語辞典の編纂等の新分野を開拓し、実作者・指導者・学者・啓蒙家・教育者として活躍し、かつ連歌・狂歌から往来物・仮名草子の類にまで注目すべき作品を残している。また、文事のみでなく、思想や宗教の面でも、仏典に精通、精緻難解な天台理論をも理解し、神道も吉田神道の秘説を受けており、漢学にも明るく、林羅山に対し儒仏優劣の論を堂々と展開したり、あるいは新渡の切支丹教義にも興味を有し、夙にブカン・ハビアンと交渉があり、本邦最初の西欧文学の翻訳伊曾保の作者に擬せられるほどである。その趣味教養も多方面にわたり、有職・礼式作法を前関白九条稙通らに近侍して学び、能楽においては自ら舞い、鼓・太鼓の音曲類にも通じ、茶道は小堀遠州や安楽庵策伝と技を競い、書は若年にして太閤秀吉の佑筆を勤めるほどであった。
 さらに、その生き方も啓蒙家らしく、孤高独善、象牙の塔にこもる学者でないのは勿論、三十歳以降は敢て官に禄仕せず、安易に経済生活や身分の安定を計らなかった。加賀百万石から聘せられた嗣子昌三の官仕さえ禁じ、在野の文人として自ら恃し、常に庶民大衆に積極的に働ぎかけ、その意欲と情熱は生涯衰えをみせない。地下和歌・歌学の師として庶民層に和歌・歌学を流布普及させ、歌書を講じ、歌会を開き、かつ門下の詠作の添作指導をなし、さらに便利啓蒙的な古典の注釈から、歌語辞典の編纂まで行っている。また庶民的文芸たる俳諧の流行のきざしを見るや、会席の作法、式目の制定、本質論の確立により俳諧を文学たらしめるとともに、撰集の刊行から一座の指導、作品の添削を行い、門弟の直接指導にも倦まなかった。同じく滑稽卑俗で庶民的な文芸たる狂歌においても、「百首狂歌」以下のすぐれた作があり、門弟の指導やその作品の添削につとめ、門下には半井卜養・石田未得・池田正式を輩出し、さらにその門流の生白堂行風・豊蔵坊信海・鯛屋貞柳などにより、元禄期狂歌の盛行を将来せしめている。
 かく、庶民の経済的、社会的地位の向上による文学享受の時代的要求を満たした彼は、さらに進んで、庶民子弟教育の私塾を開いた。当時年少子弟を教育する機関に乏しく、公家なら家庭教育も出来るが、町人では書物も師もなかなか求め得ない。せいぜい寺に入って教育を受けるくらいだが、これとて限られた狭い門である。然るに折から庶民層の実力の増大は、漸く子弟教育への余裕と欲求を生じる。貞徳はかかる時代的要請をいち早く察して、自らの居宅に塾を開き、年少子弟を集めて、素読・手習・古典の通俗講義を行ったのである。これには、ばじめまだ四十歳の在野の文人として、生活の資を得る必要もあったのだろうが、自ら教科書として「貞徳文集」なる往来物を編み、その後生活が豊かに安定してもなお四十年この私塾教育をつづけ、八十の老人の最後の夢は、地方から来り学ぶ少年のため寄宿舎を建てることにあったという。庶民教育、啓蒙活動というものに対する情熱がなくてはこの持続はあり得まい。この私塾の創設維持を、単なる生活のためとする犬儒の見を私はとらない。
 そういえば、貞徳は八十に近くなってから、万葉集の研究を新たに始めたり、通俗便利な源氏物語の注釈書たる、永閑の「万水一露」を印刷し、広く一般の便に供しようと、老衰と高血圧や眼病の再発に苦しみながらも、自ら門下を集めてこの大部の書物の書写校合を行ってもいる。声名や金銭が目的ではなく、学問と啓蒙への情熱である。「人は夢の強さによって計られる」とはポール・ヴァレリーの言だが、貞徳には八十を超えてなお衰えぬ意欲、情熱の持続があったようである。はじめに貞徳をヴォルテールに比したのと同様、ここでも老来ますます画境の進展を示した雪舟や富岡鉄斎を引き合いに出せば、あるいは比較の不当をなじられるかもしれない。しかし、私は彼の最晩年の行実言動のうちに、衰残の老醜などを見出したことはない。また、貞徳は若いころから恭倹穏和で、包容力があったようだが、反面アクも強い人物だったようで、生前から既に悪声もかなりあったらしい。これもまたいかにも啓蒙家らしい。いや、アクが強く逞ましかったからこそ、豊かなエネルギーを必要とし、時に馬鹿らしくもあり不愉快でもある啓蒙という仕事を、十二分にしおおせたのであろう。だがとにかく、貞徳は老い易い吾が邦の文人のうちにあって、稀に見る逞ましい生活力、ヴァイタリティーを持ちつづけた文人でもあった。

 貞徳の家 貞徳は松永永種の次男として生まれた。永種は京都の下町、三条衣棚に住む連歌師であった。里村家とならび当時連歌界の二大勢力であった谷宗養の門下で、才能もあり連歌界への出発も早かったから、かなり認められてはいたらしい。もっとも生活は豊かではなかったようだが、松永家は武家の名門であり、父も文化界に広い知己群を有していたから、後年文人として立つ貞徳は、やはり恵まれた家庭に生まれたというべきである。
 松永家は、源頼朝の頃から駿河の入江の庄(静岡県清水市)の豪族で、地名より入江氏を称していた。のち足利直義に従い、やがて近畿の要衝摂津高槻の城主となり、南北朝以来この地方に勢力をふるっていた。だが、永種は天文十年四歳の時父が戦死し、翌々年母とも死別し、孤児となり祖母に養育された。この祖母は、一時天下の実権を握った松永弾正久秀の伯祖母にあたる。その縁で、永種は入江氏を改めて、松永氏を名乗ることとなった。また母は定家の流れを汲む名門、播州細川庄の下冷泉家藤原為孝の娘で、従って、永種は近世朱子学の祖藤原惺窩の父とは、従兄弟の間柄になる。かく永種の家は近畿の要衝に五代以上も豪族として続いていたから、親戚・知友に、松永久秀はじめ有力な武将も多かった筈で、孤弱の永種に庇護誘掖の手はしばしばさし伸べられたであろう。また、かく武将たちに縁故が深かったことは、武将をバトロンとする連歌師という職業にとって、何かと便宜が多かったことでもあろう。
 永種は七歳で東福寺に入ったが、早熟の才に神童の誉れを得、五山最高の碩学と称せられた仁如集堯・彭叔守仙らから愛された。かくて、永種は東福寺という好環境のうちで基礎的教養を十分身につけると共に、当時文化界の一大勢力をなしていた五山の禅僧たちと交誼を結ぶこととなった。のち秀吉のお伽衆として、秀吉文化圏の中心人物となった由己とも、この仁如和尚の同門として親交が生まれ、この由己の推輓で、若年の貞徳が秀吉の佑筆となり、秀吉文化圏のただ中に入ってゆくこととなったのである。
 永種はその後数年を経ぬうち、日蓮宗に改宗し、一時播州に下ったが、のちまた京都の日蓮宗の本圀寺に移った。さらに十九歳か二十歳のころ還俗し、宗養門下の連歌師として立ち、三条衣棚に住んだ。二十歳の弘治三年には、既に大覚寺義俊・三条西実枝・不断光院清誉らの一座する晴れの会に、宗養・紹巴・玄哉ら一流の連歌師と共に出席している。華々しい連歌界へのデビューである。この宗養門下では、細川幽斎と雅交を結んだという。貞徳が幼少より身分ちがいの大名で、かつ当代一の歌人・歌学者たる幽斎に学べたのも、連歌界のワンマン紹巴から実子のごとく愛され、引き立てられたのも、いずれも父の恩恵なのである。
 それに父も積極的に貞徳を教育したらしい。貞徳が五歳の時、兄日陽が入寺し、貞徳が嗣子ときまったので、文人として立つために、手習や素読など一般基礎教育のほか、和歌や歌学或いは連歌・故実・礼式・漢籍・仏典などの手ほどきもしたらしい。永種は能筆で鳴り、博学の秀才でもあったから、その庭訓も充実したものであったようだが、さらにそれぞれ専門分野一流の師に貞徳の入門を依頼した。前述の里村紹巴・細川幽斎のほか、連歌師としての知己群を利用し、前関白の九条稙通はじめ、三条西家・飛鳥井家など、公卿の文人・学者の門まで叩いた。貞徳が戴恩記にのべる師の数五十余人なる幸運は、かかる父の文化界における地位とその熱意によって、はじめて可能だったと思われる。かくして、貞徳の早熟の才、篤実勤勉な性格が順調に育てられ、稀に見る博学多力の文人となったのである。

 貞徳と時代 人は多かれ少かれ「時代の子」だが、近世初期は、いわゆる啓蒙期だから、すぐれた啓蒙家として前向きの姿勢で新時代を生きた貞徳の生涯は、いろいろな意味で、もっともよくこの時代相を語っている。加えて、文化の中心京都に生まれ育ち、幼少より文化界の大立物の教育をうけ、足利・織田・豊臣・徳川と政権がめざましく変転するなかで、文人としての一生を終えた彼の伝記は、時代の政治や文化界の状勢と極めて密接な関係を有しているから、そのままこの期の文化史であり、また当代のすぐれた資料でもあるのである。
 貞徳は、名ばかりとはいえまだ足利幕府が続いていた元亀二年(一五七一)に生まれた。だが、翌々年には信長は将軍を逐い、貞徳十二歳の天正十年本能寺の変で斃れるまで、全国統一の業を進めた。即ち、貞徳の幼年の日々は織田氏の時代に送られたのである。
 貞徳の青少年期も、ほぼ秀吉の時代と一致する。山崎の合戦、賤ヶ岳の戦に始まり、慶長三年の死で終る秀吉の覇権は、貞徳十二歳から二十八歳の間続いていたのである。この期に貞徳は、多くの良師の下で熱心に研学修業に励み、後年の博学宏識、百科全書家風の学問の基礎を築いたのだが、これを文化史的に見れば、中世以来の伝統的文化遺産を、中世の終りにおいて集大成したわけである。また、この期は修業時代であるとともに、既に秀吉の佑筆、幽斎門の地下歌人、紹巴門下の連歌師として、一人前の活躍をはじめている。しかして、文化界へのかかるデビューの仕方が、既に文人貞徳の一生の方向を決定づけたともいえる。武人たちが中心をなす秀吉文化圏、連歌師の世界は、保守的で伝統的な公家的性格に対し、自由かつ卑俗庶民的な地下的性格を有している。加えて、この頃の豊臣氏に対する親近感が、やがて次の徳川氏の時代に、在野の啓蒙家として立つ契機をはらんでいるといえよう。
 関ヶ原の戦が終り、やがて慶長八年徳川幕府が開かれた時、貞徳は三十三歳であった。また承応二年(一六五三)に八十三歳で没したときは、将軍も家康・秀忠・家光を経、四代家綱の代であった。この間半世紀、貞徳は徳川氏の治下で、全く地下の啓蒙家・学者として立ち、秘伝の伝統を破って古典の公開講義をしたり、庶民子弟のために私塾を興したりなど、地下文化界多方面にめざましい貢献をした。新興庶民の文化享受の欲求という時代的要請に応えて、前時代の文化遺産を新時代にふさわしい角度から、また平易通俗的なかたちで再編成し、普及、浸透せしめたのである。

二、戴恩記について

 本書は口述筆記により成ったためか、平易暢達ではあるが、冗漫不検束で、文章そのものとしてはさして魅力を有さない。だが、老後に回顧的に幼少年時代からの師を語ったものだけに、また自叙伝的な要素、具体的な文壇史、文化史的話柄が豊かである。ここに本書の興味と価値があるようである。
 まず、貞徳は当代一の地下歌人・歌学者であったから、中世末から近世初期にかけての二条派正統の歌学思想を知る上で好箇の歌学史の資料である。しかも、単に読みくせ・作法・故実などの瑣末トリビャルな、乃至は狭い専門的な教説ではなく、和歌に対する考え方、つまり歌学思想を語ったものとして、耳底記ほか当代のいかなる歌学書より本質論に富み、いわゆる思想的内容を有している。
 次に、貞徳は自ら師の数五十余人というごとく、幼少より極めて多数、かつそれぞれ各方面で一流の師に就いている。したがって九条植通・里村紹巴など当時の文人の像や動静を知る上のほとんど唯一、かつ充実した資料である。しかも、その叙述は、例えば紹巴の容貌の描写のごとく、この頃のものとしてはきわめて具体的かつ精彩にとむ。また、個々の文人の像ばかりでなく、歌壇の雰囲気なども知られる。歌壇・文壇を具体的に知るべぎ絶好の資料といえよう。
 さらに、本書は足利・織田・豊臣・徳川と覇権があわただしく交替する中世末から近世初期の時代に、京都という文化の中心地で、半世紀以上も文人活動をつづけた、博宏多力の百科全書家風の文人の自叙伝である。したがって、単に貞徳の伝記資料にとどまらず、自伝としての面白さ、さらには過渡変動の時代における地下文人・啓蒙家の生き方、時代的在り方、或いは政治と文学などの一般的な問題を考える上にも好箇の示唆をふくむといえよう。

 書名 本書撰述の意図が師恩の尊さを説くところにあったので、師恩をあがめ尊ぶの意で書名としたのであろう。もっとも、貞徳晩年の著は、未定稿で、書名のつけられていないものが多い。本書も、成立後多少後人の手が加えられて出版されたものだから、この書名ももと貞徳がつけておいたものか判然としない。一名を「歌林雑話集」という、などと解題類にあるが、これはのち元禄十五年に改題本を作った書肆の命名である。その他、「歌道戴恩記」「貞徳翁戴恩記しなどの書名もあるが、いずれも出版書肆による改題。
 本文は古くから上下二巻に分かれていたらしい。冊数も、一冊に合綴、或いは四冊に分冊された本もあるが、二冊本がはじめの形と思われる。貞徳の孫で漢学者の寸雲子昌易の漢文の序と跋が巻頭にあるが、これは貞徳没後、遺稿の出版を目論んだ書店から依頼されて作成したものであろう。
 なお、元禄十五年の改題本では、昌易の序、跋が省かれ、「城南の挙堂」なる者の和文の序が加えられている。これは改題名「歌林雑話集」にあわせるため、新たに執筆されたようである。

 成立年代 著作の時期は正確にはわからないが、寛永の末年から正保年間、つまり貞徳七十四歳の正保元年(一六四四)を中心に、前後二、三年の間と推定される。
 右の推定の根拠の第一は、本文上巻(五七頁)に「先年定家卿の四百年に、この法印も三十三回忌に天然とあたり給へる」として(実は貞徳の数え違い)、細川幽斎追善の歌会をひらいたとあるが、この歌会が寛永十七年八月に行われている。寛永十七年を先年という以上、本書が書かれたのは寛永十八年以降(寛永二十一年に正保と改元)ということになる。第二には、同じく本文上巻(四九頁)に、「今吉田におはします及斎老」とあるから、休斎が死没する以前に執筆されたはずである。休斎は細川幽斎の三男孝之の吉田退隠後の号で、正保四年七月七日に没している。以上によって大むね正保元年前後二年ほどの間に成立したと推定されるのである。この推定は、本文の他の記事と差障りがない。かえってこの推定に従うと都合がいい。しかし場所柄とて煩瑣な考証は遠慮しよう。

 成立事情 本書の成立したと推定される寛永末年から正保年間、貞徳は俳諧の秘伝書「天水抄」以下かなり多くの著書をまとめている。年も七十の半ばをすぎ、眼病の再発をはじめ、高血圧による体の不調もあり、死の訪れも近いと思って、身辺の整理をしていたのだろう。正保三年夏には、病気が重く死を覚悟し、細川幽斎より伝えた古今集の秘伝書を門弟に譲り渡したりしている。戴恩記もかかる心境、身辺事情のもとに作られたと思われる。かくして、老文人が、六十年以上の長い研究生活を顧みたものだから、師の尊さを説くといいながら、反面、また追憶的な自叙伝的要素を多くもっているのであろう。
 さて、貞徳は能筆でもあり、筆まめだったが、本書は佑筆か門弟に口述筆記させたものであろう。まず用語・語彙、連想に強くひかれる発想法、或いは文体一般、殊にその文脈は、直接話法がいつの間にか間接話法になってしまったりするところなど、いかにも口述筆記らしい。次に固有名詞、とりわけ人名の類に宛字が多いが、あまり宛字を用いない貞徳が、これら熟知していた人々の名を、自身でこう書くとは思われない。かつ世代の下った筆記者ではよく知らない筈だと考えられる人名に特に宛字が多いのは、やはり筆記者が耳から聞いたためではないかと思われる。また貞徳は歌人として、仮名遣は正しく、自筆本には仮名遣の間違いが殆んどないのに、本書では、「なほ」を「なお」と書くなど、貞徳が犯しそうもない誤りが多い。それに、引用の記事がしばしば不正確なことも、一々書物を参照しつつ書いたものでなく、口述の場合にありがちな記億にたよった発想、叙述の結果と考えられる。
 以上の内部徴証のほか、貞徳は寛永十一年以降、高血圧のため眼が見えなくなり、一時回復しても、またしばしば再発した。そういう理由もあって、晩年には佑筆を三人もかかえていたといい、また山本西武・北村季吟はじめ門人にも口述筆記などをさせたらしい。若いころ貞徳に学んだ清水宗川も、「後には盲となりて人に執筆させて物の抄などかゝせられたる」と言っている。それこれ考えあわせると、やはり本書は口述筆記と見なすべきであろう。

 諸本 刊本のみで、自筆本はもちろん、はっきりした異本系統というべぎ写本類は伝わらない。だが、広く読まれたらしく、刊本は延宝頃から幕末までしばしば版を重ね、目睹した本も十数種ある。もっとも、これらの諸本は出版書店が異っているものの、いずれも同一の版木を用いており、序跋・題簽・版心などに改修はあるが、異本と称すべき本文はないようである。これらの諸版を出版元により大きく六類にわけ、年代順にならべると次のごとくになる。
 第一類本 延宝年間刊行か。出版書店不明。まだ現存本を見ないが、天和元年の一、新増書籍目録」によれば、題簽は「戴恩記」。大本二冊。なお、右の書店の目録によれば値段は銀三匁五分だった。
 第二類本 刊記「天和二年戌正月吉旦 洛陽永田長兵衛」。巻頭に貞徳の孫寸雲子昌易の漢文の序と跋がある。「歌道戴恩記」の題簽のある野村本、一冊に合綴した拙蔵本など数種の本がある。本書の底本にはこの第二類本を用いた。
 第三類本 刊記「元禄十五壬午正月吉旦 永田調兵衛開板」。題簽は「歌林雑話集 花(鳥・風・月)」。四冊本。内題も「歌林雑話集 上(下)」とし、本文中「此戴恩記を」とあるところも「此雑話集を」と入木改修。また、昌易の序・跋を省き、「城南の挙堂」の和文の序一丁を巻頭に加えている。二類本の版木を版心まで改めた徹底的な改修本で、かなり長期にわたって刷られたらしく、後には、或いは挙堂の序を省き、昌易の跋(序はない)に代え、題簽を「歌道戴恩記【貞徳翁上(下)】」とした本など、何種もの本がある。
 第四類本 大坂秋田屋太右衛門版。刊年は正確にはわからないが、文化十四年から天保十年の刊。題簽「戴恩記一名歌林雑話集花(鳥・風・月)」。第三類本の版木を用いるが、挙堂の序を省き、再び第二類本の昌易の跋にかえている。「貞徳翁戴恩記」の題簽のある本もある。
 第五類本 江戸群玉堂の版。幕末のころ刊か。挙堂の序、昌易の跋が巻頭にある。本文は第四類本と同一。
 第六類本 須原屋茂兵衛以下江戸の書店八軒、京都の勝村治右衛門、大坂の秋田屋太右衛門、都合十軒の三都書店の相版。これも幕末の刊行であろう。題簽「戴恩記 一名歌林雑話集」。挙堂の序、本文、昌易の跋の順になっている。
 写本は内閣文庫・静嘉堂文庫ほか時折見かけるが、ほとんど刊本を書写したもの。中で注目される善本は、宮内庁書陵部本である。元禄十一年貞門の俳人中川貞佐が、同じく貞門の俳人乾貞恕─高田幸佐と伝受された貞徳自筆本を写したという。転写の間の誤りは比較的多い本だが、刊本と同じ祖本によっている上、刊本でははばかって削られた長嘯子の悪口の一部が知られるなど、参考になる点が多い。よって、これを本大系の底本の一に用いた。
 なお、諸本についての詳細は、拙稿「近世歌書版本の書誌的検討」(国語と国文学、昭和38.6)を参照されたい。

松永貞徳略年譜(中略)

凡例
一 底本には天和二年に京都の永田長兵衛から出た刊本(解説中、諸本の項でいう第二類本)を用い、宮内庁書陵部蔵の写本(頭注での略号、写本)を参考とした。
 本文は、底本のかたちを忠実に伝えることを旨とした。従って、誤字・宛字など(例えば陳無己を陳無巳と誤り、三淵大和守を水淵大和守としているごとぎ)も、頭注には注記したが、底本のままとした。
一 本大系の方針に従い、一般読者の便宜を計って、次の諸点では底本を改めた。
1 会話、引用文、諺・成句の類には、「 」「 」をほどこした。
2 底本の句読は・で示してあるが、文意により、…に区別し、また若干の補正を試みた。
3 古体・変体・略体の仮名は通行の字体に改めた。
4 仮名遣いは、原則として底本のままとし、誤りがあっても訂正せず、その甚だしいものに限り頭注でふれた。
5 送り仮名は底本のままとして特に補わず、それが足りないため読みにくい場合には振仮名によって補った。
6 読みにくい漢字には、歴史的仮名遣いによる振仮名をつけた。なお、貞徳の著書や、貞徳の説が継承されている「片言」などにより、貞徳の読み癖や清濁の説が知られるものは、やや特殊であってもこれに従った。
7 底本にある振仮名には、校注者のつけたものと区別するため〈〉でかこんだ。この振仮名には、清濁は施したが、仮名遣い、平仮名、片仮名の別は底本のままである。
8 漢字の俗字・略字・古字の類は、躰・役・鸛などのほか、おおむね通行の正字体に改めた。
9 反復記号は現行の形に改めた。
一 頭注は、語釈と一部の口語訳を載せた。これは一般読者の通読のためを考え繁簡取捨を計ったが、戴恩記は典拠の
 ある言葉を用いた博宏の学者の文章であり、かつ伝記的、文壇史的資料でもあるから、語句の出典、及び貞徳の記憶違い、史実との相違は多少詳しくふれた。一 補注は、考証を必要とするもの、また長文の引用、及びやや専門的な参考資料を掲げた。なお、補注においては、書名には、特に紛らわしい場合を除き、煩をさけて「 」を施さなかった。
一 本文の昌易の序と跋は底本のままにし、新しく読み下し文を試み、また補注に引用した漢文も、大むね読み下し文としたが、その訓読法は必ずしも現行のそれによらず、昌易やその父昌三、その子昌琳の注抄や、同時代の注抄を参考として、なるべく戴恩記と同時代の漢文訓読法に近づけようとした。

本書の底本として野村貴次氏より架蔵本を借用し、また他の一本の恵与を受けた。末端ながら深謝の意を表する。

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最終更新:2017年01月03日 10:42