小高敏郎『都鄙問答解説」『日本古典文学大系97近世思想家文集』

解説

一 石田梅岩の生涯と思想

 都鄙問答は、心学の始祖梅岩の主著であり、心学の根本的な経典である。心学は、はじめ一介の町人石田梅岩の志した個人的な社会教化運動で、専ら京都乃至はその周辺のごく僅かな一部町人たちに実践倫理を平易に説いたものだったが、やがて彼の死後その高弟たちの手によって、生前梅岩が思ってもみなかったほど、次第に思想的結社として発展し、江戸の中期以降幕末にかけては全国的に普及流行するに至った。幕府や大名のごとき為政者から何らの援助も受けず、或いは富豪と称すべきバトロンさえ持たず、また正規の教育さえうけなかった農村出身の一町人の起した志が、江戸時代における最も有力な社会教化事業となったのである。

 出生から再度の商家奉公 梅岩は貞享二年(一六八五)丹波桑田郡|東懸《とうげ》村の農家に生れた。この村は現在、亀岡市東別院町の一部になっているが、国鉄亀岡駅から西南約十粁、未だ山間僻地の一小部落である。
 家は、分家筋ながら、一応村の開発領主の株内(同族)であり、山間の農家として富裕ではないまでも、標準的な、当時のいわゆる本百姓であった(「石田梅岩」柴田実)。梅岩は二男で、兄と妹の三人兄弟であった。梅岩はもちろん号で、名を勘平といい諱を興長《おきなが》と言った。出生の時、父は四十歳、母は二十一歳であった.
 元禄八年十一歳の時、京都の商家へ奉公に出た。東懸村のごとき山間の僻地では、耕地の細分化を防いで、二男以下は商家に年季奉公をしたり、職人の徒弟となるのが、当時一般の風であった。この奉公先は名も職業も不詳だが、いつからか家運が傾いて、盆暮の仕着せも満足に与えられなかったという。そんなわけで、梅岩は最初の就職に失敗、父の命で、元禄十二年十五歳の時故郷に帰って来た。
 この後八年もの間、梅岩は家で農事を手伝っていたらしいが、宝永四年二十三歳で、再び京都に出て、上京で呉服物を扱っていた黒柳家に奉公することとなった。家継ぎの長男でもないのに、何故将来の身を立てる上に大切な時期に八年も、こんな田舎で百姓仕事の手伝いなどしていたのか。また、何故この年になって再び京都に出て商家に勤めたのであろうか。当時、十歳前後で丁稚奉公をし、十年ほどの年季を勤めて手代となり、更に十年ほどすると自分の所帯をもって独立した商人となるのが普通であった。すると、この歳で奉公したとて、既に時期を失し、なかなか一人前の商人となれず、不利なことは、当然わかっていたはずである。それなのに奉公をはじめたのには何か特別の事情があったのではないか。後年の述懐によれば、はじめ神道の布教に志をもち、「もし聞く人なくば鈴を振り町々を廻りてなりとも、人の人たる道を勧め」たいと考えていたというが、果してこの当時、既にかかる志があって草深い故郷を後に京に上り、良師を求め、商家勤めの傍ら神道の勉強をするつもりだったのか。
 だがとにかく、商家に勤めながらも、寸暇を惜んで読書につとめ、朝は同僚より早く起きて二階の窓辺で、夜は人が寝静まった後に書を繙いたという。だが、梅岩は生れつき理窟っぼく友達からも嫌われ、意地の悪い所があったと述懐している。加えて律儀な性格の上、度を過ぎた凝り性というか、とにかく一途に思いつめる所があったようで、そのため再度の奉公をして間もなくの二十四、五歳から二十七、八歳の頃には、「気を煩う」、つまり今日でいう一種のノイローゼにかかったらしい。それに律儀な田舎者として生来勤勉で、のんびり暮していると、あせりやもどかしさを感じるような性格を有する青年だから、やはり青年客気の野心とエネルギーとが、かかる山村の僻地に一生埋もれることを我慢させず、京都に出て何かをしたい、何かになりたいという気持で、再度の上京をしたのであろう。
 なお、この気を病んでいたころ、毎日薬を飲み勤めを欠くのは、主人に仕える身として不忠である、むしろ遊興した方がいいと勧められ、自らその方面に足をふみ入れたこともあった。だが病気快復後、なお遊興して金銀を費すのは盗みと同じだと理窟っぼく考えて、今までの事情を主人に告げ、衣類や脇差まで処分して、遊興費を主家に弁償したという。一生独身で過し、質素謹厳の権化のごとき梅岩にも、若い時にはかかる遊蕩の経験があったわけである。後年、町人の身の処し方の相談相手となった彼には、この経験により、その持ち前の理窟っぽさや、真面目すぎる人間の陥りやすい過度の厳格さ、リゴリズムが弱められ、多少苦労人らしいやわらかさも加わって、人間として幅が出来たことであろう。その意味で、思わぬ貴重な体験となったといえよう。また快気後主家に遊興費を弁済したところなども、いかにも梅岩らしい、よく言って律儀、俗にいうひつこいほどの理窟っぽさがあらわれている。
 奉公中の勉学  梅岩がこの黒柳家に勤めていた二十年間ほどの実際生活の様子も、ほとんど知ることが出来ない。まして彼がいかなる読書をしたか、或いはどのような師についたかという、具体的な思想的遍歴もはっぎりしない。だが、人を教え導いて世の中の役に立ちたいという、その出身、学歴、境遇からすれば、一見痴人の夢とも思われる念願は、次第に鞏固になっていったらしい。これは、この間、結婚適齢期を見送って独身を通したことにも窺われる。梅岩自身も後年、なぜ結婚しなかったのかと問われたとき、夙に道を説きたい志を有していたが、そのためには、自分のごとき能力の乏しい者は、孔子や孟子のごとく多力の人とは違って、家族を養い、かつ道を説くのは不可能だと思って独身を通したのだと答えている。
 梅岩ははじめ神道を説きたいと志したというが、いかなる師についたか判然としない。否、正式に神道を学び伝受をうけたこともなかったらしい。また、当時の学問の基礎たる儒学にしても、その読んだ書物も就いた師もはっぎりしないし、多忙な商家の手代として暮していたためもあって、ほとんど自己流の独学であったようである。しかも「享保以降学草莽に下る」という学問普及の風潮はあったにしろ、丹波の山村に生まれた梅岩たちは、少年時に四書の素読さえ満足には受けられなかったろう。そういう貧弱な基礎学力で、商家の奉公の合間に独学に励んだとて、本格的な学問が出来るはずがない。神道にしろ或いは儒学にしろ、基本的な図書を読みこなすことさえ困難であったのではないか。後年自分のごとき無学の者は、文字を間違えずに書簡一つ書けないといっているのも、単なる謙辞ばかりではないようである。

 だが、梅岩の志は年と共に強くなってきて、三十を過ぎてからは、…何方《イヅカタ》ヲ師家トモ定メズ、一年或ハ半季」と諸方の講義を聞き巡ったりしたという。かく師を定めず、また独学であったということが、やがて梅岩の思想、更には心学の思想的性格を決定する。即ち彼の思想の神・儒・仏・老荘と、はなはだ雑学的であり習合的な性格である。H・G・ウエルズや幸田露伴の学問などがそのいい例であるが、体系をそなえた正規の学を受けない独学というものは、得てして無駄が多く、かつ雑学に陥いるものだからである。だが、その反面正規の学問を受け、本来的な意味でドグマティックな、つまり正統派的な教理解釈を受けられなかったことは、一見不利のようであるが、型にはまった形式的な解釈や、師の説くドグマに捉われず、経典類を自己流に納得がゆくように解釈することを可能ならしめる。聖賢の言行を我が身の上にひきつけて読み、自分の世界観、人生観を養い育てる養分とする、今日流でいえば、主体的な最も望ましい読書が出来、その人の血肉の通った独自個性的な思想を形成するという利点がある。
 しかも道をもとめる志の十余年の持続は、「憤せざれば発せず、排せざれば啓せず」という具合で、普通一般に師の講義を聞くのとちがって、聖賢の言葉が強い啓示的な光をもって心をうつ場合があったであろう。加えて、分別、理解力が備わった二十代後半からの十余年に亘る、活撥な町人社会における実生活の経験と時間は、独自の思想を形成、成熟させる上にも十分であった。梅岩の思想がはなはだ非観念的であり、実際的で身についた個性的な性格を有するのは、このような事情が幸いしているように思われる。したがって、梅岩が唯一の師で、かなり心酔しその影響をうけた小栗了雲が、臨終の時、梅岩に自らが注を加えた書物をすべて譲り与えようと告げたとき、梅岩は欲しくないと断り、何故かと問われたら、「われ事にあたらば新に述ぶるなり」と答えたという。未だ師資相承の学や秘伝伝授が重んぜられたこの時代に、独学で自分の目で聖賢の書を読み、納得出来るように考えつづけた人らしい、いかにも自信に満ちた答である。これは当時の学界常識から見れば、破天荒ともいうべき言辞である。
 思想の成熟、開悟さて、梅岩は四十二、三歳で主家を退き、勉学に励み、道を説く準備に専念したようだが、この間、小栗了雲との邂逅は、梅岩の思想形成の上で最も大きい事件の一つであった。梅岩は三十五、六歳のころ、すでに独学で一応独自の人生観を樹立し、かなりの自信があったらしい。だが、たまたま了雲に会って、その自信はたちまち崩れ去った。
  或所ニ隠遁ノ学者アリ・此人ニ出会物語ノ上、心ノ沙汰ニ及シ所、一言ノ上ニテ先ニハ、早速聞取テ、「汝ハ心ヲ知リト思ラメド、未知。学ビシ所雲泥ノ違アリ。心ヲ知ラズシテ聖人ノ書ヲ見ルナラバ、「毫釐ノ差千里ノ謬」ト成ベシ」ト云ヘリ。然レドモ、我云コト先方へ聞ヘザルユヘニ、斯申サルヽト心得テ、幾度モ論議ニ及トイヘドモ、肯フ気色見ヘズ。我益ガテンユカズ。(中略)「心ハ一身ノ主ナリ、身ノ主ヲ知ザレバ、風来者ニテ宿ナシ同前ナリ。我宿ナクシテ、他ヲ救ント云ハ覚束ナシ」ト云リ。我見識ヲ云ントスレドモ、「卵ヲ以テ大石ニ当」ガ如シ。言句吐コト不能。此ニ於テ茫然トシテ疑ヲ生ズ。実ニ得タルコトハ疑ナキ者ナリ。然ニ疑ノ発ハイマダ得ザルト決定シ、夫ヨリ他事心ニ不入、明暮「如何々々」ト心ヲ尽、身モ労、日ヲ過コト一年半計ナリ。(都鄙問答巻之一)
 かくてたまたま了雲に邂逅しその提撕をうけ、機が熟していたところに遂に大悟するに至ったという.。即ち「都鄙問答」には、前文に続いて次のごとくいう。
  折節愚母病気ニ附、十日余看病セシニ、其坐ヲ立出ケルガ、其時忽然トシテ疑晴、煙ヲ風ノ散ヨリモ早シ。「堯舜ノ道ハ孝弟而已」。魚ハ水ヲ泳、鳥ハ空ヲ飛。詩云、「鳶飛戻v天、魚躍2于淵1」ト云リ。道ハ蜥上下ニ察《アキラカ》ナリ」。何ヲカ疑ハン。人ハ孝悌忠信、此外子細ナキコトヲ会得シテ、二十年来ノ疑ヲ解。
 かくて梅岩は「知心見性」、悟りを開き、自己の思想に確乎とした自信を得ることとなった。この小栗了雲なる人物は、代々越藩の武士であったが、父政宗以来浪人し、京都に隠棲していた。梅岩より十七歳の年長だが、「性理の薀奥を極め、かつ釈老の学に通じ、自ら楽んで以て世を忘れた市井の隠士」だったという。性理の瀧奥を極めたといえぽ、当時の儒教の正統派だった朱子学を根本とするようだが、彼の説く問答の実際によれば、単に釈老を併せたどころか、はなはだ禅的なものが中心をなしているように思われる。正統な朱子学者は開悟したなどと揚言しないし、開悟を学の最終目的だなどとは説かない。開悟などというのは仏氏の徒、ことに禅家の専ら説くところである。ここに梅岩の思想、乃至はのちの心学の一特徴があるといえよう。性を知り悟りを開き、梅岩から許された門弟が二十数人もいたと石田先生事蹟にいうのも、或いはまた心学において、次第に坐禅に極めて相似た「静坐工夫」が重んぜられていったのも、もともと梅岩自身の思想の開眼が、かかる形で行われたからであろう。

 梅岩の思想の特色 だが、梅岩の学は、開悟し自分一人が安心立命するのを窮極の目的とするものではなかった。また単に究極の真理を愛し求めるだけで満足も出来なかった。一見宗教に似ながら更に積極的行動的な実践倫理を求めるものだったのである、すなわち「都鄙問答」で、この開悟の問答に続いて、「心ヲ知トキハ、直ニ賢人ニテ候ヤ」の問に対して、実践こそ根本的な問題として、次のごとく答えている。
  否。身ニ行ザレバ賢人ニアラズ。知ル心ハ一ナレドモ、力ト功トハ違アリ。聖賢ハ力強シテ功アリ。中庸ニ所謂、「安ジテ行フハ聖人ナリ。利シテ行フハ賢人ナリ」ト云コレナリ。我等如キハ力弱シテ功ナシ。或ハ勉強シテ行フ是ナリ。然レドモ心ヲ知ルユヘニ、行ハレザルコトヲ困。困トイヘドモ行ヒオホセ、功ヲナスニ及テハ一ナリ。
 この点では実践倫理を主とする儒教、しかも次に述べるごとく彼の依拠する朱子学よりもはなはだ陽明学に相近いといわなければならない。心学というのは、梅岩自身で名付けたものでなく、のちにその門弟たちによって付けられた名称だが、もと古く陽明学をさす言葉であった。たしかに両者に共通した要素が強いので、故意か偶然か同じ心学とよばれることになったのであろう。それ故、陽明学の心学に対して、梅岩流の学問を石門心学とよんで区別することもある。
 かく梅岩の志すところは、専ら実践を重んじ、文字の訓詁や経典の訓詁注釈を軽視する点、陽明学に相近いが、その思想の理論的根拠はこれに反して、おどろくほど忠実に朱子学に従っている。都鄙問答全四巻のうち、第三巻は「性理問答ノ段」として、一巻すべて性理の問題にあてているが、その理論は全く宋儒の説そのままである。その他の箇所も、儒書を引く場合には、易経・論語・孟子以下すべて宋儒の注に従っている.或いは後年門弟を集めて講義したときも、専ら四書などの宋儒の注と大極図説・近思録・性理字義、或いは小学以下の宋儒の編著などをテキストとして用いたという。
 また都鄙問答の論旨の進め方ばかりでなく、片言隻語、一々の用語のすみずみまで、宋儒の注を殆んどそのままとり用いている。梅岩の学が宋儒の説をもととしていることは、既に大田南畝が「一言一話」中で指摘しているところであり、現在でも通説となっているが、今般、注釈を加えてみて、あまりにも宋儒の説がそのままとり入れられていることに驚いたほどである。しかも宋儒の説を盲信、或いは安易無批判に依拠しているのではなく、はっきりと宋儒の説を消化し、自分で納得した上でこれを用いているのである。例えば、大学の「親民」を陽明学の解釈に反対して「新民」とする宋儒の説も、彼一流の論理で十分検討したのち、後者の説を用いている。或いはまた、当時京阪の庶民層に広く浸透していた伊藤仁斎の古学(この時、仁斎はすでに没して、その子東涯以下が活躍していたのだが)に対しても、その「語孟字義」に見える神道説に対する非難を、わざわざ問う者の説として提示し、これを反駁している。梅岩の学は、独学として雑駁、習合の特色を有することはすでに説いたが、その反面、極めて忠実に宋儒の説に従っているといえよう。
 しかもなお、梅岩の学は本質的には儒・仏・老荘・神道習合の思想である。神道を重んじたのは、若いころから神道を流布し、人を救いたい志を抱いていたためもあろう、また当時の謙虚な一般民として、神道を重んずるのは自然のなりゆきでもあったろう。その他、仏教でも禅とはかぎらず、各宗の教説などをしばしばとり用いている.しかもこれは時に無批判にとり入れていると、思想史家のある者たちから批判攻撃を受けているが、実はこれらの場合も、梅岩自身十分批判考究し、自分で納得がゆくようにしてとり入れているのであって、無批判の譏りは当らないというべきである。例えば、仏教は心の修養、精神面では非常にすぐれた教説ではあるが、現世における実践倫理としては儒教がすぐれているということなど、かなり具体的に説いている。結局、自ら都鄙問答で述べているように、名医があらゆる薬種を用いるごとく、自分の根本思想さえ確立していれば、神道・儒・仏・老荘あらゆる先賢の教えがすべて役にたつという考え方をしていたのであり、これが梅岩の思想をして、無理のない習合的思想を形づくり、その教説を豊か且独自なものにしているように思われる。

 車屋町での開講  かくして梅岩は、享保十四年(一七二九)四十五歳のとき、長い間の念願だった講席を開くにいたる。場所は自宅の車屋町通御池上ル東側で、門前には次の書付けが貼られていた。
  何月何日開講、席銭入不v申候。無縁にても御望の方々は、無2遠慮1御通り御聞可v被v成候。
 主家を退いたのは四十二、三歳だったから、二、三年の準備と工夫勉学の期間があり、準備は周到十分だったわけである。とにかく十数年以上忠実に奉公したので、狭いながらも居宅をもち、質素倹約な独身生活ならば、門人の束修などをあてにしなくても暮してゆけたのであろう。いや、たかが独学無名、地位も肩書もない山村出身で商家の一手代だった者が、道を説くというのであるから、門人の授業料をあてにするどころか、来聴者さえもはじめは殆んどなかったようである。狂気の沙汰とまでいわなくても、物好きにもほどがあると嘲るのが、世間一般の常識であろう。事実、はじめのうちは来聴者がない日もあったようであるし、たまたま来り会する者があっても、二、三人くらいのものであったらしい。親しい友人一人を相手に講義したこともあるというし、ある夜には門人がただ一人なので、気の毒だから休講したらと申し出たところ、梅岩は、今夜はただ見台とさし向いのつもりだったのだから、一人でも聴衆がいれば満足だといって講義をしたという。
 だが、いかにも梅岩らしく初一念を貫くその熱意は、やがて次第に人々の心をとらえることになった。親しい門弟も出来、さらにその勧誘で聴衆も次第にふえてきた。毎朝隔夜の講義の他に、月三度の月例会が開かれ、さらに享保二十年、開講してから六年目の十月には、高倉通錦小路上ルの大長屋の裏座敷で一ヶ月もの連続講義が行われ、男女多くの聴衆が集まるほどになったという。その無気味なほどの執念が遂に実ったのである。さらに開講後九年目の元文二年春には、車屋町の居宅では狭すぎるようになったためか、堺町通六角下ル東側に移転している、その他、京都市内でも、白山通二条上ルの布袋薬師ほか、二、三定まった場所での出張講義も行われ、さらには大阪や、門弟中ただ一人の武士であった黒杉政胤の領地だった河内の石川郡白木村(大阪府南河内郡阿南町白木)などにも、乞われて講義に出向き、一ヶ所で三十日、五十日という連続講義をしたこともあった。

 都鄙問答の編述  かくして自信を強めた梅岩は、門弟たちの希望慫慂もあってか、元文三年、都鄙問答の著述に著手することとなった、門弟が多くなってからは月三度の月例会も次第に活気を帯び、毎回題を出し、これをもとに各人が答案を作り、師を囲んで討論するようになったが、その折の材料をもとにして一書を編むことになったのである。四月下旬から五月上旬まで、数人の門人とつれだって有馬の温泉に出かけ、毎日早朝から夕方の五時ごろまで原稿の作成にかかった。この時の原稿は、現在も手島堵庵の子孫にあたる京都の上河家に伝存する。これと刊行された都鄙問答を比較すると、かなり甚だしい異同がある。つまり月例会の問答の筆記を取捨選択して成ったこの原稿は、有馬温泉で成稿後、さらに高弟たちの間に廻され、それらの意見に従ってかなり大幅な改訂推敲が行われたらしい。その刊行は一年あまり後の翌四年七月であった、かくて梅岩の思想の中心は、ここに都鄙問答として結晶し、後年のいわゆる心学思想の基礎がきずかれたのである。
 都鄙問答は、売本でなく、門弟や講義を聞く人のための一種の私家版として頒布されたらしい。従って序文もなく、初刷本には著者の名さえ誌されていなかったようである。だが、本書は思いの外の好評を得た。肥後熊本六所明神の神主行藤志摩守という、まだ二十四歳の青年だが、神主として一応の教養ある人物が、都鄙問答を読み、大いに感ずるところがあって、わざわざ来訪するなどのこともあった。はじめは自信もなく世間をはばかっていた梅岩も、そのためか、やがて巻末に「石田勘平著」なる著者名を入木するにいたったようである。かくて梅岩の書簡によれば、本書を講義のテキストとして用いたり、さらに自ら所々書入れなどをして、門弟に与えたりなどもしたようである。
 とにかく本書は市井一個人の私家版的なものから、のちのいわゆる心学という一つの学派の根本宝典へと発展し、その売れ行きもめざましく、版木の摩損により、少くとも三度も版を起すほど世上に行われたのである。
 一方、梅岩は道徳の実践を窮極の目的とすると説くばかりでなく、都鄙問答の刊行の翌年十二月には、門人と共に京都市中の貧窮者に施行を行ったり、或いは大火があれば炊出しをして罹災の人を救うなどの活動もしている。質素倹約を守り、清潔な日常生活を送るばかりでなく、実際の社会事業にも出来るだけの努力をしているのである。これはまた、のち心学者流の活動の一部門となり、飢饉などには自発的に社会救恤の業に努力するの風を起した。その点、明末清初の王学運動に甚だ相似ているのも面白い。だがともあれ、この誠実な社会救恤の志と実践は、その当時は勿論、のちのちまで世上の賞讃を博したものであった。
 それから五年、年と共に声名は高くなり、延享元年五月には、第二の著作「倹約/斉家論」を刊行することとなった。これはもと第一の高弟斎藤全門らが発起して、倹約の実践を申し合わせ、その序文を梅岩に依頼したところ、これが己の意にかなったので、広く世に拡めようと、自ら敷衍の筆をとって上下二巻にまとめ、自序を付して刊行したものである。時に梅岩は満六十であった。これも幸いに好評を得、売れ行きがよく、梅岩も門弟宛に大喜びの書簡を認めている。
 だが、五月に本書を刊行して半年、同年九月二十四日、遂に病没した。京都の鳥辺山の墓地に葬られ、一生独身で過した人として遺族はないが、門弟たちにより、年忌がきちんくと手篤く営まれている。青年時代からの初一念を果し、開講以来十五年、好評の斉家論を形見として、満足して世を去ったのである。晩年に文名を得た作家は幸福だとは芥川竜之介の言だが、志をとげ名声を得、随喜の門人にかこまれて世を去ったのは、幸福というべきであろう。

 心学としての発展、流行 さらに幸福なことは、梅岩の思想が、幸いにも直弟のうちでぱ最年少であった手島堵庵をはじめ、柴田鳩翁などすぐれた後継者を輩出し、その努力によって次第に普及、名も梅岩の時は性理の学、知性の学とよばれていたのが、心学と称されるようになり、梅岩生前には思いもよらぬほどの発展をとげ、その死後半世紀ほど、明和・安永から天明・寛政にかけては、ことに一大勢力を形成し、江戸にも堵庵の弟子中沢道二が講舎を開いて大いに流行し、心学の名を著書に冠して、販売に利用した戯作の書も出版されるほどであった。かく京都や大阪の一部から全国に普及し、社会教育、庶民の成人教育として、江戸後期における最も大きい功績をあげ、心学講舎の数は累計約二百に及んだという。
 また、明治以降にも、末尾の主要参考文献目録にあげたごとく、複刻本でさえ、岩波文庫本ほか十種も刊行されていることに徴しても、心学が依然広い層に浸透していることが知られよう。本拠地京都に明倫舎・修正舎、東京に参前舎、大阪にも明誠舎と依然その講舎が存続し、心学の修業の集会が行われていると共に、「石門心学会」なる全国組織も作られ、戦前には「心学道話」、戦後昭和二十八年三月からは、「こころ」なる機関誌の刊行が続けられ、また各地に講演会などもしばしば開催されている。心学は梅岩の開講以来二百余年、現在においても生きつづけ、かなり活撥な教化活動を行っているのである。

二 都鄙問答の成立、構成、諸本

 都鄙問答の最初の版は四巻四冊、かなり長短の差がある十六段の問答から成っている。内容も性理の問題などという本質論や、ある人物が親孝行をする方法についての問答など、特殊、具体的な問題を扱ったりして、比較的雑多な感じを与えるが、日本や中国のかかる著述類のうちでは、体系だった組織を備えている。すなわち、論語や孟子は勿論、理論的、体系的といわれる近思録などでも、かなり雑纂的な傾向があり、これに比すれば、体系のととのった著作と言うべきであろう。

 内容と構成  まず第一巻は「都鄙問答ノ段」に始まるが、この段は、梅岩自身の教化の志を語り、努力工夫の結果開悟し、知心見性したという。この自得したところは天の理であり、それはそのまま聖賢の道であり、また人各々が具有している性だとする。つまり本書の序論なのである。次いで[孝ノ道ヲ問ノ段」で、一般に子としての道を説き、さらに、「武士ノ道ヲ問ノ段」以下、士農工商それぞれの道があることを説いている。封建社会の倫理道徳として、まず階級的な職分について、それぞれに践むべき倫理道徳があることを説いている。即ち第一巻は、全体のいわば総論の形をなしている。
 第二巻は、「鬼神ヲ遠ト云事ヲ問ノ段」「禅僧俗家ノ殺生ヲ譏ノ段」に神道と仏教に対する自己の見解を述べ、これが梅岩の標榜する儒学にも反するものでないとする。神・仏・儒それぞれ相反するものとして、互いに譏るのは誤解であり、実はその説くところは一である。従って、いずれの教えもみな修養の助けとなる。つまり「一に泥まず、一をも捨てる」べきでないとする、続いて「或人親へ仕《つかへる》ノ事ヲ問ノ段」に親孝行の仕方について、我が儘で手前勝手な一人の息子を設定し、それの言説を一々反駁しつつ、具体的に親孝行の仕方を説いている。恐らく、実際梅岩が周囲に見聞きした人物、事例をもとにしたのであろうが、その対話は全く具体的で、いきいきしており、当時流行していた気質物小説のごとき面白さがあり、全体に素朴かつ理窟っぽい本書の中にあって、読み物としても生彩を放っている。最後の「或学者商人ノ学問ヲ譏ノ段」は、これまた梅岩の思想の面目躍如とした段である。社会的にも、当時士農工商の最下位におかれ、かつ「商人ト屏風トハ直ニテハ不立《タヽズ》」と、倫理的にも商人は嘘を事とする者として卑められていたのに対し、断乎としてこの世俗の見を論駁している.すなわち、孟子を引いて、商人が社会生活上極めて重要な階層であり、一種の市井の臣であって、決して武士や農民に劣らぬ重要な社会的意義を有しているとする。また「商人と屏風は直にては立たぬ」の諺についても、曲解、詭弁とも思われる無理な解釈を下しつつ、士人と同じく商人にもその道があり、正しく商人の道を踏み行えば、士人と同様世情人心を益するものと説く。商家に二十年以上も奉公して、つぶさに町人社会を見ながら、町人としての自己の倫環道徳を求めつづけた梅岩らしく、その説くところは極めて具象的、実際的であり、かつまたはなはだ熱のこもった語りロである。梅岩の倫理思想が広く町人層に受入れられ、さらに死後これが町人道徳として広く流行したのも、かかる独自の迫力と個性があったからと思われる。彼以前にも商人の立場を説き、人間として士人と平等であると説いた学者もあるが、徳川時代の諸学者の著述の中にも、これほど断乎として商人の社会的意義を唱え、誇りにみちて商人道徳を説いたものを私は他に知らない。この独自断乎たる町人意識は、すでに思想史家により、多少の注目をあびていたが、ことに近時特に高く宣揚され、竹中靖一氏の「石門心学の経済思想」などの良著を生んでいるし、或いはR・N・ベラーなど外国の学者も、その著「日本近代化と宗教倫理」中で、はなはだ高い評価を加え、日本が明治以降、他のアジヤの諸国と違って、短時日の間に封建社会から近代資本主義国家として発展した原因の一として、梅岩の思想を取上げているほどである。
 第三巻は、「性理問答ノ段」として、一巻すべてを性理の問題に当てている。考える人は原理的なもの、根原的なものを求めてやまない。まして梅岩は自ら述懐しているように、生来理窟っぽい男であり、一本気に一つのことを思いつめて、青年時代憂欝症になるほどの性格の持主であった。また道を説きたいという素志を持ちつづけて、そのために結婚もせず、二十余年の間、専ら読書と思索をやめなかったほど、日本人には珍しい偏執的な執着力をもっていた。そういう彼だから、単にケース・バイ・ケースにおける道徳的判断を説くだけでは安心出来なかったのであろう。それらの道徳的判断がなぜ正しいかという原理の問題が、終始彼の強い思想的関心事であったはずである。そういう実践倫理の根原をなす形而上学というものは、東洋思想においては、せいぜい仏教理論か、儒教では朱子学があるにすぎない。だが、仏教の細緻な論理構成をもつた壮大な体系を有する形而上学は、独学の梅岩にはとうてい理解出来るものではなかったろう。然るに朱子学は、当時一般に行われていた学問だけに耳近くもあり、また理論体系としても、その理気二元の形而上学は明瞭かっ単純素朴で、理解しやすかったはずである。梅岩の性理の論が、殆んどそのまま朱子学の理気二元論に従っているのはこのためであろう。易の朱子学的解釈ともいうべき大極図説をもとにし、形而上学のうちでも、宇宙論にまで遡って、一なる理が分れて気質の性となるとし、かかる形而上学の上から、日常卑近の道徳的指標の根拠を求めている。はじめ神道を志し、やがて禅的な開悟によって自己の思想に自信を得た梅岩が、その思想の形而上学的基礎を求めるのに、敢て朱子学に依ったのは、かかる事情があったのではないか。
 第四巻は、「学者行状心得難キヲ問ノ段」以下六段、いずれも具体的な問題についての問答である。これは梅岩が特に問題を設定したものでなく、自ら見聞したり、或いは門弟のうちに、かかる問題を持ち来った者がいて、それを月例の会などの論題として、門弟と一緒に考究、討論したもののうちから選んだのであろう。これは箒三巻の性理問答と違って、はなはだ相似た、時には殆んど同文の問答が、石田先生語録にも見出だされる点からも推定出来る。三巻までに主要な問題を説いたので、最後にこの巻は、具体的な問答の幾つかを掲げたもの、すなわちいわば判例集のごときものである。
 以上のごとく、都鄙問答は長矩さまざまであり、主題も異なるが、東洋の思想的な著述のうちでは、かなり体系だった組織を有しているといえよう。
 また、その説くところも、世間知らずの観念的な学者の論と違って、町人生活に密着し、はなはだ具体的であり無理がない。一々実例をあげて説くが、その実例が町人社会の日常茶飯の事例なのである。その点、町人には理解しやすく、またはなはだ関心の深い問題でもあったはずである。そういう個々の問題についての対処の仕方が、平易に説かれ、しかも単に、その場あたりの判断でなく、それがそのまま士人の尊ぶ聖賢の学、朱子学に通じ、更には易にいう天地根本の理にまでつながっているというのであるから、聞く者は深い信頼感を得、自信と安心感が生じたことであろう。心学が徳川後半期の町人社会に驚くほど普及流行した一因もここにあるのではないか。とにかく梅岩はあらゆる不利な条件を、努力克服して、遂に単なる哲学者、即ち、ともすれば論理を弄ぶのみの職業的な哲学者ではなく、専ら人生問題に真剣に取り組む思想家、即ち人生の師の域に到達した人であるといえよう。
 また、その説く理が俗耳に入りやすい親近性を有するばかりか、文章そのものもはなはだ平易である。これは梅岩が正規の学問を身につけていなかったためもあろうが、それよりも人に理解させたい、人が理解に苦しむことを避けたいという梅岩の気持によるものであろう。梅岩は、書簡はお家流を旨とすべきだ、お家流ならば誰でも読めて、受取る者が理解に苦しむことがないからだと説いている。即ち相手の苦労をさけるのが仁だとする考え方が、日常茶飯、起居動作にまで及んでいたのである。従ってその文章も、意識してなるべく平易に書いたように思われる。そういう心遣いもまた、都鄙問答、さては心学の庶民層への流布を助けた一因にもなっていよう。また、正規の学問のない人だけに、古典的伝統的な文体、用語、文章観にわずらわされず、自己の自由な発想をそのまま気取らなく表現し、俗語も多く、口語調、特に町人風の言葉づかいがそのままあらわれているところもある。その点、従来国語学史の方であまり利用されていないが、当時の口語を知る上の好資料であり、もっと広く利用されて然るべきように思われる。
 諸本 都鄙問答は、いわば心学者たちの論語であるから、心学の普及流行につれて、元文四年の初版刊行以後、しばしば摺を重ね、明治まで百三十年の間、管見に入ったものでも三版十種の本がある。これら諸本については、既に杉浦丘園氏に精緻な調査があり、現在まで唯一の諸本研究でもあったので、柴田実編の石田梅岩全集の解説にいたるまで、ほとんどこれに従っている。たしかにこの論考はすぐれたものだが、その初版本については見解を異にする。これは、底本の選定という、校定複刻には最も重要な問題に関聯する。敢て以下諸本について、卑見を簡明に述べよう。
 都鄙問答の版本は、表紙、冊数、出版書肆名など、書誌的面から見ると、かなり種類が多く複雑な異同があるが、基本的な版式の面からすれば、初版、再版、三版と大きく三つの類に分れるようである。この三類の下に、多少注目すべき異同のある諸本を第何種本として整理すると、次のごとくになる、
 初版本
 匡郭は一線黒枠。無罫一一行、振仮名付、片仮名交り。一行約二八字詰。
 ○第一種本 これは従来異本とされて殆んど省みられなかったが、実は初版本中、最も早い摺と目される本である。従ってこれを本大系の底本に用いた。美濃版の大本。四冊。表紙は茶色、紗綾形紋表紙。題簽は、楷書で「都鄙問答元(亨・利・貞)」。刊記は第四巻三十丁裏に、
   元文四年孟秋日
    平安書〓  山村半右衛門 小川新兵衛梓行
 右は拙蔵本によったのだが、本の大きさ、表紙、冊数などに、多少の異同のある本が存するようである。
 ○第二種本  第一種本を二冊とし、題簽の一部を改修したもの。杉浦氏の元文四年刊の異本と称される同氏蔵の一本がこれにあたる。題簽も「都鄙問答」の文字は同じだが、元・亨・利・貞でなく、「一之二」「三之四」。
 ○第三種本  杉浦氏のいう初版本である。第一種の架蔵本とほぼ同一だが、巻四の尾題の次に、「石田勘平著」とある。つまり、第一種本に著者名を入れた改修本と思われる。
 ○第四種本  第三種本の明和五年春の改修本である。小川新兵衛、小川源兵衛の相版、末尾に「門人蔵版」の文字が加えられている。
 なお、この明和五年は、梅岩の二十五回忌にあたり、門人らによって、その遠忌が修されている。

 再版本
 ○再版第一種本  新しく版を起した再版本である、覆せ版に近いくらい忠実に初版本に従っている。ただ引用した漢文の誤り、漢字・仮名遣・振仮名の誤りを数十箇所も訂正、かつ新たに振仮名を加え、また不適切な文字、不必要な振仮名は省いて、読み易いように周到な補正がなされている。「天明八年戊申十二月再刻」とあり、小川新兵衛、小川源兵衛の相版。また著者名が、尾題の下から「門人蔵板」の上の位置に移され、体裁をととのえている。
 ○再版第二種本 再版第一種本と同一だが、平安書林の下、小川源兵衛の次に、「上河庄兵衛」の名が加えられている。

このほか再び小川新兵衛・源兵衛の出した第三種本、或いは更に他の発行者の加わった第四種本以下の刊行もあったかもしれない。

 第三版本
 ○第三版第一種本 再版本と酷似しているが、新たに版を起した第三版本である。出版部数が多く、恐らく再版本の版木が摩損したので、三度目の版を起こしたのであろう。以て心学の流行や、都鄙問答が広く読まれた事実が知られよう。再版本の忠実な複刻だが、再版のとき訂正し忘れた箇所が、更に補正されている。
 ○第三版第二種本  出版書肆名が、小川新兵衛・吉岡新七の連記になっている。
 ○第三版第三種本  箒三版第二種本の版木が、吉野屋甚助の手に渡って売り捌かれたもの。嘉永四年頃の出版らしい。
 ○第三版第四種本  第一種本をそのまま用いていて、平野屋茂兵衛から発行されたもの。発行年代不詳。
 幕末から明治まで心学は流行していたから、この三版本の後刷本は、さらに右のほかの発行所からも出されているようである。
 なお、本大系で都鄙問答の底本に、今まで異本として省みられなかった本を、殊さら初版中最も古いものとして取上げた、その書誌的理由、及び諸本についての詳細は、拙稿「都鄙問答の初版と諸本」(「こころ」第十三巻第四号)を参照されたい。

主要参考文献

心学が開講されてから二百三十余年、しかも近世後期には甚だ流行したので、心学関係の参考文献は甚だ多い。そのうち主要なものを、(一)都鄙問答の複刻本、(二)梅岩の伝記、(三)心学一般に大別して、年代順に掲げる。雑誌論文は割愛した。

(一)明治以降の複刻本
 日本道徳叢書 第三巻  足立栗園 明34
 心学叢書 第三篇  赤松又次郎 明37
 国民文庫 道話集  明43
 日本教育文庫 心学篇  黒川真道 明44
 日本経済叢書 第八巻  滝本精一 大3
 有朋堂文庫 心学道話集  塚本哲三 大3
 心学道話集  三浦理 大3
 岩波文庫 都鄒問答  足立栗園 昭10
 評釈/心学道話集粋  石田文四郎 昭11
 石田梅岩全集 上巻
 上下二巻。梅岩の著作のほか、書簡、断簡の類まで収め、かつ都鄙問答の書入れまで収めた、梅岩全集の決定版ともいうべきもの。解説も詳細である。)柴田実 昭31

 (二)石田梅岩の伝記を主としたもの。
 石田先生事蹟  手島堵庵編 明和6成、文化3刊
 平民の教師石田梅巌(日本精神研究第三)  大川周明 社会教育研究所 大13
 教育家としての/石田梅岩 岩内越 昭9
 新選妙好人伝第七編  富士川游 昭11
 尊徳・梅巌(大教育家文庫)  西晋一郎 昭13
 石田梅巌  白石正邦・田辺肥州 昭16
 石田梅君(日本教育文庫) 石川謙 昭17
 石田梅岩(人物叢書)  柴田実 昭37

  (三)一般心学関係
 心学史要  足立栗園 明32
 心学提要  柴田謙堂 大15
 石門心学史の研究  石川謙 昭13
 心学 全七巻  雄山閣編 昭16-17
 石門心学小観  及川儀右衛門 昭17
 石門心学講話  山田敬斎 昭29
 日本近代化と宗教倫理(Tokugawa Religion, The Values of Preindustrial Japanの翻訳。性理問答の段の英訳ものせられている。)R・N・ベラー 堀一郎・池田昭訳 未来社 昭37
 石門心学の経済思想  竹中靖一 昭37
 雲泉荘山誌 巻之三「石門心学関係図書及資料」
 「心学道話」第三十四号、昭和五年十一月刊、「書史学より見たる都鄙問答に就いて」の論考に若干の補正を加えられたもの 杉浦丘園 私家版 昭7

凡例一 底本は、解説の諸本の項でのべた初版本中、最も早い摺と思われる元文四年刊の第一種本を用い、同じ初版本中の改修本と見做した第二、三種本、ならびに再版本、三版本を参考とした。

一 本文は、誤字・宛字・仮名遣いの誤りなどが多く、いかにも、独学の町人梅岩の著書らしさがある。往々私意を以て、清濁や文字を変えた複刻本が多いので、国語資料としても十分信拠利用出来るようにと、煩を厭わず底本のかたちを忠実に伝えるのに努力した。従って、誤字・宛字などもなるべく底本のままとし、特にはなはだしいもののみ頭注に注記した。

一 本大系の方針に従い、一般読者の便宜を計って、次の諸点では底本を改めた。
 1 会話、引用文、諺、成句の類には、「 」「 」をほどこした。
 2 底本の句読はすべて・であるが、文意により、。に区別し、また適宜補正を試みた。
 3 古体・変体・略体の仮名及び漢字の俗字・略字・古字の類は、おおむね通行の正字体に改めた。
 4 仮名遣いは、原則として底本のままとし、誤りがあっても訂正せず、その甚だしいものに限り頭注でふれた。
 5 校注者のつけた振仮名には、底本のものと区別するため()でかこんだ。この振仮名には、私に清濁は施したが問題のあるものにはいちいち注記した。仮名遣い、平仮名、片仮名の別は底本のままである。
 6 送り仮名は底本のままとして特に補わず、それが足りないため読みにくい場合には振仮名によって補った。

一 補注は、考証を必要とするもの、また書入れなど長文の引用、及びやや専門的な参考資料を掲げた。参考資料には主として、朱注を用いた。梅岩が専ら論語・孟子以下朱注を一言一句そのまN引いているからである。なお、補注においては、書名には、特に紛らわしい場合を除き、煩をさけて「 」を施さなかった。
 なお、頭注と補注に、しばしば「書入れ」なる文章を引いた。これは刊本の本文の行間や欄外に細字でぎっしりと書入れた厖大な量である。更にそれでも書ききれない場合には付箋を以てこれを捕っている。内容は主として、本文中の引用句に対する出典、字句に対する注釈、或いは同じような思想を述べた古典類の文章を引いて解釈の参考としようとしたものである。即ち、都鄙問答を講義する時の講義テキストとして作られた書入本なのであろう。
 誰がこの書入れをしたかについては、稀に書入れの終りに富岡以直などと署名があるのでわかるが、大部分の書入れの主は不明である。だが、ただ一箇所ながら、梅岩の署名のある書入れ(巻之一、孝ノ道ヲ問ノ段)もあり、かつ石田梅岩書簡集によれば、斉家論に書入れをして差上げようという文辞も見えるし、梅岩自身、丹念克明な性質であるから、講義用のテキストや、門人に与えるテキストに書入れをしたものであろう。それを、梅岩死後高弟たちが集まって、互いに討論研究し、増補したのが、現在の書入本のようである。というのは、殆んど同内容の書入本、つまり共同で制作した一本を各々が副本をとったと思われる諸本が、現在京都の明倫舎、東京の参前舎その他に伝わっているからである。このうち、山田敬斎氏本には宝暦十一年筆写の年記があり、梅岩没後わずか十七年には既に成立していたことになる。すればこの書入れは、梅岩自身の説も直接入っているばかりか、その教説を直接聞いた高弟連中の増補したものだから、都鄙問答の発想、思想を考える上には、甚だ貴重な資料というべきであろう。だが、不適切なものも多いし、「孝経にあり」などといいながらも出典を誤っているものもあるし、また出典の引用も、徳川時代の町人のした仕事であるから、誤字・脱字も多い。だが、梅岩ならびにその高弟、更にはそれ以降の心学の人々が、都鄙問答をどのように解釈し、受容したか、神儒仏の経典類と都鄙問答の思想をどのように比較習合したかという点が推測出来る場合が多い。かく思想史的に見て、具体的な示唆に富む好資料なので、あまり不適切なもの、重要でないもの以外はやや煩わしいが敢てこれを掲げた。

一 なお、梅岩は専ら朱子学のテキストに従っているので、本書でも、引用文は論語以下集註本、乃至は朱子学の注釈本によった。「書入れ」もこれと対校し、誤脱のある所は注記して補っておいた。
 本書の底本とした本は、山田敬斎氏から、その所蔵本の御恵与を忝くしたものである。注釈の成った今、同氏は既に故人となられた。霊前にその御好意を深謝申上げる。また、原稿の浄書には及部実恵さんの助力を得た。併せてその労を謝する。

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最終更新:2017年01月03日 20:22