山口剛「肩の凝ものがたり」

      はしがき
 癇癖と書いて「くせ」と讀ませたのが上田秋成であった。『癇癖談』と書いて「くせものがたり」と讀ませたのが、有名な彼の隨筆であった。その隨筆は世間を白眼視する彼が、いひたい放題、いひたい存分の罵詈を世間にあびせかけてゐる。癇癖といふ字が「くせ」と訓めるのか、と訊ねもしたら、彼が苦い顏をするのは目に見えるやうな。そんな詮議にあはぬやうにと、彼がまつ眞先にしるしつけてゐる言葉、
人ごとにひとつの癖とは、むかしの諺ぞかし。今の世の人は、心辭のくせの外にも、たつにも癖、居るにもくせ、それにもこれにも癖なきはあらぬを、みつからは癇症と遁るゝを、他人からは惡癖とも、氣まゝ病とも名づけたり。さてその誹れる人も、亦この癖なきにはあらねば、人のくせが世のすがたとなりて、高きも卑しきも、みやこも田舍も、あまねく云ひはやり、癇癖談を、癖ものがたりとも、讀めばよめかし。
 いふことが、いかにも秋成その人らしい。この言葉の蔭だけにも、秋成の本性が潛まってゐるやうに思はれる。
「肩の凝ものがたり」は、そんな根深いところから出てゐない。癇癖ならぬ痃癖、ただこれだけの話である。もの書けといはれて、筆執る度に、約束の日に間に合はぬがこの頃の常、それも痃癖と遁れるのでない。眞實痃癖の苦しみに、筆がままにならないのだ、ただの一度でもよい、痃癖のゆゑにを、盧言僞りの言葉としていってみたい。今度のこれもいつれ〆切の日に間に合ふまいと、腹をきめてかかって書きはじめる。書けといった人が、信用しないなら、しないでもよし、氣まま病と思はば思へと落ちつき拂ひながら。
 道具からいへば、西鶴の『好色一代男』の「身は火にくばるとも」の章の炬燵も、近松の『心中重井筒』の中の段の炬燵も同じものではあるが、その道具の扱ひ方、それを利用する趣向からいへば、全く違ってゐる。二つの作の上に何かの關係があるないの詮議立はさておいて、しばらく面白い封照として考へて見る。
「身は火にくばるとも」の炬燵は、結局太夫夕霧の利發を見せるための道具であった。その日夕霧が約束の客があったに拘らず、世之介としのび逢ふ。も少しでその客に見つけられる危い瀬戸際を、用意巧みに逃げおほせることを書いた原文の一節は、ここに引用してもさし支へのない程に短い。例の西鶴の簡潔な筆つかひである。
雨の夜風の夜、雪の道をもわけて、此戀かなふ迄と逋へば、心の程を見定め、其の年の十二月二十五日、さも鬧しき折ふし、けふこそしのべとの、御内證、さる揚屋にいつよりははやく、御出あって、待給ふこそ嬉しく、上する女に、心をあはせ、小座敷に入て語りぬ。如何思召しけん、火燵の火を滄させて、折柄のはげしきに、是をふしぎに思ひながら、數々わけもない事共して、興ある所へ、其の日のお敵、權七樣御出と、呼つぎぬ。すこしもせかず、火燵の下へ隱れけるこそ、最前をおもひ合て、かしこき御心入、忝くて、たとひ、やけ死ぬるとも、爰ぞかし。彼男、不思議のたつやうに、べつの事もなき、文持ちながら、臺所へ逃げられしを、男追掛、みる、見せぬのあらそひ、しばし隙入るうちに、世之介は裏へ、戀のぬけ道有ける。
 炬燵を戀のかくれ家とするのは、『重井筒』のおふさ、徳兵衞のしのび逢ひの場合も同じ事である。ただそれには夕霧のやうな心づかひがない。從って戀のぬけ道がない。かくれおほせぬ苦しさがある。そこが近松の趣向であった。
 紺屋に入聟した徳兵衞の兄の家が、大阪六軒町の色茶屋重井筒、徳兵衞が女房子供を忘れて戀ひ焦れてゐるふさは其處の抱女である。兄夫婦は早くから二人の仲を知ってゐる。どうがなして逢せたくない、別れさせたいと思ってゐる。徳兵衞が重非筒に訪ねて來たのは、十二月の一夜のことである。炬燵のある小座敷に、やつと嚴しい監視の目をよけて、語り合ふ二人には悲しい事だらけ、聲を立てずの絞りなき、炭火も消えて凍るおもひのみせられる。
 その聲を聞きつけてか、兄がその座敷に入って來る。慌てふためいた徳兵衞は、ふさを炬燵の中におし入れて蒲團をかぶせて、上にもたれて覆になる。
 兄は悠々と炬燵に當る。それどころか、火が薄いと女房にいひつけて、あかあかと池田炭を炬燵に移し入れさせる。それを見てゐる徳兵衞の惱みもさることながら、炭火の熱さを忍び耐へるふさの苦しさは一段と甚しい。
ちといけて清しませうと、寄らんとすれば其まゝ置きやと、止められては、炬燵より胸を焦すは徳兵衞、ふさは涙の埋火に燒き付けらるゝ身のくるしみ、蒲團のかげより手を出し裾にとり付き、堪へんとするに耐へがたき、地獄もかくやと不便なり。
 一旦は懲しめのためと、さうした兄も、さのみは哀れと思って、奥の一間にたち歸る。あとに徳兵衞は小腹立って、櫓も蒲團も一つに掴んで取って投げる。
咸陽宮の煙の中に顏も手足も紅の、ふさは目ばかりじろ〳〵と物をも言はず片息の、性根も亂るゝばかりなり。やう〳〵に抱き上げ袂にあふぎ身をさまし、花活の水さいはひと、顏にそゝぎ口濕し、すこし心もさわやげり。
 これほどの苦しみは、本來は『好色一代男』の世之介も亦嘗めねばならぬ筈であった。それを涼しい顏で澄してゐられたのは、全く夕霧の用意ゆゑであった。かう比較することに於て、彼女の利發が今更に考へられる。さういふ利發の女性に何の心中沙汰があらう。賢しさがおのれを全うし、おのれのいとしと思ふ人を全うさせ、二人の戀を事なく保たせたのである。この炬燵の呵責から、早速に心中と胸を定めるふさ徳兵衞とは、心の持方がすつかり違ふ。この一事からでも西鶴と近松の人物の扱ひの異同が明瞭にならう。

       二

『心中重井筒』には、徳兵衞の兄の意見の場の外に、も一つ意見の場がある。重井筒の女房がふさに封する意見である。時からいへば、炬燵の場に先だち、事件からいへば、後の張意見と違って、やさしいしんみりとした情を傳へてゐる。趣向の裏は同じことであるが、おもては相應の距離を有ってゐる。あれとこれとおのつから對照をなしてゐる。『心中重井筒』はもとより上中下の三段から成ってゐるが、この封照は中の段に於て短い間に行はれてゐる。近松の意識的企圖かとも思はれる。
 周圍の事情は、早くからふさに死の覺悟をさせてゐた。月光りに剃刀の砥合はせをするのもこれがためである。と見てとった女房がそれとなしに剃刀をとり上げておいて、さて靜にいひ聞せる意見、
是なうふさ、いつぞ〳〵と思ひしが、ついでにそなたに意見がある。我もはじめは勤の身、素人のいふことゝ一つに聞けば曲がない、心しづめて聞いてたも。廓やこゝの奉公はたのしみなうては勤らず、むげなう堰くではなけれどもそれにさへなほ駈引あり。必ず妻子ある人と末の約束せぬことぞ。男の間男同然にて思ひばか行かぬものぞとよ。徳兵衞さまとも今は挨拶切ったとある。ヲゝ〳〵仕合々々、めでたいこと。お辰さまを離別させ、添うてそなたの本望ならず、いとしい人の身のひし一門中のにくしみ受け、そなたを鬼よ蛇よといふ、又かこはれて世を忍び、後家同然に暮しても、これが何の手柄そや若木の花は一盛り、老木の枯葉色失せて變るは男の心ぞや。餘のお山衆と違うて、十の年から子飼にて、豆腐とて來い八百屋へ走れ、駕籠呼んでおじや、掃き掃除、戸棚の鍵まであづけしは、小いからの馴染だけ、わが子のやうに思はれて、よい客もがな出世させ、 下女の一人も連れさせたう、思ふはこちとばかりかは、皆親方は同じ事、わけもないこと仕出してむごい目見せてたもんなや。爲のよいことあるならば、今でも暇をくれといや。慾をはなれたこれ證據、損というてわづかのこと、不便な目を見ようかと案じ過しがせらるゝぞや、思ひもよらぬ憂ひをかけ、かならず泣かせてたもんな、
『一代男』の引用に比較すればやや長すぎる。しかし、引用せずにはゐられないほど、巧みを盡した言葉である。この眞實籠った言葉が何ぞの折にはよく引合ひに出される。『重井筒』の意見とさへいへば、炬燵の強意見は忘られて、これのみが人の口の端に上りがちである。
 重井筒のうへ越した粹な意見もうはの室、おまへに迷ふ心からおもしろい氣で聞いゐた。と薗八の『鳥部山』にいふ重井筒もこれである。
シタガまた絞の吉兵衞とやらのことを聞合はして見たれば、女房子もある人さうな。そりや、かしく惡いぞや、
 重井筒の文句にもある通りじや。マアとつくりと思案しや。と『おその六三』の狂言で、抱主油屋喜介が藝子かしくに意見した言葉の中の重井筒もこれである。
 油喜の意見の場は、そつくり『重井筒』の女房の意見に據って書かれてゐる。その女房役を亭主にかへるとて、「聞けばこのかしくには、此頃どうか間夫とやら色客とやらがあるとの噂、その事もとつくりと糺しませうと思へども、私が口から申しますると、どんなもので御座りますゆゑ、女房どもにいひ含め、いつぞはとくと意見して、御執心御かけ下さる御客さまの御心に隨ひますれば、その身も出世、親方も大慶と思ふ矢さきに云々」とまで、周到な用意を以て書かれてゐる。しかし、奪胎の狂言には、本據に於ける重要な一條件を逸してゐる。前後の筋の運びが、油喜意見の場ではさまで必要でなかったらうが、本據では最も效果の多い條件であった。その事なしに、重井筒の女房がふさに意見したなら、その場の情景はどんなに寂しからう。その事とは何であるか。女房がふさをして肩を揉ませることである。肩を揉ませながら、ふさに意見することである。
 ふさの覺悟を知った女房は、ふさの手から剃刀を奪っておいて、わざと肩を揉ませる。意見に效果あらしめるためである。近松の本文は最も明かにそこの心を寫してゐる。
ちとその剃刀貸してたもと、ひったくり押包み、しばしは顏を打守り居たりしが、アゝ一昨日の煤掃にたんと肩がつかへた、そろ〳〵揉んでたもらぬか。あいと後に廻りしも扨はけしきを見とられしと、悲しさ怖さいやまして、更に分ちもなかりけり。さすがそれしやの女房とて、世間話に氣をゆるさせ。

       三

 肩の凝を知らぬ者に、肩の凝の苦しさを語るぐらゐ、愚なことはない。肩の凝を知らぬ人に、按摩の嬉しさを告げるほど、甲斐のないものはない。
 何の因果で、このやうな氣も遠くなりさうな、こんな憂目を見ることぞと肩さきを押へて呻いてゐる折は、見るもの、聞くもの、ただ疳癪のたねばかり。そんな時には、あの平賀源内の憤懣は、世に用ゐられない不平からのみ發したのではなからう。一つには痃癖のつかへも手傳ってゐたらう。さればこそ、身内から火を取る機械なども工夫したのであらう。今ならさしむき電氣按摩といふところであらうものを、などと考へずにはゐられない。
 しかし、手練の指さきが肩さきへかかるとすぐに、思はくは違ってくる。凝といふ凝をすつかり肩から揉み出して、背すじを眞すぐに腰のたばねにまで追ひ退け、なほも脛から足のさきにまで追ひ詰め、擧句のはては足指の一折毎のポッキポッキに、身内から退散させる按摩の妙術に、心身をゆだねる時のうれしさ。よくぞ肩の凝といふものを知ってゐた。それを知ったればこそ、この大歡喜を接し得たことそと、日頃の肩の苦しさまでも祝幅したくなる。
 夏の夜の靜かな折、舟を湖の廣きに泛べたことがある。漕ぎゆくことややしばし。棹もささず、櫓も推さずに流れのままにまかする。肱を枕にながながと舟なりに身を伸して、おのれひとり舟中に月を領する。舳の方からコトコトと輕いかすかな音が聞えて來る。音だけでなかった。コトコトが頭がみから、首筋へ、肩へ、胴へ、腰へ、それから足さきまでをゆるがせて行く。流れがしつかに舟底をたたくのであった。ふとそれに氣つくと、もう全身は耳である。何やら嬉しく、なつかしく、丁度お伽ばなしの世界へでも來たやうな思ひのみせられた。
 肩の凝が揉みほごされたあとしばらく、ぐったりと疲れた身を床の中におく。仰のけざまに何おもふとなしに、天井に眼をやる時、よく聞きつけるのがあのコトコトである。しかし、それは舟底の妙音ではない。果してさうかどうかは知らないが、感ぜられるのは肩の凝に妨げられてゐた身うちの血が、何のよどみもなく、流れゆく音である。そんな時である、母に添寢の夢の安さまでをおもひ出すのは。
 血の流れのコトコトであるか、ないかはともあれ、「素直」といふものが、音なして全身を運行するのは、この時に極まる。コトコトは「素直」が身内に行き亙った折に止む。これのみは事實である。少なくとも肩の凝性の者にとっては眞實であり得る。
 人の言葉をそのままに、何の曲解もなく、誤解もなく、素直に受け容れるのは、この時である。他の意見に對して、意味なき反抗や反噬を加へずに、謹聽の態度をとるのはこの場合である。
 近松が『心中重井筒』の意見の場に、肩揉の段どりをつけたのは、この間の呼吸を運び來ったものであらう。といひ來ってすぐに氣づくことは、あの人形の舞臺では、肩を揉んで貰ってゐるものは意見をする者であり、揉んでゐる者が意見を聽く者であることである。兩者の關係はまさしく顛倒してゐる。再び考へ直さねばならない。

       四

 心理學的説明はどうでもよい。揉む者と揉まれる者との間には、おのづから心の交渉が有らねばならない。
 肩の凝を直すといふ事からいへば、電氣按摩も隨分と役には立つ、しかし、どことなくもの足りないのは、一點人情味を缺くためである。どうしても按摩の手に及びもつきさうもない。
 震災は永い下町住ひからわたくしを逐ひ出した。山手に住ひすると共に馴染の按摩さんと縁を切らねばならなかった。かなりの辛さがあった。しかしその住ひ近くに盲學校がある。新なる交渉がそこの按摩術學習の生徒さんとの間に起った。生徒さんの或者と漸く馴染を重ねる頃には、その人々は學を修め、按摩の術に達して郷里へ歸ってゆく。別れを惜む心が揉む者、揉まれる者の相互の間に起る。郷里からの音信、その返事、それも代筆やら、讀んで聞かせて貰ふ間接なものでなしに、あつちの手でうった點字の手紙、こっちの手でうつ點字の手紙の交換がしたくなる。そんなところから點字の稽古の慾も起って來る。一時の茶目氣分でない。
 教室で馴染む、やがて時來れば別れねばならぬ自分の學生との交渉は、隨分久しきに亙る。相應に多い。さうして別れた人々の何人が盲目になった場合には、やはり點字の稽古をなどとも思ひもしようが、ほんの時折の交渉しか持たない他所の學校の生徒との間に、こんな考を起すといふのも、畢竟揉む揉まれるの關係がさせることである。つくづくと肩の凝がとり持つ縁の深さとおもはれる。『重井筒』の揉む者と揉まれる者の、意見に對する位置の顳倒は必ずしも問題でなかった。
 若い同士の戀情は、しばしば肩揉から起る心的作用を利用する。人情本の世界に開展する情景としての一例、
「なんだか肩が張って來たわ。
「ちっと揉んでやらうか。
「お前はんのも揉みますから、わたいのも揉んでおくんなはいな。
「俺のを先へ揉んでくんねえ。
「わたいのが先でなくッちゃ嫌さ。
「蟲のいゝ事を云はア、腹さんざ揉ましておいて、逃げようと思って。
「何、人ウつけ、此間なんぞも王子の扇屋で、お湯へはひった時に、洗ひツこをしようなんぞと云って、わたいに先へ洗はしておいて、さっさと上って仕舞ったくせに。
「夫れぢゃ、拳でいかう」と彦三は負ける故、小金の肩を揉みながら、
「お前段々肥るの。
「そんなにひどくしちゃア痛いやね」とかくたはいもなき業くれも、好いた同士のその仲には千萬無量の樂しみならん。
 この人情本は『春色戀廼染分解』、作者は爲永春水である。
「何だか肩が張って來たわ」といふ小金も、實はそんなに張ってゐたのではなからう。「一昨日の煤掃にたんと肩がつかへた」といふ重井筒の女房も、さうまでの凝ではなかったらう。共に肩の凝を裝ったのである。裝うて利用しようとするのが二人の肚である。戀の戲れにも、しんみりとした意見にも、これが甚だ都合よい。動機は違ふが、利用の方法は同じことである。近松と春水と作の意は違ふものの、ここの場合だけは、肩揉の工夫では一致したのである。

       五

 自分のやうな散切頭では、ついぞ知る機もなくて終ることであらうが、縺れた髮を、櫛の齒のスウとばかりに、梳いてほどいた時の快さはどんなであらう。多分凝り固った肩を揉みほこされる嬉しさと、一つものにして考へてもよくはなからうか。
 髮を梳く者が、梳かれる者に意見する場面は、多くの作の中に見られる。中にも一中節の『小春結髮の段』などが注意される。
 近松の『天網島』を據りどころとする作では、もう死を覺悟する小春のなげきを寫し出してゐる。髮に縁ある言葉が續けられてゐる。
黒髮の亂れて、今の憂き思ひ、目には泣かねど氣につかへ、胸に涙の玉櫛笥、むかふ鏡はくもらねど、寫す顏さへ水櫛や、梳けど心のもつれ髮、結ぼれ解けぬ身のうへを、つくぐどうか笄の、おもへば濟まぬ事ばかり。
この小春の髮を梳いてやるお綱は、早くもその樣子を看て取った。お綱はもとより粹の果の身であった。
わたしも元は廓にて、面白いこと、派手なこと、わけのあるだけしつくして、戀と情の二つ櫛、色はつとめの樂しみぞや、つらいせごしの辛棒は、縁と月日を待つがよい。
などと意見する。しかし小春の決心はなほ轉ずるに至らなかった。さうさせるのは小春のかなしい運命である。
「わが身のむかしつまされて、意見ばなしに、元結のしまりもよしや結ひ心」といふやうなお綱の言葉も運命の前にのみ效果がなかったのである。作者は一方にそれを聽いても、なほ從ふことの出來ない小春の運命を特にかなしいものとして傳へ、一方にその意見の言葉に力を籠めていひつづけてゐる。
 その言葉が、『重井筒』の女房の意見の言葉を踏襲してゐることは勿論である。
 丈の黒髮を梳いつ、束ねつする所作は、胸底無限の情怨を寓するに最もふさはしい。劇として好んで演ぜられる。髮梳の名さへある所以である。
 髮梳は多くの場合、おのがままならぬ思ひを喞つ所作になってゐる。それを意見に轉用したのが、『小春結髮』の新しさである。その新しさはまた『重井筒』の肩揉の趣向踏襲から與へられたのである。
 髮梳がさういふ趣向に到逹するまでには、かなりの推移變遷があった。そのあとを辿ることは、ここには必要がなささうである。
 誰知らぬ者のない『四谷怪談』にも髮梳の場がある。あはれむべき女房お岩は、隣の伊藤喜兵衞が贈った血の道の藥を服した。藥は實は面相を變へる毒藥であった。服むすぐに二目と見られない醜さ。當のお岩でさへ、着物の色合ひ、頭の樣子でのみ、鏡にうつる自分を認めるほどである。
 隣へ行ってうらみつらみをと思ひ立ったが、せめて女の身嗜み、鐵漿もつけ、髮も梳き上げてからと支度にかかる。
 舞臺では獨吟一ぱいに鐵漿をつけてしまひ、それから因縁のある櫛を見て、
「母の形見のこの櫛もわしが死んだら、どうぞ妹へ。アゝ、さはさりながらお形見の、せめて櫛の齒を通し、もつれ髮を、オゝ、さうぢゃ」
といふ白がある。そのあとを脚本にはかう書いてある。
トまた唄になり、件の櫛にて俯向きになり、髮を解き、こまかに梳く。赤兒泣くを宅悦抱いてあちこち歩く。このうち唄切れる。お岩、髮を後へ下げ、この時正面を向くと、生え際うすく拔けあがり、なほさら凄き顏色となり、前へ落毛山の如くにたまる。右の拔毛を櫛と共に持って思ひ入れ。
「今をも知らぬこのお岩が、死なばまさしくその娘、祝言するはこれ眼前、たゞ恨めしいは伊右衞門どの、喜兵衞一家の者どもゝ、なに安穩におくべきや、思へば〳〵、エゝ恨めしい」
トいひながら、持ったる拔毛を櫛もろとも、きつと掴み、思ひ入れ、この髮の毛の中より血しほ、タラ〳〵と落ち、前へ倒れし白地の衝立へ、その血かゝる。
 かういふ變態の、しかもおそろしい髮梳の場もある。女の髮は美しくも、やさしくも、凄くも見うけられる。その場その場の心からである。髮の凄さを縱にすること、この場の如きものはあるまい。しかも、その凄さを髮梳が持つ哀婉の上に浮ばせたのである。けだし南北得意の手段であらう。

       六

 南北は『四谷怪談』より前に、一度髮梳を怪談劇で用ゐたことがあった。『阿國御前化粧鏡』の世繼瀬平内の場である。
 病めるお國御前は、男のあだし心にたへ難き憤怒をおぼえた。男の在所を索めて、うらみをいひにゆかうとする。
 家來瀬平に鐵漿道具を揃へさせて、鐵漿をつける。その間凄き合ひ方、よき時分、暮六つの鐘。つけ終へて鏡臺に向ひ、瀬平に髮をあげさせる。
 瀬平怖々うしろへ廻り、櫛を持って、かきたまりし髮へ櫛の齒を入れ、こぐらかる故、櫛取りの出來ぬ思ひいれ。お國御前焦れて手を伸し、瀬平が持った櫛を引ったくり、わが手に髮を梳く。この毛段々と櫛の齒にかかり、拔けて、けんつうになる。お國御前は拔けた髮と密書を持ち、キツと見詰めて無念の思ひ入れあって、
「妾を僞はる四郎次郎、いづくにあるとも女の念の」
と立ち上る。瀬平ひきとめる。お國御前キツとなって、
「このまゝ死すとも、ナニ安穩に、チエゝ」と持ったる髮と密書を一緒に捻ぢきる。ドロドロにて捻ぢきれし髮毛より、血しほタラタラと落ちて、側の衝立へかかる。
 南北はこの作に於て髮梳利用の效果を實證し得た。その效果を再び『四谷怪談』に期したのが、例の雜司ケ谷四ツ谷町の場であった。尤も南北の髮梳氣分を用ゐたもの、すなはち變態の髮梳の場はこの二作以外にも少なくない。髮梳の氣分は髮を梳く動作をふりにまで樣式化することによって得られる。肩揉、灸すゑの氣分もまた同じ手續を要する。

       七

 たかが灸をすゑるまでであるが、その動作はおのづから立派な振を構成する。すゑる者と、すゑさせる者との間に、情緒の纏綿を期することが出來るからである。
 たとへば曾我狂言で、虎が灸をすゑ、十郎が灸をすゑさせるとすれば、おもしろい一齣が出來上る。
 享保十一年三月江戸の中村座の『大櫻勢曾我』の中の灸すゑは澤村宗十郎の十郎、山下金作の虎で大當りをとった。
 河東の淨瑠璃外題は『巖のたゝみ横』であった。その一節、
風の襖をさし艾、さしも習はぬ竹箸の、紙にかゝれば、取り直し、節のないのはわれ二人、すゑてやるのが恩ならず、すゑさするのを、恩にして男心の憎いのも、嬉しきほどの野暮となる。貧の病は苦にならず、外の病のなかれかし。左よりまづすゑそめて、右にとめるも夫婦あひ、灸に吉い日と定むるは、暦に任す世のならひ、だましすかして、さながらに大人氣ないとはぢしむる、熱さこらゆる戲に、一方に、思し召すかや、深きかや、人を思ふか、慕ふかや、逢へば別れをそのまゝかこち、煙管取る手に横雲わたり、竿なぐる間もやるせなや、禿はそばに居睡のかほにあたごの山を見よ、いまふた火との何いつはりも、男思ひのかり言葉、ねきりはきりの呪の、あつゆにひたす手拭の濡れてかはかぬ、
 虎と少將の姿、動作がどうであるかは、この詞章のおもてからも、ほぼ推察される。髮梳の氣分をそのままに繼承して、新しい樣式を持った舞臺が喝采を博したのは無理もなかった。

       八

 本來ならば幾多の考證を經てからいふべきことであらうが、『心中重井筒』の肩揉の趣向も、もとはといへば、髮梳の傳統の上に成立したのであった。
 その髮梳と肩揉と、また灸すゑは或は還元し、或は分岐して、變化に變化を重ねつつ、丁度縺れた絲の樣にわが劇史の上を縫ってゐる。同じ心理を表現しながら、樣式を異にする三者の關係が入亂れて、わが演劇の世界に起臥消長する状は、なかなかに看過し難い。さりとて、その經過を詳かにするには煩瑣な手續きを履まねばならない。ここには避くべきである。
 ただ近松半二の『新版歌祭文』とよりは、『野崎』とさへいへば、知らぬ者なき一場だけは一應は考へておきたい。
 久作は久松に肩を揉ませ、おみつに灸をすゑさせる。年は寄るまいもの、さつきのやつさもつさで、取上したか、頭痛もする、いかう肩がつかへて來た、といふのを聞いて、久松が揉みにかかる。「孝行にかたみ恨みのないやうに、おみつよ、三里をすゑてくれ」とおみつに灸を頼む段取りは、作の表からいへば當然であるが、つまりは肩揉と灸すゑを一つにした趣向である。そこに新しい樣式の存在がある。
「サア〳〵親子ぢゃとて遠慮はない。艾も痃癖も大掴にやってくれ」「アイ〳〵、きつう痞へてござりますぞえ」「さうであらう、〳〵。次手に七九をやってたも。オットこたへるぞ、〳〵」「サアすゑますぞえ」「アツゝ〳〵、えらいぞ、〳〵。あすが日死なうと、火葬は止めにして貰ひませう。丈夫に見えてももう古家、屋根もねだも一時に割普請ぢゃ、アツ〳〵」
 この灸すゑ、肩揉は、親子と許婚の親密を見せることになってゐる。そこには意見の必要はないことになってゐる。しかし、さうあるべきこの場を、はじめから、さうさせない所に、作者の新しい工夫があった。親は不言の間に意見をしてゐる。二人一緒に灸をすゑさせ、肩を揉ませるのが、もう意見であった。意見は二人に對するだけでなく、隱れしのんでゐるお染へも、當ててゐる。許婚同士は同士で、それとなしのもの爭ひである。お染を中へ挾んでのあてこすりである。つひそこれまでにない灸すゑ、肩揉であった。
 作者の工夫は久作の意見をそれだけで濟まさせなかった。肩を揉ませながらする約束の意見をば、わざとはづしてする事にした。
 はじめからお染の居ることを知ってゐる久作は、無理におみつを納戸に連れて行ったのは、久松とお染を逢はせてやるためである。逢はせながらも、二人の無分別をおそれてゐる。されば二人の心中の相談を知ると、どうしても棄てておけない立聞である。
 ——始終うしろに立聞く親、その思案惡からう、といはれてはつとお染久松——
 二人の騒ぐのをおさへて、眞實眞身の張意見がはじまる。骨身にこたへた二人は、どうしても思ひ切ったといはねばならなかった。
 この段取りが在來の型を追ひながら、型を破ったことになる。義理人情の縺れの面白さもさうであるが、これも『野崎』の興味の一條件であった。

       九

「肩の凝ものがたり」は肩の凝るものがたりとは違ふ。肩の凝を題材とする一つ二つを拾って、わづかにその傳統を辿ってみようとするための筆すさみである。その一つ二つもよく知られてゐるものに限ることにしたのも、肩の凝らないものがたりをと思ったためである。
 といふのはどうであらう。眞實は折からの肩の凝が何を書かうの當惑の矢さきに、この題を決めさせたまでである。決った題のあとを追って、本文がやつとここに追ひついたといふだけのことである。



『山口剛著作集』6
「肩の凝ものがたり」は、雑誌『経済往來』昭和三年十月號に發表。後に『紙魚文學』に所収。
とのこと。

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最終更新:2018年11月26日 11:40