有坂秀世「カールグレン氏の拗音説を評す」

     (一)

 カールグレン(Bernhard Karlgren)氏は、音圖の三四等に現れる類を分つて、次の三種とした。(Etudes sur la phonologie chinoise 625―626頁)。
 (α) 三四等兩属韻−ー東董送屋・鍾腫用燭・支紙糞・脂旨至・之止志・魚語御・虞鷹週・祭・眞翰震質・諒準棒術・仙禰線蔀・宵小笑・歳馬禧・陽養渫桑・清野勁曹・尤有宥・侵宸沁緋・捷琉畦葉・蒸栃誕職
 (β) 三等専属韻−微尾未・廢・欣臆獄迄・文物間物・庚梗敬瞬・凡苗梵乏
 (γ) 四等専属韻−−斉蕎賓・先銑叢屑・蕭篠噛・青沼径錫・幽勁幼・添恭栃帖
但し、α,β,γの各に對するカールグレン氏の定義は、これとは違ふのであるが、韻鏡を見慣れた我々にとつては、上のやうに定義するのが最も分り易い。なほ、廣韻の反切では、東韻の韻字は一等と二三四等との二系に分れてゐるが、上の表で東韻と稱したものは、専ら後者を指すのである。董送屋も之に准ずる。麻韻の韻字は二等と三四等との二系に分れてゐるが、上の表で麻韻と穏したものは専ら後者を指すのである。馬賜も之に准ずる。又、庚韻の韻字は二等(生・省を除く)と三等(二等の生・省を含む)との二系に分れてゐるが、上の表で庚韻と昌したものぱ、専ら後者を指すのである。梗敏昭も之に准ずる。なほ、東韻や庚韻の場合のみならず、一般に、α,β類の韻は、三四等字の外、齒音二等字をも合むことがある。
 廣韻の反切では、幇濤並明見誤疑脆来諸母の切字が啓二系に分れてゐる。而して、一・二等韻及び「型韻に溺する字を註するには第一系の切字が用ゐられ、α,β型韻に扇する字を註するにぱ第二系の切字が用ゐられるのを原則とする。(但し、匣母は第一系に相富する場合にのみ用ゐられ、群母は第二系に相富する場合にのみ用ゐられてゐる。)
 カールグレン氏に據れば、このα,β,γ三類の韻は、切韻時代にはすべて拗音であつたものと考へられるが、その各の特色につき、同氏は次のやうに考へた。朝鮮音を見ると、牙音喉音の場合、αに屬する斌rロ(仙)件rロ(狸)諺S(線)撮拳rS(仙)換圈r自(諒)巻巻倦r§(線)倫rR(琉)除f日(琉)駿fョ(艶)、βに扁する言g(元)楸rロ(元)建rロ(願)憲献Fロ(願)元原源gロ(元)誼喧一rs(元)巻勁r§(願)原苫自 (願)鉄心ョ(鉄)桧rョ(厳)欠rョ(梵)等が皆直音(例外ぱ諒闇の週r<JL1,線韻の絹r夕頭韻の則kismだけである)であるのに對し、γに屬する肩堅牽締r自(先)研{S(先)弦絃賢密§(先)顕密自(銑)見r§(宸)硯ian(宸)掬蒜r自(瑕)玄懸r自(先)翁謙ram(添)嫌niam(添)殺ram(蚕)等は皆拗音である。それ故、γの拗音的要素(element intercalate palatal)ぱ、多分α,βのよりも一肩強いものであつたらう。即ち、α,βの拗音的要素がconsonantiqueな{云n, mm, ion. iom等)であつたのに對し、γの拗音的要素はvocaliqueなi(ien, iem等)であつたらう、といふのがカールグレン氏の説(前掲書・詣―こ話頁、召{頁)である。
 ところで、このvocalique, consonantiqueといふ語については、明瞭な定義が下してないので、カールグレン氏の具意は未だよく分らない。併しvocaliqueと言つた所で、この場合それが音節的(syllabique)なものである筈は無く、又、8nsonantiqueと言つた所で、jとは区別されてゐるのであるから、摩擦性の音を意味する積りではあるまい。いづれどちらも非音節的且非摩擦的なi類の要素には違ひ無いのであるが、cons()nantiqueな{よりもvocaliqueなiの方が拗音性が強いと見てゐる所から察するに、{の方が所謂"gliding"な音であつたのに對し、・1の方は所謂"held"な音であつた、といふ風な考へででもあらうか(Walter Ripman: Elements of Phonetics第八版八七節参照)。
 さて、γ型韻が、α型韻やβ型韻と異なる或特色を持つてゐたといふことは、倣傍並明見誤疑眺米語母の切字の問題(既述)とも関聯して考へられる所であり、その意味から考へる時は、カールグレン氏が、α,βの拗音的要素iに對し、γの拗音的要素をiと推定したことは、巧妙と言ふべきであらう。
 併しながら、氏がその根捷として擧げた事實に至つては、疑ふべき點が少くないのである。即ち、氏が誕捕として朝鮮音を引くに富り、α型韻について公然と擧げてゐる例は、すべて三等の字ばかりである。然るに、α型韻には四等の宇も含まれてゐる。現に、氏が「例外」として脚註に記してゐる遣・絹・鎧の三字こそ、まさしく韻鏡四等の字なのであるから、それらは少数なりとも決して単なる「例外」として軽親すべからざるものである。もつとも、これら三字の中で、箱(鎧)は七音略では三等に置かれてゐる。実際、第三十九轉四等は添韻の場所であるから、堕韻集塊切の箱 (鋸)を此底に置くことは確かに不合理である。併し、享緑本韻鏡が鋸を四等に置いてゐることと、全章全韻・全韻玉篇等が鎧の朝鮮音をrSと記してゐることとの一致は、定めし偶然ではあるまい。箱(鎧)には四等の音も有つたのであらう。ただに此の三宇のみならず、妖r§(仙)謹r§(線)延{§(仙)揖E(蔀)翻hian(仙)沿’S(仙)峡rE(蔀)悦’S(蔀)厭rヨ(髪)堕rヨ(甕)濫}名(葉)葉{召(葉)等、α型類に屡する牙喉音四等の字は、朝鮮音では皆拗音になつてゐる。これ程多数の事実を単に「例外」として片付けることの出来ないことは勿論である。
 但し、虔は朝鮮音rロであるのに、享縁本韻鏡で四等に置かれてゐることが問題になるけれど、此の字は七音略には無い。又、韻鏡考に據れば、信範本や嘉吉本にも無い由である。王國維氏刊行切韻残巻第三・王仁煦刊謬補缺切韻・廣韻、いづれも此の字を稲立の標目としてぱ立てず、軋(乾)(渠焉反、渠焉切)の下に牧めてゐるから、韻鏡の目脂には現れないのが當然である。享緑本は誤つてゐる。次に、炎は廣韻于原切であるから、韻鏡で三等に設かれてゐることは當然である。併し、さらば朝鮮音は直音amでありさうなものであるが、事貢は拗音ismなので、ここに問題が起る。ところが、刊謬補缺切韻では此の字を平聲回訓(于原反又諦念反)と去聲髭韻(以隠反又于霞反)との二個所に出して居り、切韻残巻第三の回韻の所にも此の字を于原反又諦念反と註してゐる。服に朝鮮音のlam '£此の以朧反又ぱ諦念反(いづれも喩母四等)に相當する言であるとすれば、疑問は解消するわけである。
 朝鮮音に於て、牙音喉音の三等が直音であり、四等が拗音である、といふことは、鼓揖と梗揖とを除く外、あらゆる場合に通ずる原則である。同じα型韻の中でも、牙音言喉音の三等こそ直音であれ四等が常に拗音であることに気付かなかつたのはカールグレン氏の大きな過失である。
 思ふに、古代支那語では、同じα型韻の中でも、牙音喉音三等の換貧的要素は、その四等の拗音的要素に比べると、口蓋性がいくらか弱かつたのではなからうか。恐らく、四等の換言的要素ごに對して、三等の換貧的要素は寧ろ−に近い言でぱなかつたらうか。もつとも、これぱ牙音喉音の場合についての話である。決して舌音や営営の場合までもさうだと主張するわけではない。なほ、近代の朝鮮漢宇音は第十世紀頃の開封標字音に基いたもの(これに就いては本書所載「漢字の朝鮮音について」を參照せられたし)と考へられるのであるが、その頃の支那音でぱ、α型韻四等とγ型韻との区別は既に失はれてゐたことと思はれる。この両者の区別は、少くとも、唐中葉頃の長安標奉答を寫したものと思はれる慧琳一切経音義の反切には、既に存在しないのである。(黄倅伯氏著「慧琳一切経音義反切攷」参照。)
 以上は専ら七音略・韻鏡に就いて考察したのであるが、等位の問題は、切韻指掌圖や切韻指南に就いて見ても、事情は全く同じことである。指掌圖でも指南でも、虔は圖面に無く、炎は三等に置かれてゐる。但し、箱(釦)については、指掌圖は七言略と同様に、箱(互俺切)を三等に、誠(互堕切)を四等に置いてゐる。(七言略では、笞は外轉三十一の群母三等に、鍼ぱ外轉三十二の群母四等に在る。指掌圖では、二字共に第五圖に在る。)之に對して、指南には箱(鎧)の字無く、その代りに誠の字を群母三等に置き、群母四等の場所は空位となつてゐる。これぱ、元来誠に且俺切・互甕切の兩音があり、七言略や指掌圖がその中互竪切の言に據つたのに對し、指南は互俺切の言に據つたので、その結果かかる外見上の矛盾を生ずるに至つたものである。

 さて、切韻・廣韻の反切は、その本末の目的から考へる時は、一つーつが相異なる言を表すものでなければならない。然る處、廣韻の中には、切字も同母、韻字も同願であつて、一見互に同音であるかの如く見える反切が、幾對か存在する。左にその例を擧げよう。
  (1) 骸(敷裏切)骸(匹衣切)共に支韻開口傍母
  (2) 皮(符裏切)陣(符衣切)共に支韻開口並母
  (3) 奇(渠裏切)祗(互支切)共に支韻開口群母
  (4) 犠(許裏切)詑(香衣切)共に支韻開口僥母
  (5) 娯(居埓切)蘇(居隋切)共に支韻合口見母
  (6) 齢(去焉切)閥(去隨切)共に支韻合口渓母
  (7) 摩(許焉切)隨(許規切)共に支韻合口鴎母
  (8) 彼(甫委切)徨(井再切)共に紙韻合口幇母
  (9) 殖(匹鼻切)牌(匹婢切)共に紙韻合口酵母
  (10) 被(皮彼切)婢(便婢切)共に紙韻合口並母
(11)
(12)
(13)
(14)
(15)
(16)
(17)
(18)
(19)
(20)
(21)
(22)
(23)
(24)
(25)
(26)
(27)
(28)
(29)
扉(文枝切)

脆(去委切)
註責(彼義切)
劈彼(披義切)
警髪(平義切)
退官(居義切)
敦埼(卿義切)企




辿







(於義切)
組(脆偏切)
暖(於偏切)
恚(況偏切)
嬉(渠追切)
葵(居侑切)
哭(塹軌切)
揆(兵端切)
排(匹備切)
屁(平葛切)
鼻(明葛切)
癩(去翼切)棄
(綿婢切)共に紙韻合口明母
(丘肩切)共に紙韻合口渓母
(卑義切)共に直韻開口幇母
(匹賜切)共に真韻開口傍母
(睨義切)共に真韻開口並母
(居企切)共に亥韻開ロ見母
(去智切)共に真韻開口渓母 ’
(於賜切)共に真韻開口影母
(規恚切)共に真韻合口見母
(於避切)共に真韻合口影母
(呼恚切)共に真韻合口鴫母
(渠追切)全く同じ反切、脂韻合口群母(居誄切)共に旨韻合口見母
(求契切)共に旨韻合口群母
(必至切)共に至韻開口幇母
(匹痛切)共に至韻開口酵母
(睨至切)共に至韻開口並母
(蒲二切)共に至韻開ロ明母
(詰利切)共に至韻開口渓母


(30)
(31)
(32)
(33)
(34)
(35)
(36)
(37)
(38)
(39)
(40)
(41)
(42)
(43)
(44)
(45)
(46)
(47)
(48)
傀(倶位切)季




(居悸切)
共に至韻合口見母
(末位切)悸(共季切)共に至韻合口群母
(許位切)
膀(香季切)
愉(火季切)共に至韻合口眺母
(牛例切)
胚(魚祭切)共に祭韻開口疑母
(府巾切)賓(必勝切)共に気韻開口幇母
貧(符巾切)頻(符気切)共に気韻開口並母
現(武巾切)民(佃隣切)共に気韻開口明母
替(於巾切)因
赦(去刄切)筆(鄙密切)弼(房密切)
密(美畢切)蜜(蒲畢切)壁(居乞切)吉(居質切)乙(於筆切) 一 (於悉切)静(貌乙切)猷(許吉切)娠(於橿切)始(於縁切)圈(渠篆切)蜻(狂衰切)巻。(居借切)納(吉操切)笥(方別切)驚(井列切)
(於真切)共に真韻開口影母
婚(莞印切)共に震韻開口渓母必(卑吉切)共に質韻開口幇母部(既必切)共に質韻開口並母
共に質韻開口明母共に質韻開口見母共に質韻開日影母共に質韻開口鴫母共に仙韻合口影母共に仙韻合口群母共に線韻合口見母共に蔀韻開口幇母

(49)
(50)
(51)
(52)
(53)
(54)
(55)
(56)
(57)
(58)
(59)
(60)
(61)
(62)
(63)
(64)
(65)
(66)
(67)



(乙劣切)訣(於悦切)(甫嬌切)識(甫遥切)(飲酒切)婢(遥遥切)
趙(起耶切)嬌喬(互嬌切)題妖(於喬切)要麦(肢矯切)標塵(傍麦切)篠原(平麦切)篠夭(於兆切)闇廟(眉召切)妙嶋(渠廟切)題丘(去鳩切)惟
ら日





(去逼切)(渠逼切)(於雪切)(方小切)(敷沼切)(符沼切)
共に蔀韻合日影母共に有韻開口幇母共に有韻開口明母共に有韻開口渓母共に宵闇開口群母共に有韻開日影母共に小韻開口幇母共に小韻開口傍母共に小韻開口並母
(於小切)共に小韻開日影母(佃笑切)共に笑韻開口明母(互要切)共に笑韻開口群母(去秋切)共に尤韻開口説母
(於金切)倍(拒淫切)共に侵韻開日影母(於汲切)揖(伊入切)共に揖韻開日影母(巨俺切)鍼(巨頭切)共に頭韻開口群母(央炎切)懇(一頭切)共に頭韻開口影母(丘桧切)鋏(謙琉切)共に続韻開口渓母(衣桧切)驚(於玖切)共に玖韻開日影母
  (68) 憤(於瞼切)厭(於監切)共に髭韻開日影母
  (69) 舷(於総切)厦(於葉切)共に葉韻開日影母
 いづれも脣・牙・喉音の場合であり、七音略・韻鏡・切韻指京間・切韻指南等の言間では、右のうち初に掲げた方の文字を三等に置き、後に掲げた方の文字を四等に置いてゐる。但し、喉音の中喩母の例だけは省略した。何故なら、喩母の三等と四等とが、反切の韻字によらず、切字によつて匹別されるものであることは、周知の事實だからである。右の中、22の注と葵とは、それぞれ標目の文字として濁立に立てられてゐるに拘らず、反切は同一の渠追切である。この黙について、陳澧は日く「葵、渠追切。此願已有迪字渠追切。葵字不審又渠追切也。玉篇・類篇・集韻、注葵皆不同言。則非傅高談分賞。以葵字無同類之願故、切語借用不同類之遮字耳。」(切韻考)と。然るに、今王國維氏の刊行した唐寫本切韻残巻を見ると、残巻第二には注(渠追反)葵(渠往反)、残巻第三には迪(渠迫反)葵(渠佐反)とあり、即ち、いづれに於ても切語が匪別されてゐるのである。
 なほ、韻鏡第三十三関轉幇母三等の碧は、切服喪巻第三(音韻)に「新加」とあつて、陸法言原本には無かつたものである。唐寫本唐韻(方ぞ反)・徐借説文(同反)・徐鼓説文(兵尺切)・廣韻(彼役切)では音韻に入つてゐるが、刊謬補缺切韻(油逆反)では格(即ち巨)願に入つて居り、篆隷萬象名義(彼戦反)・大廣益會玉篇(同切)・慧琳音義 (兵戦反)の反切も巨韻に當る。又、集韻では隠顕(筆戦切)と音願(兵f切)との二個處に出てゐる。さて、もし廣韻彼役切に従ふならば、必−会切の鉾との関係は合と開との對立と解せられるが、碧を隠顕とするならば、跡との関係は巨願三等と音願四等との對立になる。但し、方苛反や兵尺切と必会反(切)との関係を如何に解すべきかは問題である。
 さて、これら各二つの反切が、互に異なる言を表してゐたものであるか、それとも全く同音を表すものであつたかについては、いろいろな説がある。まづ、陳澧は、大多数の場合には、一つーつの反切が相異なる言を表してゐたものと考へ、ただ少数の場合についてぱ、それら二つの反切の中の一方を後世の増加字としてゐる。論温が増加字と見てゐるのは、16の敲、17の埼、18の倚、33の則、38の娃、46の嬉、48の笥、55の標、58の閣、61の惧、64の鍼である。なほ、32の中でぱ、論証は値を増加宇と見てゐる。今、唐寫本切韻残巻(この場合資料となり得るのぱ残巻第三のみ)を接するに、闇は小韻の所に見えず、従つて或ぱ増加字かも知れないが、蜻・箭の二つは立派に出てゐる。尤韻に恪の字は無いが、この宇の別優である個の宇が去愁反として出てゐる。小韻に於て、廣韻では表(肢矯切)と標(方小切)とが各濁立の標目となつてゐるのであるが、切韻では二つに分たれず、表{馳ヨ亭:となつてゐる。ここで方小反と方矯反とが相異なる音として扱ぱれてゐることに往意すべきである。但し、切韻には去聲の巻が残つてゐかいため、鼓・埼・倚・値・剔・蝶の有無を知ることが出来ない。又、平聲下の頭韻の部分も完全には保存されてゐないので、鍼の字の有無を断言することが出来ない。(鍼ぱ、洗韻では、巨頭切に扇する唯一の字として、昼韻の最後に置かれてゐる。併し、ただ巨頭切又音針一とあるのみ、何ら字義を註してゐない。同じ鍼の字が巨波切の下にも出てゐるが、そこでぱ鍼虎人名又之林切と註してゐるのみで、巨頭切に相當する音を載せてゐない。且、切韻残巻第三に於ても洗韻の巨頭切に相當する位置には、鍼の字は出てゐない。又、巨波及(標字ぱ箱)の所にも此の字ぱ見えない。故に、巨霊切の鍼が後世の増加宇であるといふことの可能性は、かなり大きいのである。)併し、これら増加字として疑ぱれる場合を除けば、陳澧ぱ69に引用した各二つの反切がそれぞれ相異なる音を表すものと考へてゐたこと、疑の無い所である。大矢博士も、「両者共に、同音にして、又共に第三等に列すべき音なりと雖も、實際に両者を比較するときは、少しく洪細の度を異にして、全く同音とも焉し難かりけん。」(韻鏡考}丞頁)と言ひ、各二つの反切の間に音韻上の区別の存したことを認めて居られる。
 之に反して、カールグレン氏の如きは、何の訴りも無しに、これら二つの反切を全く同音としてゐる。(然るに、頑振の場合には、牙喉音の三等と囚等とり区別が、日本呉音・朝鮮音・帽州音・前頭音などに於て立派に音頭上の区別として現れてゐるので、前掲書「雲頁及びS心頁の脚註では一時逃れの苦しい中し譚けを言つてゐる。又、回書汲`頁を見ると同氏は止摂開口の牙喉音に於て三等と四等との音韻上の区別が朝鮮言に立派に現れてゐることを知らないわけではないのに、切韻音を再構成するに際して此の事貢を無親し、廣韻で標目の文字を明瞭に区別してゐる三等と四等との音價を、全く同一のものと定めてしまつたのは何故か。吾人の解しかねる所である。)高畑彦次郎氏も、亦その説を承けて、これら各二つの反切を全く同音とし、韻中の標目の字は他の標目の字と必ず音を異にするものであるとする陳澧の前提を斥け、同音であるにも拘らず別々の標目を立ててゐるのぱ何らかの理由にょるものであらうが、この何らかの理由は少くとも言語上の理由ではない、とまで断言して居られる(藝文第二十年第十二貌「支那語の言語學的研究」第十二回)。
 併しながら、右の高畑氏のお説に對しては、既に引いた唐寫本切韻残巻第三の小韻「表」の字の註「方小反又方矯反」が直ちに抗議するであらう。この黙については、切韻系請韻書の間に外見上の不一致があるので、念のためまづその比較を試みょう。第一、王國維氏刊行の唐寫本切韻残巻第三に於ては
第二、王仁照の刊謬補缺切韻に於ては
○表記廣具
、王仁煦の刊謬補缺切韻に○表記賢又摺箔]亦脱脂
第三、廣韻に於ては
○表顕脇表(下略)褒E補鬘皿 ○標識賓辞皿目標隷昌
以上の中で、廣韻の肢矯切は、他の両韻書の方矯反に當る。両者は同音である。従つて、両韻書と廣韻との差異動は要するに、両韻書が表に對して方矯反・方小反兩音の存在を認めてゐるのに對し、廣韻はただ方矯反の一音だけしか認めてゐない、といふ動に鋒する。標が方小反の音であることは、三韻書の一致する所である。なほ、七音略、・切韻指水圏・切韻指南は表を三等に標を四等に置き、韻鏡は表を三等に標を四等に置いてゐる。而して、標と標とは同音であるから、この四つの音圖の表す所は實質上全く同一である。然るに、カールグレン氏や高畑氏に據れば、同じ小詣である以上は、三等も四等も匠別無く、持{ざ願である。従つて、方矯反も方小反も共に同一のPJiauの音となる。ところが、かくの如き見解ぱ、明白に切韻編者の意圖に相違するものである。何故なら、切韻ぱ「表」を註して「方小反父方塙反」と言ひ、方小反と方矯反とが相異なる音である事實を明示してゐるからである。
 しかのみならず、顔氏家訓音辭篇に曰く、「璃瑠魯之賓玉。富音節煩。江南皆皆藩屏之蕩。岐山。富谷鳥奇。江所持呼焉御蔵之蔵。江陵陥没、此音披於関中。不知二者何所承。以吾浸學未之前聞也。」と。この記述に狸れば、支韻開口の群母三等「奇」(渠題切)と同四等「祗」(且支切)との間に音韻上の匹別が存したことは疑無い。
     (二)
 前回に引いた69例の中、約半数ぱ止摂の場合であるから、まづ止摂から研究を始めることとしよう。
 止摂閣轉の牙音・喉音に於ては、三等と四等との区別が、朝鮮音に最もよく保存されてゐる。即ち、見渓群母三等r同四等r疑影喩母三等以同四等i眺母三等r{の如く、三等i'i :囚等‘の対立が極めて明瞭である。これはカールグレン氏も脱に気付いてゐる所である(644頁)。
 脣音では、三四等の区別は安南音に最もよく現れてゐる。
          第  四  開
 紙  支ら 心−、四三四三等等等等
卑{{
倅 {’
鼓『
比皮゛‘り
牌 ヾ
皮『
陣コ`.
婢{{
佃 」’
碍 ロt




心 ぺ
四三四等等等
鄙 Z
翻 `
否 {’
美 ―
∂∂夕



←、←、←、
三  四三四三囚三
紙  支--
四三四三
等  等等等等等等 等
悲ロ・l
玉 {’
耶 Z
眉 日{
第七

捧は.
屁岱
鼻は.
癩目.
銘に
灘゛`り
備E
鄙目.
ヒロ.
牝・り
第  六  開
批{{
既{’
四 三
等等等 等等   第
彼 r
殖 Z
被 r
扉 ヨ’
肢に
麿 ヨ’
五合
劈1ニt.
讐た
避井.
責『
彼『




ら ら
三四三

等等等等等等


非□'?
匪 {’
沸 {{

罪 `{
斐 {{
費 {{
円】  <・net      P 1
臍 `
蝉 {{
徴 £
尾 ■
未 一
 右はヂャイルズ(Giles)氏の字書によつて韻鏡の文字を桧した結果である。「ぱヂャイルズ氏の字書に見出せなかつた文字。※は、その字がヂャイルズ氏の字書に無いため、廣韻で同一標目の下に在る他字を以て之に代へたものである。但し、雌はヂャイルズ氏の字書に出てゐる文字であるが、記されてゐる安南音には多分第四轉泌母四等弔辞匹支切の音ではなく、敷親切・匹鄙切又は符鄙切(いづれも三等)の音であらうと思ぱれるから、その音は此處には出さなかつた。又、牝はヂャイルズ氏の字書には安南音芯ロとあるが、これぱ第十七轉並母四等上原に當るn尾の音であり、第六轉並母四等上辞の音でぱない。故に、この字の所にも亦?を附した。ヂャイルズ氏の綴の中の弓ぱ〔μ〕の音を表すものらしい。jについて、マスペロ(Maspero)氏は左のやうに言つてゐる。「Cochin-chineでぱyのやうに、Tonkinでぱzのやうに' Hatinhでは9のやうに漬まれるが、正式の綴でぱ常にdと書く。」と。
 上の表を通覧するに、三等の場合には常に,p、b、m、f、vのやうな脣音が出て居り、四等の場合には常に、t、f、j、弓のやうな舌音が出てゐる。即ち、古代支鄙語の脣音は、後の場合に限つて舌音化されてゐる。そもそも、iの前で脣音が舌苔に變つてゐる例ぱ、我が國の琉球方言などにも屡存する所であつて、一種の口蓋化現象の結果と見られるものである。例へば、國顛方言で、正午をtiruma(△*piruma),荼毘をdadi(△*dabi), 泉を邨E(△*izumi)と言ふ類である。然るに、安南音では、止摂の脣音の舌音化されてゐるのは唯四等の場合だけであり、三等の場合には脣音は脣音のまま残つてゐる。よつて思ふに、安南音の唇゛r゛ョ{等ぱ本末このままの形だつたのでぱなく、初は頭音の直後に何か(頭音の口蓋化を妨げるやうな)非口蓋他の要素を持つてゐたのではなからうか。そこで、帽詳言の牙喉音に保存されてゐる所の三等9四等’のやうな区別が、古代支那語の府営音節にも存在したものと仮定する時は、安南音の形は極めて都合よく説明されるのである。
 但し、寵は開轉四等の宇であるから、安南音では舌音を頭に持つべき筈の處、何故か脣音のmを保存してゐる。併しながら、この不規則は安南音ばかりの問題ではない。カールグレン氏の集めた現代支那二十二方言のすべてに於て、痛は合轉三等の美と同音になつてゐるのである(Etudes sur la phonologic chinoise 724頁脚註参照。例へば、北京音は乱にあらずしてョeiであり、上海曹はmi y.あらずしてmeであり、油頭音は臣にあらずしてョuiである。) 以上を統括するに、古代支那語に於て、止摂諸轉の脣牙喉音に於ける三等と四等とは、大膿左のやうに区別されてゐたものと思はれる。
〃A¬四 三等 等
!。色気
r召見
ぶ砥影
払暁
`zこ 〉zt喩
 以上は止摂についての話であつたが、今度は臻摂について考へてみよう。臻摂の二三四等韻は、開合相対する第十七・第十八両轉に牧められた概算系統のものと、同じく間合相対する第十九・第二十両轉に牧められた欧文系統のものとに分たれる。但し、この両系統は、慧琳一切経巻義の反切では既に一系に降してゐる。順韻は古来気韻の一部分であつで、晋の呂静や北斉の陽休之・杜豪卿等の諸家も皆之を気韻と区別せず、唐の慧琳の一切経音義の反切で.もやはり気韻・欧韻と韻字が共通になつて居り、我が漢音でも亦真韻と同じくイン韻である。陸法言が順韻を気韻から区別したのは、専ら南方人夏侯詠の現に據つたものである(王仁照刊謬捷訣切韻参照)。それ故、隋唐時代の北方音について考へる場合には頭韻ぱ真韻の歯音二等と考へてよいものと思はれる。
 さて、臻摂諸轉の脣牙喉音に於ける三等と四等との区別は、やはり朝鮮音と安南音とに残つてゐるが、日本呉音にもこの区別が見られ、現代支鄙語方音の中にも、尾州音・前頭音の如く、この区別を保存してゐるものがある。
 まづ第十七・第十九兩間特について考へると、朝鮮音では、見渓群母の三等はrロ又はrロ(入聲r}又はr})同四等はrμ(人磐’r})、疑影母の三等はョ(人磐石、同四等はF(入聲石、喩母四等ぱF(入聲石、脇母三等はrョ(人磐巨)、同四等入聲は邑である。即ち、三等と四等との区別が、中心母音の相違として現れてゐる。日本呉音では、牙喉音の三等はオソ(オツ)韻、同四等はイソ (イチ・イツ)韻である。
 次に、カールグレン氏の字書(前掲言謡w−「沼頁)に據れば、右の両輪の牙喉音は尾州音では、
  三等 (真) 巾rg 僅koung 銀ngung
     (欣) 斤筋r函謹king    jgjjj芹kung 近koung 欣f函 殷愁隠纏ロ函
  四等 (真) 緊’函 因切首漂印‘函 寅引一品
即ち、唯一つの例外たる謹を別にすれば、三等と四等との対立が中心母音の相違として保存されてゐる。但し、入聲の場合はこの区別は明瞭でない(前掲書男心19`頁)。

  三等 (質) 乙 Er
     (迄) 詑ngaik乞kotik 迄ngaik
  四等 (質) 吉rF 一aik,   sio 逸F
又、前頭音では(前掲書g`lq9頁)
  三等 (真) 巾rロ 僅rョ 銀jョ

   (欣)四等 (質)
斤筋謹kin   H芹k'iin近rロ欣rロ股懇in, hin    H in嗇F緊rロ 因俎芭狸印F 寅引F
即ち、唯一つの例外たる朧を別にすれば、三等と四等との対立が中心母音の相違として保存されてゐる。但し、人言の場合にぱこの区別は明瞭でない(前掲書S心I874'頁)。
  三等 (質) 乙’{
     (迄) 詑ロ賢 乞5{ 迄hit, ngit
  四等 (質) 吉r{ 一 Ft'sak 逸’{
安南音では、止摂の場合と同じく、三等と四等との区別が脣音に現れてゐる。まづ第十七轉に於て




← ←
一一一
囚三四
等等等等等等等等
彬gロ負ぶロ
價芯ロ筆r{必膏
附心機{ぼ
坦ぺ
匹辱
貧gロ順応ロ
牝芯ロ
弼限{邨g{
8$ men民tロ慾menm Jen
密met蜜ヨet
即ち、入聲に二つの例外は有るが、大磯に於て止摂の場合と同じく、古代支那語の脣音は、三等では保存され、四等では舌音に麦化してゐる。第十八・第十九兩轉には脣音が無い。第二十轉の脣音(皆軽脣音)は、非敷奉母f徴母vの形である。

 以上の事實を綜合して考へるに、類饌諸轉の脣牙喉音に於ける三等と四等とは、古代支那語に於て、火照左のやうに区別されてゐたものではなからうか。
ら ら
四三四三
等等等等
 祭器S
で で'£' );5・゛ ロ
でW
,rだf凛7
恥 沁 自 § 見
ぞぞぞぞ影rい叫・ ;いゴ


xpnxian
xiat

jpn
1..a.)乙’f吋・
     (三)

 次に止摂・睦摂以外のα型韻について一見しよう。
 朝鮮音では、α型韻に於ける三等と四等との区別ぱ、到る處で牙喉音に現れてゐる。即ち、第一回に述べた通り三等は常に直音であり、四等は常に拗音である。(但し、鼓摂の場合だけぱ例外で、三等四等共に拗音になつてゐる。その理由は後に述べる。)
 次に、古代支那語の脣音字に就き、ヂャイルズ氏の字書で安南音を調べた結果ぱ、左の通りである。(但し、軽府音字に於てぱ、非敷奉母f微母vであつて、別に問題が無いから、ここでは重脣音字をのみ皐げる)。
 まづ、通摂の東屋韻では、三等字は脊moung ;目muk ;四等字は無い。
 蟹摂の祭韻では、三等字は無く、四等字ぱ蔽g働t笑te挟jueである。
 山摂の仙凛線蔀韻では三等字は井rg炳bien辨bien  pS mien ;駐biet別biet ;變E9本にf四等字は鞭疹ロ篇岱g便tien餌mien :視rg根ra緬mien ;徽bien靭rg使tien面jien ;笥Eet瞥biet滅
カールグレン氏の
t{である。
敬摂の宵小笑ふでは三等字は鏡z2漂fieu苗ョleu ;表bieu塵bieu蔀bieu :廟mieu :囚等字は揃tieu,
tロ瓢bieu牌ご標tieu標tieu, fieu標bieu a jieu ;俵r2剽fieu. bieu騏rロ妙営ロである。
 瑕摂の馬韻では、三等字は無く、四等字はセョak, meである。
 梗摂の清野勁昔韻では、(三等字ぱ碧bik)四等字は井tmg名jaing ;餅ping  g ? ;排bmg聘をs(を函)& ?銘jaing ;辞bik, tik僻tik脊tik, fakである。(碧については第一回参照。)
曾摂の蒸阻職頚では、三等宇は>- bang冰bmg児bang, ving ;児(脱出ご逼bik JS bik復fuk蜜ご四等字
は無い。
 流摂の尤有韻では、三等字は謀ほど四等字は坏こである。
 深摂の宴総韻では、三等宇は、粟gョ品fern鴎ご躬ご四等字は無い。
 咸摂の喪琉髭韻では、三等字はft£ biem ; &J biem ; &N biem ;四等字は無い。
 かやうなわけで、止摂や類摂の場合のやうに三等脣音、四等舌音として截然と相分れてゐるのではなく、四等にも脣音は相當に出て来るのであるが、それにしても、舌音g例中認までは四等宇であるから、古代支那語に於けるα型韻の脣音が安南音で舌音化されてゐるのは、大慶四等の場合のみであると見てよい。而して、一方、四等字貨例中、舌音を現さないものは芯に過ぎない。即ち、a型韻の脣音四等字の過半数は舌音化してゐるわけである。
 もし、止摂及び類摂をも計算に加へるならば、舌音た例中きまでは四等字である。又、四等字雷例中、舌音を現さないものは僅か18(3割弱)に過ぎない。即ち、α型韻の脣音四等字の7割強は舌音化してゐるわけである。
 以上逍べて来た所を綜合して考へるに、古代支那語に於けるα型韻の脣牙喉音に於ては、四等の拗音的要素iに對し、三等の拗音的要素はーであつたらうと想像されるのである。即ち、

へ止摂心
/⌒X蟹摂心
ら燥摂心
ハ山摂心

HI. -'fei

白. -pn, -iatEH. -ien, -let
(鼓摂)  IQ. -ieu
(梗摂)  目.―ぢr
(流摂)  m. -feu
(深摂)  111. -iam, -lap(咸摂)  ill. -Jem, -lep
IV.-i

IV. -iei

IV. -ian,ーiatIV. -icn, -letIV. -ieu

IV. -ien, -iekIV. -13U

IV. -pm, -lapIV. -lem, -icp
 而して、目とRとの区別は、安南音でぱ脣音の場合に反映してゐる。即ち、古代支那語の脣音は、・1の前でぱ一般に保存されてゐるが、i(の前では舌音に變じた例が多いのである。
 朝鮮音では、白とRとの区別は、牙喉音の場合に反映してゐる。即ち、一般に、目は直音でありr IVは拗音である。
但し、敬振の場合だけぱ、三四等共に{o韻になつてゐるのであるが、思ふに、この’oの’ぱ、支那原音|'feu.   -のeに相當する部分を反映してゐるのではなからうか(なほ、これに就いては、本書所載「漢字の朝鮮言について」三二ー言萎参照)。類損に於てぱ、-pn, -iatは’戸乙(又ぱIan, -al)の形で反映し、’ian,ー盲ぽ、−且ム{の形で反映してゐる。これから類推すると、深振に於ても、’ism. -lapが-im, -iipの形で反映してゐるのに對し、-lorn,   -iapは-im.’ipの形になつてゐさうなものと期待されるのであるが、事実ぱ然らずして、借’ョ(影母四等)淫g(喩母四等)揖ぞ(影母四等)のやうに、−iam, -lapもやぱりよj’ぞの形になつてゐる(牙喉箭の場合)。これ恐らくぱ末尾のョ゛tの影響によるものであらう。

 古代支那語の済音に於けるmとⅣとの区別は、朝鮮音には保存されてゐない。即ち、重済音は三国等共に拗音であるが、経済音と同韻に屡する明母は直音である。経済音はすべて直音であるが、ただ度韻だけが拗音である。而して、類摂に於て脣音三等が彬pin貧pin £S minの如く’Fの形になつてゐることから類推すると、深摂に於ても済音三等はふョの形なるべきやうに期待されるのであるが、事寅は然らずして、棄phim品phimのやうによョの形になつてゐる。これ亦恐らくは末尾のョの影響によるものであらう。なほ、止摂の済音ぱ三四等共に単純な・1韻であり曾振の済音(全部三等)はing, ik(’陥)韻である。
 日本呉音の直拗は、総じて、朝鮮音の直拗と一致する場合が多いのであるが、その主な原因は、呉音が朝鮮を経て我が國に輸入せられ、従つて支那原音が朝鮮語の音韻組織(音節的及び非音節的な中舌母音に富む)に適匝した形で傅へられてゐるためと考へられる。
 以上を以て、α型韻の済牙喉音に於ける拗音の性質に関する論は、一先づ終へたこととする。次回以後に這ぶべき問題は、田α型韻の舌音歯音に於ける拗音の性質、悶β型韻に於ける拗音の性質' Sr型韻の性質、㈲アヤワ三行と等位との関係、等である。

     (四)
 既述の通り、古代支那語に於て、α型韻の脣・牙・喉音三等の拗音的要素は非口蓋的なーであり、同四等の拗音的要素ぱ口蓋的な’であつた。慧琳一切経音義の反切では、脣・牙・喉音に於て、この兩系の韻字を使ひ分ける傾向が顕著である。又、大唐西域記に於て梵語のご韻を寫すに用ゐられた止摂脣・牙・喉音の漢字は比・卑・毘・避・劈・佃・祗・暫・伊等であるが、何れも四等の字のみであつて、三等の字は一つも無い。これ亦、三等ふ同等ふといふ前回前々回の仮説の真なることを立鐙するものである。
 然らば歯音の場合は如何。正盲管及び絹正盲管の頚巻については、梵語の音評決から推す時は、二等cerebral三等palatalとするカールグレン氏の誕の正しいことは、疑ふ除地が無いと思ふ。これらの頚音の性質から考へると、その直後に連接する拗貧的要素としては、二等‘三等iが最もふさはしい。而して、朝鮮音を見ると、止摂開口に於ては、二等は腰・芭・帽よ差乙師‐Eであり、三等は全部ムである。かやうに、多少の不規則な黙ぱ有るにしても、兎に角、三等がすべてム韻であるのに対し、二等にム韻の現れてゐることが祚窓される。これ恐らくぱ支那原音の状態を反映してゐるものであらう。例へば、友朋三等の施(朝鮮管忌の支那原音がたであるのに対し、同二等o酸 (朝鮮音1)の支那原音が答であつたものと仮定することぱ、頚音と韻との接合関係から考へても極めて極言である。
 朝鮮音は第十世紀頃の開封音を簿へたものであるが、その頃の北支那音では、cerebralの頚音の直後に来る拗音的要素(i)は、止摂以外の場合、少くとも一部分は既に消失してゐたものではなからうか。(例へば、語韻の歯音二等である所・もの音ぱ、〜を脛て、既に・oに變化してゐた。(本書所載拙稿「漢字の朝鮮音について」を參照せられたし。)それ放、朝鮮音では、歯音二等は全部直音である。之に対して、支那原音に於て召latalの頚音を有し、又恐らく拗音的要素iを保存してゐた所の盲管三等は、帽詳言でぱ全部拗音である。(但し、淳摂及び深摂の場合には、多少不規則な黙が存する。)正倉院御蔵薗抄本蒙求の漢音や唐末の北支那音に基いた天蚕漢音でも、やはり、俗骨二等ぱ直言、同三等は拗音になつてゐる。
 南音四等は、所謂音頭音・細歯頭音であつて、その頭音がヌ乳゛l(又はdz ),   s. zの類であることは定説である。歯音四等の音は朝鮮音ではすべて拗音であるから、その支那原音に於ける拗音的要素は、口蓋的な・‐(であつたらうと思はれる。(止摂開口の場合の朝鮮音についてぱ、前掲拙稿三〇五頁を參照せられたし。)
 之を要するに、歯音に於てぱ、α型韻の拗音的要素は、二等玉二四等iであつたものと思はれる。かやうに仮定する時は、他にも都合のよいことがある。即ち、カールグレン氏は、先秦音を論ずるに當つて、後世のts, ts', dz', s(歯音四等)とts, t?'≫ &> §(歯音二等)とを、共に先秦時代のts, ts', dz', sから出たものと推定したが、ただ、同じ拗音的要素iの直前にありながら、何故荘tsiangの頚音はcerebral化して居りf路tsiangの頚音はcerebral化してゐないのか、その點を説明することが出来なかつた(Analytic Dictionary of Chinese and Sino-Japanese, p.芭。然るに、私の右の仮説に従ふ時は、荘tsiang▽tsiang ^ tsiang▽tsiangの如く、ただ}の直前にあるはのみがcerebral化され、’の直前にあるなはcerebral化されなかつたこととなり、その間の條件の相違が極めて都合よく説明されるのである。(ただ、員は廣韻側隣切、徐鉉引く所の唐韻も同じである。この場合は切字と韻字とが相悪しないやうであるが、これは切韻掻巻第三職隣反、篆隷萬象名義之仁反、大廣益會玉篇之仁反、集韻之人切等のやうに口蓋的頚巻を持つ形の方が本来のものであらう。)
 半券音は、常に梵語の口蓋音ttfi) ii充てられてゐる故、その頚音は口蓋的のものであつたことと思はれ、又、朝鮮音が常に拗音である點なども、すべて正歯音三等の場合と同様である。それ故、その拗音的要素も、やはり正歯音三等の場合と同様に口蓋的なiであつたことと思はれる。
 舌音・半舌音の三等は、朝鮮音では一般に拗音である。(但し、半舌音は稀には直音のこともある。)さて、古来音韻家に傅へる所の反切門法のーつに、廣通門法といふものがある。切韻指南に日く「廣通者謂見渓群疑幇傍並明非敷奉微眺匿影此十五母焉切、願逢知徹澄攘照穿肺審禅来日第三等、並切第四。」と。これは、舌音・歯音・半舌音・半歯音の三等が、その性質上、脊巻・牙巻・喉音の四等と何らか共通の點を持つてゐた事實を反映するもののやうである。然らば、舌音・半舌音の三等の拗音的要素は、歯音・半歯音の三等や脊音・f音・喉音の四等の場合と等しく、やはり口蓋的#iであつたのであらうか。(もつとも、廣通門法は、濁立してあらゆる場合を律するに足る法則ではなく、寧ろ音和門法の例外を個別に説明するために設けられた附則のーつに過ぎない。その表す所は、ただ事實の大憤の傾向を示すにとどまる。)なほ、α型韻が舌頭音を有する例は稀である。普通に用ゐられる字ぱ、至韻の地ぐらゐなものであらう。その朝紆音ぱEであるが、一般に支那原音の舌玉音・舌頭音・半舌音に於ける拗音的要素の性質についてはなほ研究を要する。
 以上はすべてα型韻についての話であつたが、β型韻は(梗摂を除く外)朝鮮音では全部直言になつてゐるので、その支那原音に於ける拗音的要素ぱ、非口蓋的な'iであつたものと考へられる。包型韻は通例は脣・牙・喉音のみであるが、稀に宿音を持つ場合(隠顕の餓・胤、庚敬同韻の生、梗韻の省)には、それは必ずニ等(cerebral)である。この事實は、あたかも、拗貧的要素が1であることに相庖するものである。
 次には所謂アヤワ三行の定位問題に移らうと思ふが、カールグレン氏が喩母三等の頭音をj (W)としたことの誤であることぱ、今更説明するまでもない。この説は、三等の頭音はすべて口蓋的なものでなければならないといふ先入見から生じたもので、現代支那方言や日本呉音・朝鮮音・安南音等に現れた現實とぱ全然相反するのである。私の考へる所では、喩母三等の拗音的要素ぱ非口蓋的な四であるから、その頭に口蓋的子音jがつくといふことぱ、極めて不自然よ叙説である。もし喩母の三等か四等か何れかがjを持つてゐたものとせば、それは勿論四等の方でなければならない。現に、喩母四等は安南音でぱ規則的にzを現してゐるし、前頭音にも位(三等)E惟・維(四等)FE于・羽・兩(三等)旦忽・喩・裕(四等)`Mのやうな対立が見られる。又、薗譚佛典では、喩母四等字ぱ(羅閲祗Raiagrha閻浮提Jamb乱vipa阿逸多とぼ等)阻こ〔&〕で始る梵語音節にさへ充てられてゐる。それ故、古代支那語に於ける喩母四等の音節の韻には、まさしくj[j]のやうな口蓋的子音が存在したものであらう。而して、既述の通り喩母四等の拗音的要素は口蓋的な1であつたものと考へられるから、.その直前に口蓋的子音jがつくことには、何の不自然も無いのである。
 さて奈良時代及びそれ以前の萬葉仮名では、影母三等(β‐)及び喩母三等♀)の字ぱ、開口ではァ行の仮名となり、合口ではヮ行の仮名となつてゐる。(出雲風土記には最邑をサヨフに充てた例があり、その邑は影母三等の字であるが、この場合にはサイ(最)のイがオフ(邑)のオの韻に引懸つてヨの音を成してゐるものであるから、別問題となすべきである。)之に對して、影母四等(ぞ)及び喩母囚等(如−)の字は、間合に拘らず、すべてャ行の仮名になつてゐる。それ故、萬葉仮名に反映してゐる古代の字音に闘する範関では「影喩ノ第一第二第三等ハ阿王則行ノ格(開轉ナレハ阿行合轉ナレハ王行ナリ)第四等ハ耶行の定位ナリ」(漢呉音圖脱)といふ太田全斎の説は、大腰に於て正しい。
 但し、この全斎の法則が嘗てはまるのは、ただα型韻及びβ型韻の範関内だけでの話であることには、特に往意すべきである。全斎の法則は、rm韻には通用しない。何故ならば、和名抄に見える備中國下道郡の郷名「弟駱」(訓註「勢」)に於ける駱(影母四等)の字は、セの母音の延長を表すために用ゐられたものであつて、嘗然ア行のエの仮名でなければならないからである。そこで、駱の古代支那音をf’とするカールダレソ氏の氏の説に對して、疑が生じて来る。
 思ふに、こ琵韻は、切韻時代にはーei(斉)’a(先)−a(蕭)-eng(青)lem(添)のやうな直音だつたのではなからうか。何故なら、切韻に於てぺ型韻の字を註してゐる反切の切字は、一般に一等韻(直音)の場合と同類のものであつて、α型韻や心型韻(何れも拗音)の場合とは区別されてゐる(本稿第一回三二八頁[本書六二八頁一参照)。又r型韻は、α型韻の場合とは煌つて、歯音三等・半歯音三等・喩母四等のやうな口蓋的頭音に接合することが出来ない。これらの請條件は、何れも、直音なる一等韻の場合と共通なものであり、従つてβ型韻も亦直音であつたといふことの可能性を多からしめるものである。(大島正健博士は夙に四等直音説を唱へられたが、α型韻とβ型韻との区別は立てて居られない。又、マスペロ氏はタイ語との比較から立論して、斉・貝・璋・譚・先・蕭・青・添請韻が上古に於て直音であつたことを想像したが、氏の見解は、ただ斉・先・蕭・青・添五韻の範関に於てのみ私の結論と一致するも0‐である。) γ型韻が拗音化してー芭(斉)ふa(先)よa(蕭)-ieng(青)-iem(添)の形となり、α型韻(祭・仙・冑・清・回)の四等と同音になつたのは、恐らく隨未か唐初頃のことであらう。慧琳の時代には、この併合は既に完了してゐた。且、切韻の反切に於てぱ、〔型韻に於ける切字は、一等韻に於ける切字と全く同一類のものであつたのに、慧琳の一切経音義になると、四等(α型韻の四等及びぺ型韻)の切字は狽特の一類として分化し、一等韻の切字からは区別される傾向を生じてゐる。抑、支那音韻學史の上で、あらゆる文字を韻によつて一定数に分類し、その者類に名を兵へることぱ、飴程古くから有つたことと思はれるが、頭音に關しては、悉曇家から出た五言等の漠然たる分類観念は租古くから存在したとしても、具膿的な明確な分類學説は唐未に始つたものと考へられる。それ以前には學史上、分韻法の規範が侍読的に固定する事貢は有つたとしても、頭音(従つて反切の上字)の分類法に關しては未だ固定した侍読を生ずるには至つてゐなかつたものと思はれる。従つて、切韻と慧琳音義との間に見られる切字用法の相違は、そのまま、両者の基礎となつた音韻堕系の相違を(直接又ぱ間接に)反映してゐるものと考へなければならない。唐朝後半期に於ける吐蕃文字による特高例に於ても、又第十世紀頃の開彩管に基いた朝鮮音に於ても、口堅韻はすべて拗音になつてゐる。唐未又は五代頃の作とされてゐる韻鏡が、α聖者韻の一部とこ堅韻とを以て第四等の等位を構成してゐることも、亦r型韻拗音化以後の音韻状態を反映してゐるものである。
 勿論、〔聖韻が切韻時代に直音であつたといふ鐙捷ぱ、上に示した諸事實のみでぱ未だ不十分である。それらぱカールグレン氏の如く、拗音的要素としてi vocaliqueを仮定することによつても、或程度までは説明されよう。併しながら、さう考へるためには、拗音的要素として同時に三種のもの(i vocaliqueン8nsonantique,   i' consonantique)の並存したことを仮定しなければならない。これは不極言である。寧ろ、,上のやうに、切韻時代に直音であつた口堅韻が、唐代に入つて拗音化したものと考へる方が、逼かに極かである。かやうに考へる時は、カールグレン氏の立てた1   VO-caliqueとi consonantiqueとの区別ぱ、畢竟無用に峰する。拗音的要素として實際に存在したものは、口蓋的{と非口蓋的‘との二種だけではなかつたかと思はれるのである。
 私のこの説に對する恐らく唯一の難點は、日本呉音に於て、貴(廻脛)顕が経(キヤウ)貴(ジヤウ)罷(チヤウ)の如き拗音を現してゐるといふ事責であらう。併し、古代の南方の或方言に於て貴顕が拗音であつたとしても、その事責は、必ずしも、晴代頃の北方音に於てそれが直音であつたことを否定すべき決定的の根捷にぱなり得まいと思ぱれる・現にヽ切韻序にも「先皿前仙皿然尤侯倶論是切ごとあつて、先仙兩韻の混同がf 方言によつて吃既に切韻以前の時代から生じてゐたことを示してゐるのである。
 四等専属類の中でも、幽(勤幼)類だけは別種のものである。この類は、脣・牙・喉・半舌音の外に、音間面からは隠れた音頭音及び細正歯音二等をも含んで居り、而も反切の切字としては、α型類やβ型類の場合と同類のもののみ用ゐられてゐる。従つて、雪間上の四等専属類とは言ひながら、資質上は、r型類ではなくて、寧ろα型類に入るべきものである。但し、カールグレン氏は之をrm類ふ老となし、α型類たる尤(有宥)類よ盲から区別してゐるのであるが、もし両者共にα型類であるとすれば、尤類と幽類の区別は如何。この動は未だょく分らないけれども、保延二年書窮の法華経單字や心空の法華経音訓を見ると、幽類は幽(エウ)幼(エウ)謬(メウ)の如く三字ともエウ類になつて居り、尤類囚等のュ類(三等はウ・ュ・イウ類)とは区別されてゐる。それ放、尤類と幽類との相異動は、恐らくは拗音的要素以外の動に存するのではないかと想像される。

        追記
 本稿は、もと昭和十二年以來音聲學協會會報に連載されたものに、今回多少の訂正を加へたのである。その第一回は同會報第四十九號(十二年十一月)に、第二回は第五十一號(十三年三月)に、第三回は第五十三號(十三年七月)に、掲載された。然るに、印刷費が非常に嵩む由を、その頃編輯の方から承つて恐縮致し、その後暫くは續稿の發表を差控へてゐたのであるが、未完のままではふつておくわけにも行かないので、結末を極めて簡單に纒めて、翌十四年七月の第五十八號に載せていただいたのである。かやうなわけで、第四回だけが不釣合に簡略になつてゐる。今回多少手を加へては見たものの、病気の事とて力に限りが有り、結局大した事は出来なかつた。幸に、昭和十四年九月「言語研究」第三號に出た河野六郎氏の「朝鮮漢字音の一特質」は、此の方面の新進専門家の業績であるだけに、卓見少からず、私の研究發表とは繁簡相補ふやうな點もある。拗音問題に關しては、なほ陸志韋氏の「證廣韻五十一聲類」(燕京學報第二十五期)及び「三四等與所謂喩化」(同第二十六期)等も有益な論文である。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2015年01月19日 12:16