――ああ、まただ。
京太郎は、全身の自由が失われていく感覚に目を閉じた。
首を絞める鋼鉄の輪。
手足を縛る冷たい枷。
自分にしか見えない無機質な鎖。
「京ちゃん、お腹痛いの?」
「いや……何でもない」
「何でもない……って」
幼少時から続くこの感覚は、誰にも共有する事は出来ない。
不安気に顔を覗き込む幼馴染にも理解はされないだろう。
「本当に、大丈夫だから。ちょっと考え事してただけだ」
「ん……なら、いいけど」
この繋がれた鎖の先に、何があるのか。
それを知る日は、来るのだろうか。
「ほら、そんなとこで本読んでたら目ぇ悪くなるぜ」
私には、幼馴染がいる。
「だからって外に出てまで本読むヤツがいるかよ……」
人の気持ちなんか知らないで。
「が暮れてもまだ読んでんのか……スゲぇよお前」
ズケズケと入って来て。
「ほら、コレ。風で飛ばされてたぞ」
放って置けばいいのに。
「やれやれ、本当面倒くさいなお前」
それはこっちの台詞なのに。
「よっと……気持ちいいな、風」
何故か、いつも隣にいて。
「ほら、タオルケットとか。このぐらいはあった方がいいって」
世話を焼いてきて。
「……そろそろ帰るか?」
それが、当たり前になっていた。
そんな男の子が、一人いる。
「ほら、この本だろ?」
「背が低くて届かないって……そりゃ本ばっか読んでるからなぁ」
「ちょっとは外に出て運動くらい――あ、失礼」
「……へいへい。お姫様は人使いが荒いことで」
その男の子は本当に無神経なのに。
「……その、さ」
「俺には……お前がなんでそんな顔してるのかは分からないけど」
「ああ、うん……言わなくてもいい。けど」
「愚痴ぐらいなら、聞くぜ?」
一緒にいても、嫌じゃない。
「お前はダメダメだからなー」
「……え、マジで? 料理できんのお前」
「今度食わせてくれよ」
「……ああハイハイわかったわかった。買い物でも何でも付き合うよ」
「全く、面倒くさいお姫様だこと」
何となく、これからも一緒にいるんだって。
そう、思ってた。
「……今度、引っ越すことになった」
「九州の方だって、一月後に」
「……嘘じゃねえよ。冗談で、こんなこと言わない」
なのに。
「多分、暫く戻って来れない」
「カピーも向こうで設備が整うまで知り合いに預けるってさ」
どうして。
「だから、こうするのも……」
そんなこと、言うの――
「……そんな顔すんなって、今生の別れじゃないだろ」
「でも……」
今にも泣き出しそうな咲の顔。
京太郎にとって、彼女のこの表情は何よりも苦手だった。
だから、京太郎は――
「うりゃっ」
「わっ!?」
両手で咲の頬を包み込む。
そのままこねくり回す様に手を動かす。
モチモチの感触が弄くってて楽しい。
「手紙、書くから。毎日は流石に無理だけど」
「……」
「あと、メールも――ってお前携帯持ってなかったか。まぁ、手紙にアドレス書いとく」
「……」
「それにSkypeとか、ビデオチャットとか、色々あるんだ」
「……京ちゃん」
「……咲?」
手を降ろす。
咲の両肩がプルプルと震えて――
「仕返しっ」
「甘い」
「ひゃんっ」
――飛び掛かって来たので撃墜する。
彼女の行動など既に読み切っているのである。
車の窓から覗ける景色が段々と知らないものに変わっていく。
長野に残した咲のことは心配だけれど、京太郎にも自分の生活がある。
彼女ばかりを気にしてはいられない。
「……やっぱり、か」
新しい環境への不安と期待。
京太郎の胸の内を読み取ったかのように、あの鎖が喉に巻き付く。
獲物を見付けた蛇のようだと、京太郎は思った。
――心なしか、道が進むにつれて、鎖の締め付けが強くなっているような。
そう考えたところで、鎖に身体の自由を奪われた京太郎には何もできない。
拘束に抗うことも考えることも放棄して、京太郎は目を閉じた。
車の窓から覗ける景色が段々と知らないものに変わっていく。
長野に残した咲のことは心配だけれど、京太郎にも自分の生活がある。
彼女ばかりを気にしてはいられない。
「……やっぱり、か」
新しい環境への不安と期待。
京太郎の胸の内を読み取ったかのように、あの鎖が喉に巻き付く。
獲物を見付けた蛇のようだと、京太郎は思った。
――心なしか、道が進むにつれて、鎖の締め付けが強くなっているような。
そう考えたところで、鎖に身体の自由を奪われた京太郎には何もできない。
拘束に抗うことも考えることも放棄して、京太郎は目を閉じた。
九州の新居に着き、引っ越し後の荷解きを終えた夜。
新しく買った机を前に、京太郎は唸っていた。
「うーむむ……」
咲に手紙を送るとは言ったものの、いざペンを手に取ると何を書けばいいのかが分からない。
これが携帯のメールならばもっと気安いやり取りが出来るのだが、今手にしているのはシャーペンと便箋。
一言二言で済ませるのは何となく勿体無い気分になる。
「あー……わからん!」
考えるのが面倒になったのでペンを放り投げて背伸びをする。
全身からペキパキと小気味の良い音が響く。
引っ越しの手伝いで重たい荷物の持ち運びを繰り返し行ったことで、身体が疲れていた。
眠気もあり筆も進まない。
「……また明日にするか」
明日に少し、家の周りの散歩をしてみよう。
その方がアレコレと考えるよりも、話のネタが出て来るような気がする。
「……」
布団を被り目を閉じる。
何処からか視線を感じた気がするけれど、今はそれより眠気が勝る。
明日から始まる新生活への期待と不安を胸に、京太郎の意識は落ちて行った。
:◆fUP.t6E/JbsR[saga]:2014/06/17(火) 19:06:16.06ID:nCDHmUt2Oそして翌日。
よく晴れた青空の下、見知らぬ風景を前に京太郎は立ち尽くしていた。
「やべぇ……」
――迷子になった。
携帯と財布を持って意気揚々と出掛けたものの、帰り道がわからなくなった。
頼みの綱の携帯はバッテリー切れ。昨夜に充電し忘れた。
道を通り過ぎて行く車の音が無情に聞こえる。
「俺もアイツを笑えねえな……」
こんな時に脳裏に浮かぶのは幼馴染の困り顔。
放って置くとよく迷子になる彼女の気持ちが少しだけ理解できた。
ただこの場合、彼女と異なるのは、迷子になっても助けてくれる存在がいないことで――
「なんばしよっと?」
「……はい?」
長い髪を二つに纏めた少女――白水哩に先導されて道を歩く。
「すいません、ホント」
「気にせんでよか」
買い物に出掛けたところ、いつもの道に見知らぬ男が困り顔でウロウロしていたので気になって声をかけてみた、とのこと。
引っ越して来たばかりで道が分からず迷子になったと正直に話すと、哩が道案内をしてくれることになった。
「そいに、私の後輩にも一人長野から来んしゃったのが居る」
「へぇ」
所々に訛りはあるが、余所者の自分にも聞き取れるように配慮して話しているような話し方。
見知らぬ土地でも親切な人はいるものだと、京太郎は胸が温かくなった。
「……そうだ」
帰ったらコレを手紙のネタにしよう。親切な人がいた、と。
もしかしたら長野にもこの人みたいに親切な人がいて、お前が迷子になっても助けてくれる人がいるかもな――なんて。
手紙の文面を頭に思い浮かべながら、色んな意味で出掛けてみて良かったと、京太郎は思った。
「ここばい!」
「ありがとうござ――え?」
そして、少女に先導されて辿り着いた場所。
そこは、自分の家の近所ではなく、これまた見知らぬ建物の前だった。
「ごめん!」
「ああいえ、そんな謝らないで下さいよ!」
テーブルを挟んで頭を下げる哩を慌てて止める。
どうやら道案内をする筈が、いつもの感覚でつい友達を招くように自分の住む寮に連れて来てしまったらしい。
「ぬっか日にこんな連れ回して……」
「いえ、そんなことは」
哩に出された麦茶を啜る。
確かに、春先にしては暑い日の中で必要以上に歩き回ることになったが、こうしてお茶を淹れて貰った上に携帯の充電までさせて貰っているのだ。
これで文句を言おうものなら罰当たりというものである。
「折角張り切ったのに……」
だがしかし、当の本人はそう思ってはいないようで。
出会った時のクールな印象とは打って変わってしょげている哩に、京太郎の頬が緩む。
――意外と抜けたところがある人かもしれない。
美人な人だけあって、その仕草から生まれるギャップは中々のものだ。
「あ! お茶お代わりいる!?」
「ああいえ、大丈夫で――」
そして、どうにかして挽回しようと躍起になっているらしかった。
頭を上げたかと思うと、空になった京太郎のコップを持って、止める間もなく台所に向かう哩の姿に言葉を失う。
「九州の女性って強引な人が多いのかなぁ……?」
手持ち無沙汰になった京太郎は天井を見上げて――急激に訪れた眠気に負けて、意識を失った。
「……本当に、ありがとうございました」
「そいぎ、また今度ー」
玄関で手を振る哩に頭を下げて、女子寮を後にする。
京太郎の目が覚めた時にはすっかり日も暮れていて、充電の完了した携帯には両親からの留守電とメールが残されていた。
「いい人……だったなぁ」
哩から見れば自分は初対面であるにも関わらず自宅で爆睡した男だ。
それなのに風邪を引かないようにタオルケットまで掛けてくれて、気遣ってくれた。
「綺麗な人は心も綺麗だとか――くしゅっ」
柄にもないことを呟いて、吹いて来た風に身を震わせる。
昼間は少し暑い日だったが、夜は少し肌寒い。
寝汗のせいか首筋も湿っているし、少し窮屈な体勢で眠ったせいか体が締め付けられたような感覚がある。
「……ちょっと速く帰るか」
携帯を開き、自分の家までのルートを検索する。
きっかけさえあれば、自分の通って来た道は思い出せる。
少しだけ歩く速度を早めて、京太郎は家に帰った。
「……」
遠くから自分を見つめる瞳と、鎖の擦れた音。
まだ、気が付かない。
その日の夜。
自分の部屋で机に向かう京太郎の筆の進みは、昨夜よりも速い。
体のダルさはあるが、昨日ほど疲れてはいないし、何よりもネタがある。
「哩さん、また会えるかな……ん?」
咲への手紙をキリのいい所まで書き終えて、椅子に背中を預けるとジーンズのポケットに違和感を覚えた。
財布と携帯以外に、ポケットに何かを入れた覚えはないが――
「……え゛?」
ジーンズのポケットから出て来たものに、絶句する。
黒い下着。女性のもの。絶対に母親のものではないことは断言できる。
「つーことはだよ……コレって……」
今日、哩の部屋に上がった時に偶然紛れ込んだとしか考えられない。
だとすると、コレの持ち主は――
「うわ……」
ずるりと、顔を真っ赤に染めて椅子から滑り落ちる。
心臓がバクバクする。
「……どーすりゃいいんだ、コレ」
親には絶対に言えない。
勿論、咲への手紙にもこんなことは書けない。
持主に返すにしてもどう渡せばいいのか。
母親に「さっさと風呂に入れ」と部屋のドアをノックされるまで、京太郎は床の上で大の字に寝転がっていた。
……今度、部屋に行った時にこっそり置いて来よう。
一晩悩んだ末にそう結論付けて、京太郎は再び哩の部屋に行くことに決めた。
お礼ということで菓子折も持っていけば不自然ではない筈だ。
色んな意味で眠れない夜を越えて、哩の住む女子寮を訪れた京太郎だが、
「あ、白水さんいないんですか……」
運悪く、哩は出掛けているらしかった。
菓子折については受付に預ければ渡してくれるらしいが、それでは例の下着が返せない。
まさか菓子折に下着を添えて渡す訳にもいかない。
京太郎が首を傾げて悩んでいると――
「部長に何か用?」
一対のヘアピンで髪を留めた女子に、声を掛けられた。
事情を話した京太郎は――勿論下着の件は伏せたが、鶴田姫子と名乗る少女に連れられて再び哩の部屋に訪れた。
どうやら彼女と哩は同棲しているらしく、いつもは二人一緒にいるとのことだが、今日と昨日は偶然巡り合わせが悪いようだ。
「君が須賀くんね。部長から話は聞いたけん、ゆっつらーとしてて?」
「ああいえ、お構いなく」
菓子折を渡すと、目の前に出される麦茶。
お構いなく、というか構うのを止めて貰わないと下着を返すタイミングがない。
そんな京太郎の心境に構いなく、姫子は京太郎のすぐ隣に座った。
女の子らしい、シャンプーの匂いが鼻を擽る。
肩が僅かに触れ合っている。耳を澄ますとお互いの呼吸の音が聞こえそうだ。
「あの……?」
「んー?」
――近くないですか?
と、言えたら楽だが言いにくい。
ニッコニッコと満面の笑みを浮かべる姫子を前にすると、喉に出かかった言葉が引っ込んでしまう。
「……何でもないです」
「んー♪」
初対面の筈なのに妙に上機嫌だ。
何処となく居心地の悪さを感じて、それを誤魔化すように京太郎は麦茶を飲み干した。
「ところで、部長って?」
「部長は部長――って、ああ。そいね」
間を持たせる為に京太郎が質問をすると、姫子は得意気に腕を組んだ。
「ふっふっふ、聞いて驚くことなかれ! 何と我らが部長こと白水哩は――あの新道寺麻雀部の部長ばい!」
「はぁ……?」
「……アレ?」
力説する姫子だが、京太郎は首を傾げることしか出来ない。
一種の滑った空気が流れ、姫子は怪訝な顔を浮かべた。
「須賀くん、もしかして麻雀は……?」
「さっぱりです、役もわかりません……あ、牌を凄い力で握って白くする技とかは聞いたことありますよ」
「――なんて、こと」
絶句する姫子だが、京太郎にはその理由がわからない。
頭上に浮かべる疑問符が増える。
「――須賀くん!」
「うわっ」
いきなり両手を姫子に掴まれる。
爪が食い込んで少し痛い。
「おねーさんがばっちり教えてあげるけんね! 安心してよかよ!!」
「え? え、え?」
わけも分からないまま、姫子に引き摺られるようにPCの前に座らされる。
「熱血指導ばい!」
「は、はいぃ……?」
そのままネット麻雀のアカウントを作らされて、強制的に「指導」が始まる。
ある意味で病的な姫子の熱気にとり憑かれたようにマウスを操作し続けて――ある対局の途中で、急激な眠気に襲われて、京太郎の意識は沈んでいった。
「ど、どうもでした……」
「そいぎ、またー」
ツヤツヤな笑顔で見送る姫子とは対象的に、京太郎の頬はげっそりとやつれていた。
恐らくネット麻雀の途中で疲れて寝落ちしたのだと思うが、それにしては妙に体が怠い。
「風邪かな……季節の変わり目は体調崩すって言うし」
今日も寝汗を多くかいたのだろう、シャツが肌にベトベトと張り付く。
早く家に帰ってシャワーを浴びて休もう。
「……にしても、意外と楽しかったな。麻雀」
打つ、というよりは打たされた、という感じで基本的なルールも覚えていないが。
役を作って上がれた時は気持ちが良かった。
本格的に始めてみてもいいかもしれない。
「姫子さんのネト麻のアカウントも教えて貰ったし――ん?」
先程、姫子が京太郎のカバンに入れたネト麻のIDを書いた紙。
確認してみようとカバンの中を探ると、覚えの無い感触が指に当たった。
「何だコレ――え゛」
取り出してみて、絶句する。
「え、え? 」
それは、中学の頃に馬鹿話をしている時に存在を知ったもの。
つい好奇心で画像検索してしまった、女性が行為に用いる『玩具』
恐らく、前回の下着のように偶然紛れ込んだのだろうが、つまりコレの持主は――
「うわわっ!?」
慌ててソレをカバンの奥に突っ込み、何が何だか分からなくなって走り出す。
混乱する頭の中でも、ただ一つ分かったことは――また、あの部屋に返すべきものが増えたということだけ。
「くしゅっ」
「風邪?」
「いえ……きっと、須賀くんです♪」
「むぅ」
それから、モノを彼女たちの部屋に返しに行く度に、何故か持ち物が増えて帰って来て。
まさか、無意識のうちにあの部屋の持って帰ってるのか――? だなんて、自分が恐ろしくなっても答えは出ない。
色んな意味で眠れない京太郎の夜は続き――
「ついに、明日……か」
ベッドで横になって天井を見上げながら呟く。
新道寺高校。
京太郎が通うことになる高校の入学式が、明日に迫っていた。
「……咲はどうなってるかなぁ」
手紙でのやり取りからは元気にしていることが伝わってくる。
しかし、長野と福岡での手紙はどうしてもタイムラグが出来る。
咲が携帯を使ってくれれば此方ももっと楽に連絡が取れるのだが。
「……まぁ、どうしようもないか」
――そして、電気を落として目を閉じると同時に、自らを縛り付けるあの鎖の感覚。
重みが増しているように感じたけれど、京太郎には何も出来ない。
京太郎はただ何も考えず、自分が眠りに付くのを待った。
京太郎が新入生として新道寺高校に入学してから一週間が経過した。
初めは浮き足立っていた新入生たちも、そろそろ新しい環境に慣れてきた頃だが――
「やっべ、俺もアイツを笑えねーなコレ……」
――京太郎は、迷子になっていた。
今でこそ共学の新道寺高校だが、かつては女子校だった。
その影響で施設も未だに女子向けのものが多く――平たく言えば、男子トイレの数が少ない。
校内を彷徨い歩き、何とか最悪の事態は免れた京太郎だが、気が付けば見覚えのない廊下を歩いていた。
「あら、新入生?」
だが、そんな京太郎に救いの手を差し伸べる者がいた。
2年生の女子生徒で、真面目そうな雰囲気を漂わせている。
2年生のクラスの前を新入生の男子生徒が歩いていることを不思議に思ったようだ。
「なにか先輩に用事ですか?」
「いえ、そういう訳ではないんですけど……」
「……んん?」
そして、京太郎に話し掛けた女子生徒が首を傾げる。
彼の言葉には訛りが感じられない。
「……失礼ですが、出身は?」
「? 長野ですけど――」
「すばらっ!」
「……すばら?」
急にハイテンションになる先輩に目が点になる京太郎。
学校内で言えば、京太郎にとってコレが始めての上級生との触れ合いだった。
話し掛けてきた2年生、花田煌の後に付いて廊下を歩く。
こうして迷子になったところを先輩に助けてもらうのは、これで2回目だ。
「じゃあ、花田先輩も長野出身なんですか?」
「ええ、中学は高遠原というところに通っていました。が、ふむ……」
煌が京太郎の顔を見つめ、目を細める。
「須賀くんは姫子や、白水部長のことは知っていますか?」
「ええまぁ、二人とも知ってますけど」
「部屋に行ったことは?」
「まぁ、何度か」
「ふーむ、成る程」
歩きながらも、考え込むように顎に手を添える煌。
やがて納得がいったのか、手をポンと打ち付けた。
「成る程! 二人の彼氏とは、須賀くんのことだったんですね!」
「……は、はい? 何ですと?」
「ご存知ないのですか? 2、3年の間では結構噂になってますけど」
初耳である。
驚きに京太郎の足が止まる。
「寮住まいの二人の部屋に足繁く通う金髪の男子がいると。今までそういうことはなかったし、話題になったんですけど」
「いやでも、それだけで」
「ほら、女子って恋バナが好きでしょう? それに生徒の比率も女子の方が多いですから」
「そんなもんですか……」
「そういうものですよ。最初は、どちらの彼氏かで盛り上がっていたのですが、その内あの二人なら共有でもおかしくはない、ということに」
「おかしいですよ白水さん!」
「むー……本人たちも満更ではないようなので、ほぼ公認の事実のようなものだったのですが」
「……」
「その様子では、噂は間違いだと?」
「……ええ。間違いです」
そんな解消が自分にあれば、長野にいた頃に彼女の一人や二人は出来ていた。
……いや、彼女が二人はおかしいけれど、それでも。
「とにかく、俺はあの二人とはそんなんじゃ――」
「すーがくんっ♪」
否定しようとした京太郎の声を遮るように。
廊下の角から姫子が姿を現した。
猫撫で声で京太郎の手を取る姫子に、煌の目が点になる。
姫子がこのような態度を取るのは、今までは部長に対してだけだったからだ。
「部活動紹介、見てくれた?」
「あ、はい。放送されてたヤツですよね」
「部長の勇姿! 素敵しゃったね!?」
「え? ええ、まぁ……」
数日前に放送された部長の哩による麻雀部紹介。
正直、見てる側としては哩のテンパった姿ばかりが印象に残ってロクな紹介になっていなかったが。
この先輩のフィルターを通して見れば、哩の行動は何もかもが素晴らしいものに映るらしい。
「……成る程、成る程」
「はっ」
そして気付けば煌にジト目で睨まれていた。
『何だ、噂は本当なんですね』
口は動かないが、目がそう語っている。
確かに、この懐いた猫のように京太郎に擦り寄る姫子の姿を見れば、そう受け取らざるを得ないだろう。
「それでは、馬に蹴られる前に。私はここで」
「んー? 花田、いつからそこに?」
「いましたよ、ずっと」
「あ、待っ」
踵を返し、自分のクラスに去って行く煌の後ろ姿に、思わず手を伸ばすが、
「ん……♪ ぬっかぁ♪」
その手も、姫子に取られて頬擦りされる。
姫子の体温を肌で感じながらも、京太郎は廊下に一人ぼっちでいるような気分になった。
――きょーたろっ♪
――すーがくんっ♪
「ハァ……」
京太郎は、自室の机に頭を抱えて突っ伏していた。
理由は言うまでもなく、二人の先輩。
最近では少し校内を歩けば必ず二人のどちらかに遭遇し、姫子なんかは部活中でもベッタリだ。
美人な彼女たちに慕われているのは素直に嬉しい……が。
――京ちゃん?
「……何でかなぁ」
このまま二人に流されて、噂のように付き合い始めるのは。
何故だか、長野に置いて来た幼馴染に悪いような気がして。
「花田先輩辺りに相談してみようかなぁ……」
結構しっかり者みたいだし、哩と姫子がいないところで誤解を解いて相談してみれば上手くいくかもしれない。
机から起き上がり、ポケットから携帯を取り出してアドレス帳を呼び出す。
上手く行くことを願って、京太郎はメールを打ち始めた。
「……では、本当にあの噂は間違いだと?」
「ハイ。確かに、あの二人は俺を好いてくれてますけど……」
「ふーむ……?」
部活が終わった後の部室。
他の部員たちは既に帰宅していて、部室に残っているのは京太郎と煌だけだ。
「確かに……あなたの態度をよく見てると、カップルという感じはしませんが……」
「ええ……ただ、あの二人にどうすればいいのか分からなくて」
哩は福岡に来たばかりの自分を助けてくれた人だし、姫子は好意を向けてくれている。
知り合ったばかりの女性二人にここまでの好意を向けられたことはなく、二人に対してどう接していけばいいのかがわからない。
そして、二人の部屋を訪れる度に、自室の机の引き出しに色々な物が溜まって行くのも悩みの種の一つだが――それは、流石に煌には話せない。
「どうでしょう、いっそのこと本当に付き合ってしまうのは」
「うーん……だけど何だか流されてる感じがするし、それに……」
「それに?」
――長野に住む幼馴染に、何て言えばいいのか。
「……いえ、何でもありません」
「? まぁ、でしたら……もうガツンと言うしかないのでは。あの二人も頑固ですから、今のままでは流されるだけです」
「そうですか……わかりました、ありがとうございます」
心苦しいが、ハッキリと言葉で拒む必要がある。
そう考えた京太郎は、煌に礼を言って帰路に着く事にした。
「待っとったよー」
昇降口で煌と別れ、校門から出るとすぐに姫子が飛び付いて来た。
まるで帰って来た飼い主を見つけた犬のようだと京太郎は思ったが、今回からはそれを放って置く訳にはいかない。
姫子の肩を押して、自分から引き離す。
「え……?」
「ごめんなさい、先輩……でも、困るんです。そういうの」
姫子の顔が固まる。
自分が何を言われているのか分からない、そんな表情だ。
「部活でも面倒を見てくれるのは助かりますし、有り難いんですけど……俺、先輩の彼氏じゃないです」
「……」
「だから、その……困ります、こういうの」
「……」
姫子の肩から、バッグがするりと滑り落ちる。
「……すいません、それじゃ」
立ち尽くす姫子に頭を下げて、その場を後にする。
申し訳ない気分で胸がいっぱいだけど――このまま、流されてしまうよりはいい。
「……」
姫子は、その遠ざかっていく背中をひたすら見詰め続けていた。
日が暮れても、携帯に着信があっても、門限の時間が来ても。
哩が心配して迎えに来るまで、ずっとずっと、立ち尽くしていた。
「はあぁ……」
家に帰って来た京太郎は、自室のベッドに寝転がって深々と溜息を吐いた。
肉体的には大した事はしていないのに、どっと疲れた。
「あー……もうちょい、上手く言えただろ、俺」
そして、校門を出た時の姫子の顔を思い出して自己嫌悪する。
明らかに酷くショックを受けていた。
もう少し言い方を気を付ければ良かった。
「……けど、ガツンと言えって花田先輩が言ってたしなぁ」
しかし、哩にもコレと同じ事をしなければならないと考えると気が滅入る。
土壇場でヘタレてしまうような気がする。
「あー、恋愛って難しいんだな――ん?」
頭を抱えてベッドの上でゴロゴロしていると、枕元に置いた携帯から着信音。
着信画面には見知らぬ番号が表示されている。
「……誰だ?」
妙に長く続く呼び出しコール。
京太郎は恐る恐る携帯を手に取り、通話ボタンを押した。
『……もしもし? 聞こえてますか? 須賀京太郎くんの携帯ですか?』
「……え?」
スピーカーから聞こえてきたのは、そこまで久しぶりと言う程ではないのにも関わらず、とても懐かしく感じる声。
いかにも携帯に不慣れな声音で、緊張している様子が伝わってくる。
聞いていて心配になるけど、どこか安心感のあるこの声は――
「咲っ!?」
『わっ!?』
思わず、叫ぶように大きな声を出してしまった。
電話の相手もかなり驚いたようで、スピーカーを通じて携帯を床に落とした音が響いた。
『だ、大丈夫かな? 壊れてないよね?』
「あ、ああ……大丈夫、聞こえてるよ」
おっかなびっくりといった声で確信する。
間違いない。
この電話をかけてきた相手は。
『もう、耳元で叫ばないでよ』
「だから、悪かったって。まさかお前が電話してくるとは思わなくてさ」
『買ったんだ。私も高校生になるし』
故郷に置いてきた、幼馴染だ。
「へぇー。お前にも扱える携帯があったんだな。あ、らくらくフォンってやつか?」
『違いますー。ちゃんとした最新機種ですー』
「なんか心配だな。詐欺とか大丈夫か?」
『馬鹿にしないでよ。部長だって色々教えてくれるんだから』
久しぶりの気安いやり取りが京太郎の心を軽くする。
今のクラスメイトとも大分打ち解けてはいるが、やはり彼女との会話は別だ。
「ん? 部長?」
『うん。私、部活に入ったんだよ』
「へぇー、帰宅部かと思ってた」
『ふふ……何だと思う?』
「んー……文芸部」
『違いますー……正解は、麻雀部でした!』
「ほー。これまた意外な」
『こっちでも色々あって。京ちゃんも麻雀部だったよね?』
「そうだけど」
正直、意外だ。
京太郎からしてみれば咲は鈍臭いイメージが強く、麻雀でもチョンボしてる姿が浮かぶのだが。
「……まぁ、もしかしたら。全国大会で会ったりしてな」
『えー? 京ちゃんが?』
「へへ、舐めんなよ。これでも先輩に色々と特別指導受けてんだよ」
『……それって、手紙にあったあの先輩たちのこと?』
「ああ、そうだけど」
『ふーん……』
「な、何だよ?」
『べーつーに? 何とも思ってないですけど?』
嘘だ。明らかに拗ねている。こうなった咲は非常に面倒くさい。
前までなら頭をグリグリ撫でたりして無理矢理誤魔化すのだが、生憎とコレは電話である。時間がかかりそうだ。
「はぁ……」
『何、その溜息』
京太郎は、今晩の大半を咲のご機嫌取りに費やすことになった。
翌日の放課後。
「ふあ……」
大きな欠伸をしながら部活に向かう。
深夜までの長電話は何気に始めての経験だった。
今頃は咲も同じ様に目の下にクマを作っているに違いない。
「ん……」
大きく背伸びをする。
昨夜の咲との通話のおかげで体は重いが心は軽い。
今なら、哩や姫子ともちゃんと向き合える気がする。
「……よし!」
部室のドアの前で頬を叩いて気合を入れる。
京太郎は、勢い良く戸を開き――
「……え? 部長も鶴田先輩も、今日は休みなんですか?」
――盛大に、肩透かしを食らった。
次の日は、哩は登校したが姫子が休んだ。
その次の日は、姫子が登校したが哩が休んだ。
更にその次の日は、二人とも学校を休んだ。
次の日も、その次の日も、一週間経っても。
そして、暫く二人の姿を見ないまま日付が過ぎていった。
――ピンポーン。
「ん、宅配か?」
両親が共にいない日。
そろそろ夕食の準備をするか、という時間帯に来客を告げるインターホンの音。
「はいはー……い?」
「きょーたろっ」
「えへ、来ちゃった」
ドアを開けた先には。
暫く部活に顔を出していなかった、哩と姫子が立っていた。
「えっと……」
どうして、ここに?
その問いをする前に、姫子が飛びかかってきた。
「うわっ」
「んー……♪ やっぱり、この匂い……よか♪」
腕を回してしがみ付く姫子はちょっとやそっとの力では引き離せそうにない。
かと言って、本気で突き飛ばせば怪我をさせてしまうかもしれない。
どうにかしてくれと哩に視線を向けると、申し訳なさそうに両手を合わせられた。
「話があっけん、上げてくるっばいね?」
とりあえずは、この状況をどうにかしないといけない。
京太郎は、姫子に抱きつかれたままコクコクと頷いた。
哩と姫子を自室に案内し、小さな机を挟んで向かいあう。
哩に窘められて口を閉じているものの、こちらに視線を向けてウズウズしている姫子の姿は『待て』を命じられた子犬を連想させた。
「私らは京太郎に自分の気持ちを押し付けよった」
「……」
「すまん、迷惑かけた」
「いえ……そんな」
深く頭を下げる姫子と哩だが、二人にそんなことをさせる権利は自分にはない。
美人である二人に言い寄られて満更でもない気分になっていた自分がいたのは事実だし、無神経な突き放し方は姫子を傷付けた。
最初にハッキリ言えばこのように引き摺ることもなかった筈だ。
「姫子」
「はいっ!」
哩が顎で差し、姫子が立ち上がって京太郎の隣に座る。
何をするのかと疑問符を頭上に浮かべた京太郎だが――
「んっ♪」
「んぐっ!?」
直後に、姫子に深く口付けをされる。
抵抗する間もなく姫子の舌が口内に入って来る。
何かの塊が姫子の口から押し込まれ、京太郎の喉を通っていく。
「そいけん――京太郎にも、私らと同じ気持ちになってもらうことにした」
哩の言葉は、耳に入らない。
ただ、自分が姫子に襲われているということだけ、理解できた。
「あっ……」
「あはっ♪」
鎖に縛られる手足。
とっくのとうに慣れた筈の感覚。
いつもと違うのは、自分にしか見えない筈の鎖が姫子も一緒に縛っているということと。
「恐がらんでよか。どうせ、すぐに気持ち良くなるばい」
繋がれた鎖の先に、女の人が立っているということ。
「ああ……」
きっと、こうなるのは。
自分が、この鎖の存在を感じたその日から、決まっていたのだ。
「ふふ……おねーさんが全部まとめて貰ったげるけんね♪」
先輩のことも、幼馴染のことも、何もかもを忘れて。
京太郎は、体の奥から突き上げて来た衝動に身を委ねた。
――私には、幼馴染がいる。
「 」
人の気持ちなんか知らないで。
「 」
ズケズケと入って来て。
「 」
放って置けばいいのに。
「 」
それはこっちの台詞なのに。
「 」
何故か、いつも隣にいて。
「 」
世話を焼いてきて。
「 」
それが、当たり前になっていた。
そんな男の子が、一人いる。
その子は、九州に引っ越しちゃったけど。
手紙や、電話での会話は途絶えなくて。
離れていても、繋がってるんだって。
そう、思ってた。
なのに。
どうして。
どうして、そんな顔をしているの?
どうして、私のことを忘れちゃったの――?
携帯を叩き付けて、送られてきた映像を消す。
吐き気が抑えきれない。
口からよく分からない何かが込み上げて、フローリングの床を汚す。
「げほっ……」
わからない。
京ちゃん、どうして。
わからない。
答えてくれる幼馴染は、隣にいない。
わからない、わからない、わからない――
「……ああ、そっか」
シャーペンを手に取る。
「京ちゃん、優しいから」
シャーペンで左の手の平を突き刺す。
血が滲む。
「騙されちゃったん、だね」
抉りこむように深く突き刺す。
血が溢れる。
「だったら……私が」
振り上げて、刺す。
「目を覚まして、あげないと」
何度も、何度も。
「それが」
芯が、肉に食い込んでも。
「幼馴染の、役目だもんね」
止めることなく。
「ねえ?」
何度も、繰り返して。
「京、ちゃん?」
深く、突き刺す。
悪い手だ。
京ちゃんを疑って、携帯を叩きつけるなんて。
この手は、悪い手だ。
手の平から溢れる血。
フローリングの溝を染めて、作られた赤い模様は。
「待っててね……京ちゃん」
千切れた鎖のようにも、見えた。
【繋がれた先に】